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小説がうまくなりたい

 オードリーの若林正恭さんのエッセイを読んだ。タイトルは『ナナメの夕暮れ』、単行本の刊行は6年前で、収録されているのは、それよりも前に雑誌のダヴィンチで連載していたコラムだという。
 ぼくはオードリーが好きだ。中京テレビの長寿番組を長らく見ていて、いつもめちゃくちゃ笑っているし、オードリー目当てで日向坂の番組を見て、少しアイドルに詳しくなったりもしていた。
 ちなみに、著作はすばらしかった。
 ほんとうにおもしろく、また興味深く感じられた。

 ほんとうにいいものを読んだときは、じつはあまり感想がないものだ。
 これはとくに小説において顕著で、「よかったです」のひとことで締めることが多い。そもそも言及しないこともある。今となっては、のちの自分が、あのころはなにを読んでいたのだっけと思ってソートをかけたときにわかるようにしているだけのことが多い。
 どちらかといえば、悪いと感じたもののほうが、文章の量が多くなる。先日、ツイッターで最近観たドラマについて書いたときも、明確に問題があると感じた作品のほうが、はるかに文章が長くなった。
 それについて、ぼくはたまに考えることがある。
 さまざまな要因が絡み合っているように感じる。
 たとえば、いいものは、すなわち高尚になっており、良さのメカニズムを赤裸々に解明してしまうことで、そこに宿っている一種の神秘性が喪われるような気がしてしまう。またそれでいて、「よさ」とは完成しているものだ。他者が介在する余地がない。より厳密にいえば、他者である自分が介在する意味がない。

 対して、悪さには介在の余地がある。根の部分の欲求では、「こうしていたらよくなっていたのではないか」という、協力する姿勢がある。それは、その作品単体を指して言うというよりも、のちに生まれるかもしれない「悪さ」を、少しでもよいものに近づけようとする意志に因るものかもしれない。
 それも、強いエゴではある。
 が、すべての物事はエゴなので、しかたがない。

  *

 インターネットに住んでいる批評家を見たとき。あるいは、知り合いが、漫画やアニメの批評をしているのを聞くとき、いくつかの感情がぼくのなかに去来する。
 説明がむずかしいのだが、つまるところ、なぜそんなにも架空の話に興味が持てるのだ? という話になるのだと思う。
 いや、もちろん架空の話に興味を持っていい。問題は、架空の話にそれだけ興味があるのなら、なぜ自分で書こうとしないのかという、根本的な疑問だ。
 それは、批評をおこなう際の機能的な問題にも繋がる。
 たとえば、この話の××な部分がダメだ、という論調で批評を繰り広げているひとがいたとする。そのひと自身は、創作をおこなったことがない。だから、創作をおこなううえでの障害や難点、実質的な問題などを、肌で知らない。となれば、その指摘は、そもそもが成り立っていないことになってしまう。
 ぼくがプロのピアニストの演奏を見て、「これ、奏者に指があと7本くらいあったらさらに技巧が富んでよかったのに」と感想するようなものだ。人間は自由に指を増やすことができないという前提さえも知らないまま、訳知り顔でものをくちにしていることになる。

 ぼくがその事実に気づいたのがいつのことだったか、今となっては思い出せない。ぼくは中高のころ、さまざまな小説や映画のレビューブログを運営していた。というと、とても専門的な内容のブログに思われるが、実態は、信じられない量の雑文のなかに、そうした批評分も混ざっていたという程度のものなのだけど。
 ぼくは良い小説を読んだら、「これは良いから、まあいいだろう」とうなずき、悪い小説を読んだら、シュババッと動いて「はいここがダメ!こいつはこれがダメ~!」と書いていた。
 そんなことを繰り返しているうちに、ふと思った。
 この行為に、果たしてなんの意味があるのか?
 ぼくのような素人がものをジャッジして、なにを産むのだろう? もしかりにブログが収益化していたら、多少は小遣い稼ぎになったかもしれないが、べつにそんなこともしていない。いや、お金の話は関係ない。稼いでいようがいまいが、そんなことは関係ない。
 論点は、その行為にいかなる生産性があるのか? だ。より単純にいえば、そうすることでどう世のなかに良い影響を与えられるのか? だ。だから、ぼくが余分にお菓子を買えるようになるかどうかは関係ない。

 ぼくの結論は「意味がない」だった。前述したとおり、そもそも自分で書かないのだから、自分の指摘が現実的に治せるものであるのかどうかさえわからない。
 そして、「こうすればよくなるのに」という指摘も、いつまでもそれが実行されないから実利をともなわない。もしもぼくの書評を読んだ物書きが、その批評をもとに創作して傑作が書けたなら、そこではじめて意味のある行為といえるかもしれないが、そんなひとは一向にあらわれない。
 で、あるならば、これはただの自己満足にほかならない。

 しかし、それとはべつに、ぼくは自分の言っている批評の中身には自信があった。おそらく、まちがったことは言っていないはずだ。理論上、こうすればおもしろい小説になるという、言葉どおりの机上の空論がそこにはあった。
 それは言葉の集積だったが、同時に、大きな無意識のスペースでもあった。それから何年も経って、つまらない会社員をやっていたころに、過労でからだを壊し、ほとんどなんの意識もないままに書いた長編小説は、自分でも気づかないうちに、当時の批評で積み上げた空論のもとに展開されていた。

