さきに近況から。
金曜日は午前中に小説を書き、午後に阪神Cの記事を書いた。
◎オフトレイル〇ナムラクレアだったが、マッドクールの1400を疑問視して惜しくも外す。
土曜日は朝から有馬記念の全頭診断を仕上げ、11時からスピの講座を開催、夜はまた有馬記念の記事を書いた。
今日は朝からホグワーツレガシーをプレイし、ホグワーツ魔法学校を歩き回ったのち、有馬記念をグリーンチャンネルで見た。
◎ダノンデサイルは強風のなか逃げて、向かい風を浴びて三着まで。☆レガレイラが差し切って悶絶。シャフリヤールは大外枠だったのと、BCターフでローシャムパークとの着差を見て切ってしまった。悶絶。▲ローシャムパークは引っかかって力を出せず。身体能力だけなら怪物急なのだが。
その後ヒプノセラピーの仕事をして、このあと21時からヒプノchのライブ配信。
忙しくしているが、最近やる気エネルギーが最高潮に燃えてきた。
小説を書きながら、ほかの仕事にもバランスよく取り組めるようになってきた。
ヒプノの才能がありすぎて(自画自賛)、自分でも驚くほどの鮮やかな解決の連続で、もっとやりたい、とまた思えるようになってきた。嬉しい。
前にも引用したかもしれないが、敬愛する司馬遼太郎があとがきかなんかで「人間は自分の才能を発見し、活かしたときに幸福を感じる」的なことを書いていた。
まさにそれを実感している。
小説も、競馬も、ヒプノセラピーも、すべてが面白い。
小説に関しては読者ありきのものなので、いまのところひとりよがりに過ぎないかもしれないが、どれに対しても内なる才能のきらめきを実感する。
とくにヒプノは、昨日と今日、抜群のセッションが出来た。
今日来てくれた方は五十二歳の男性だったが、その人に対して、俺は物凄い熱い才能論を語ってしまった。
俺は六歳から小説家になりたかった。
印税というシステムを知り、「これだ」と思ったのだ。
最初の動機は、会社員以外の生き方があるなら、それだ、という動機だった。
だが、十代の時に「人間失格」や「源氏物語」、「赤と黒」や「罪と罰」、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」、そして「坂の上の雲」を知って、物語の素晴らしさを知った。
俺も、物語を紡ぎたい、と思った。
動機が変わったのである。
俺は現在三十六歳だが、六歳から三十年も書けなかった。
才能は、なかった。
しかし、脱サラして馬券師として活動したり、それも飽きてセラピストになったりしているなかで、「才能の育て方」というものを見出していった。
十五回ほど小説家になる夢を挫折していた俺だったが、三十五の夏に、ようやく、物語を書けるようになった。
三十五歳のとき、昔からの夢だったタワマンの最上階に引っ越しをした。
そして、夢だった世界旅行に行った。アジアとヨーロッパに合計百七十泊ほどの長期の旅をした。
そのとき、俺は燃え尽きていた。
夢は、すべて叶えてしまった。
田舎のクソガキだった俺の夢なんて、所詮はその程度のものだった。
人間は、夢、希望、未来、目標、野心、そういったものがなくなると、どこか魅力が薄れる。
俺はそれを自分で実感していた。
俺の友達にJRA元騎手の義英真くんという子がいるのだが、彼と食事に行ったとき、彼は言った。
「仲間とのチャンネルを、登録者百万人まで伸ばしたいんです」
俺はその話を聞いて、思った。
「若いっていいなあ」
義くんは俺の七個年下で、週に十本も動画を投稿して、がむしゃらに、死ぬほど頑張っていた。
俺も脱サラする前は、毎日一時間半睡眠で、取り付かれたように競馬予想動画を投稿していた。
そのときの気持ちを思い出しつつ、「ああ、彼はいま、まさに燃えているんだな」と、どこか懐かしいような気持ちになって、応援した。
だけど、そのとき、心の一真が言った。
「お前、ダセえよ」と。
隠居ぶるには、早過ぎるだろ、と。
俺は、義くんの情熱に、ふたたび熱さを分けてもらった。
「俺も、また、燃えたい」
その気持ちが、俺を突き動かした。
それで、俺は小さなころからの夢だった小説に、もう何度も挫折していたのに、挑戦することに決めた。
情熱は、火と同じである。
蝋燭から蝋燭に火を分けても、元の火は減らない。
ただ、増える。
愛も同じである。
情熱や、愛や、知恵や、考え方や、アイディアや、エネルギー、人間が発する無形のものすべて、それらは、増える一方なのだ。
だから俺たちは、洞窟のなかで焚火を囲む生活から、新幹線や飛行機を動かして、世界中を旅したり、家でパソコンで顔も知らない誰かとコミュニケーションが取れるようになった。
知恵や愛が増え続け、アイディア同士が交接し、無限の可能性を産むからこそ、俺たちの快適で素晴らしい生活は出現した。
俺は、情熱の火を受け取った。
で、本題。
俺は小説を書く前に、まず才能の言語化から始めた。
一言で言うと、才能とは、巨大なエネルギーのことである。
俺が何かに才能を感じるとき、それは、自分の心が動いたときだった。
喜怒哀楽、どの感情であれ、それが突き動かされるとき、才能を感じた。
感情が動くと書いて、感動である。
だから、才能とは、人の感情を揺さぶるときに感じるものだ、と言語化した。
そして、人の感情を動かすものとはなにか?