 そして、そうした批評は、いいものを褒めるよりも、悪いものがなぜ悪かったのか論じるほうが、圧倒的に内容が多かった。
 だから、ぼくは今でも、「なにが嫌いかよりもなにが好きかで自分を語れ」というネットミームに首をかしげる。
 好きと嫌いは表裏一体だ。なにが嫌いかを語るとき、それは好きなものの裏返しとなっている。ぼくは、自分がどうしても許せない、小説をまねたようなゴミクズでゲロカスのただの文章のかたまりに向けて呪詛を吐きまくった結果、自分がこころから好きだと言える創作をおこなうことができた。
 それは若さの原動力であり、そのままの意味でリビドーだったのだろうと、今では思う。

 プロか、アマかはどうでもいい。
 自分でものを産んでいる人間のみが、リングにあがっているとみなされる。
 リングにいない人間が、そのパンチでは相手は倒れないぞ、はやく17人に分身して四方八方から殴れと叫んでいたとしても、今日のお客さんはやけに野次がでかいなと思うだけだ。

  *

 エッセイが好きな理由に、「それが現実に由来するから」というものがある。
 小説を書いていると実感するが、現実であるというのは、それだけでほんとうに大きな強みだ。小説は虚構の話で、けして現実ではない。極めて現実に近しくすることで、ふしぎな逆転現象が起きて、ときおり本物を超えることのある偽物だ。
 それでも、しょせんは偽物だ。
「小説は自由なことが書けていいね」とひとに言われることがあるが、それは大きな勘違いだ。虚構の世界、ことに娯楽小説の世界では、自由なことなんてほとんど書けない。筋書きのある話を展開しているなか、主人公がいきなり現れた通り魔に刺されて死んで終われば、編集にも読者にも首を絞められる。
 対して、現実では前途ある若者が突然刺殺されたとき、その展開に文句を言うものはいない。現実のほうが、はるかに自由なことが起こりうる。

 なにがいいたいかというと、実際にそういうことを考えるひとがいる、という前提のおかげで、エッセイは純粋でいて自由なノートになっている。
 小説と違い、そう考える登場人物がいることが、なにかしらの隠喩である必要がない。ただ単に、思うことをそのままに書いていい。だからこそ、とてつもなくつまらないエッセイがあれば、反面、とてもおもしろいエッセイが生まれることがある。
 こうした一連の話は、かりに現実に即したエッセイであろうとも、それを文章に起こしてひとに伝えようとした時点で、自動的に物語化がおこなわれるということがわかったうえで、ぼくも言っている。

 ところで、ぼくは文筆家ではない人間が、とてもいい文章を書いているとき、こわく感じることがある。自分たちの存在意義が薄れるような気がするからだろう。
 とくに文章をなりわいにしていない人間が、これはすばらしいと素直に思わせる文章を書く。シンプルに脅威だ。
 が、それでいて、当然のことだとも思う。
 文筆は、総合格闘技だとつねづね感じさせられる。文章は、そのひとのすべてがそこにあらわれるのだ。これは誇張ではなく、ほんとうにすべてが出る。とくに小説においては、隠しようにも隠せないほど、完璧にすべてが出る。
 すべてとは、そのひとの感性であり経験であり知識であり倫理観であり、配慮の仕方であり、聞き手を飽きさせない話術であり、論理力であり、価値観であり人生観であり、また死生観であり、そして、すべてである。

 なので、家でじっくりモニターに向き合っているのが主体の人間よりも、いろいろな場所でさまざまな経験を積んだ、普通の語彙力のある人間のほうが優れた文章を生み出したとて、とくにふしぎはない。
 文章のおそろしいところは、三島由紀夫のように筋トレによって鍛えられる部分があると同時に、筋トレではどうにもならない部分も要求されることだ。
 そして多くのひとは、自分に足りていないのがジムに行くことなのか、それともジムに行かずにべつのところに行くことなのか、どちらなのか判断がつかない。
 もちろん、ぼくにもつかない。
 ゲームのようにステータスが表示できればいいのだが、そうもいかない。

 ともあれ、そうした疑問は、次にこうした疑問を呼ぶ。
 なぜ、それをわざわざ小説にするのか? だ。
 言いたいことがあるのなら、過度に物語化しないで、直接的に書けばいい。テーマとやらがあるのなら、暗喩にせず、そのまま書けばいい。そのテーマの内容に即することで生まれるメリットとデメリットを並列すれば、ある程度説得力のある主張になる。
 なのに、どうして小説にしようとするのか。

 これは、昔からぼくのなかにある大きな疑問だった。
 とくに、つまらない小説を読んだあとは、ばかにする意味ではなく、本心から「なぜわざわざこれを書こうと思ったのか」という質問が飛び出る。
 なぜ、エッセイではなく、小説にしようとするのか。それを物語化することで、あなたはなにを浮き彫りにして、なにを隠蔽しようとしているのか。
 
 当然、ひとに対して感じる疑念であるので、自分に対しても同じように思う。
 数ある自問のなかでも、これはかなり自答しづらいものだ。
 それでも毎回、これがどうして小説というかたちでなければならないのか、可能なかぎり定量化して、それが基準値をクリアできていた場合にのみ、完成稿にする努力を開始している。
 詳しい採点法は書かないが、それは加点式ではなく、減点式である。さらにいうなら、最終的に採点の型が取れなくなったときに、しかたなく実行されるものでさえある。

  *

 毎年、今くらいの時期になると、自分の欲求をきちんとたしかめることが多い。4月や5月なんかのスタート時期なので、べつにおかしなこともないのだが。
 今のぼくは、小説がうまくなりたいと思っている。
 細かく解体すればいろいろな言い方になるのだが、集約すると、うまくなりたいという話になる。

 小説というものが、あまりにもわけがわからなすぎるので、少しは理解したいと思っている。

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