それは、「人の感情」そのものなのだ。
俺たち人間は、誰かの感情で、自分の感情も動く。
共感力と言い換えてもいい。それは人類の基本システムなのだ。
そして、その感情の量が巨大であればあるほど、自他の感情も動く。
つまり、巨大な感情、巨大なエネルギーが、心を揺さぶったときに、それを才能と感じるのだ。
そして、「誰か」とは、物語のキャラクターであってもいい。
ところで、と俺は考えた。
その巨大な感情は、いかにして得られるのか?
そして俺は理解した。
巨大な感情とは、巨大な目標、志によって生み出されるのだ、と。
とてつもなく高い目標、不可能に思えるような目標こそが、とてつもないエネルギーを生み出すのだ、と。
だから俺は、アヌビスを書く前に決めた。
「漫画化して、アニメ化して、映画化して、そのシリーズがネトフリで配信されて、全世界で一億人がアヌビスのファンになる」と。
それを競馬垢でもスピ垢でも発信した。
三十五歳にして、気が触れたかのようなあり得ない目標である。
だけど、人に笑われるくらいのデカい夢じゃなきゃ、追う価値がない。
そして、それを決めた瞬間、燃え尽きていた俺の内側から、震えるほどの巨大なエネルギーが爆発した。
やはり、巨大な目標は巨大なエネルギーを産む。身を持って実感した。
そして、ここでもう一つ。
巨大な目標を立てたとき、それを本気で信じるには、圧倒的な自己肯定感が必要だということ。
誰に笑われても気にしない、自分だけはそれを信じるという、圧倒的な自己肯定感である。
俺はこれを「幸せな勘違い」と呼んでいる。
幸せな勘違いが出来たやつのなかで、成功するのはほんの一握りだろう。
だが、幸せな勘違いができなければ、そもそも挑戦すらできないのだ。
才能について、改めてまとめる。
①圧倒的な自己肯定感がある
②笑われるくらいデカい夢を持つ=幸せな勘違いをする
③超巨大な夢が、超巨大なエネルギーを産む
④その超巨大なエネルギーが、他人の心を動かす
⑤それを才能と呼ぶ
これが俺の言語化だった。
馬券師として、セラピストとして、自分で言ってしまうが、一流になった俺の、実体験からくる言語化であった。
その仮説を基に、俺は小説を書き続けた。
そして、アヌビスが自己の弱い部分を受け入れるシーンを書いたとき、なろうの方の感想で「泣いた」というコメントがいくつかあったのを見て、俺はガッツポーズをした。
泣くというのは、まさに、感情が動いた証拠だからである。
俺はこのとき、自分の才能を確信した。
才能とは、感情を動かすことと定義しているのだから。
だから、そのあとは読者の反応もある程度は気にしつつだが、存分に腕を振るえるようになった。
という話を五十二歳の男性に、セッションのあとに熱く語った。
彼も、意気に感じたようだった。
震えてた。目が燃えてた。
余談だが、俺は文章だけでなく、トークでも他人の感情を動かす才能がある。
義くんから貰った情熱の火を、その方に分け与えた瞬間であった。
人には縁がある。つながりがある。
それは感情や、愛や、情熱や、知恵や、アイディアの繋がりである。
そういうことを実感した一日だった。
さて、ファン一億人を真顔で目指している俺だが、ひとつ課題がある。
それは、ログラインだ。
現在のログラインが「最弱の厄病神は転生し、武功の天才となり、出生の秘密を追い、世界を救う。」なのだが、これがいまいち面白くない。
あらすじはわかるのだが、皮肉や意外性、毒のようなものがない。
これを脳の底に沈めて、「いいログライン浮かんで来い」と願いつつ、いろいろ考えようと思う。
面白いログラインが出来れば、もっと新規読者は増えるはず。
がんばる。