本多勝一先生の「日本語の作文技術」を読んだ。
理由は、日本語の作文がうまくなりたかったからである……し、名著としてよく名が挙がるので、いい加減に読もうと思ったからだ。
本書は、本多先生の半世紀前の講演がもとになっているので、時代的にはどうしても古い部分も多い。チョムスキーの生成文法を援用して語っている主張などもあり、注意して読まなければならない書籍だと感じた。
なお、同氏のかなり強めの保守姿勢が各所に滲み出ているあたりは、まあ笑顔で読める程度ではある。
またこの本は、あくまで伝達力の高い文章の書き方を科学するということが目的で、文学的な領域にかんしては保証しないと前書きしてある。
が、ぼくは気にしなかった。むしろ歓迎していた。
ぼく個人としては、詩情とやらが宿る文章でさえも、簡潔さと明瞭さというものは大切であると感じているし、さらにいうなら、簡潔で明瞭な文章にこそ詩情を感じるという言い方で問題がないと思っているくらいだ。
わかりやすくいうと、ぼくは機能的な文章こそがもっとも巧いと感じる。高い技術力こそが、文章に魅力を与えると考えているということだ。
その証拠に、この部屋をざっと見回したときに目に入る本で「文章がうまい、きれいだ」と感じたのは、ユヴァル・ノア・ハラリの書籍を和訳している柴田裕之先生や、ウィトゲンシュタインの研究で有名な哲学者の永井均先生だ。両名とも、文学者ではない。
あるいはプロの格闘ゲーマーのときどさんが書いた自伝書も、わかりやすくて優れた文章だと感じた。
ただ単純に、日本語を簡潔に、わかりやすく書く。べつに語彙を限っているではなく、長文を書かないというわけでもなく、高度な技術を使いながらも、読んでいてまったく詰まることのない文章を、ひたすらに書く。
シンプルに感心するし、つねに目指しているところである。
だから、こうした技術論を読むことには意義を感じる。
なお、書評として体系的に書いていくつもりはないので、本書で触れられていた各トピックを拾い、みずからの作文観を整理するかたちとしたい。
〇自分自身の文章について
大前提なのだが、ぼく自身は、きちんと日本語の勉強をしたことがない。
それは、ぼく自身が小中高時代にほとんどまじめに勉強しなかったせいだと思っていたけれど、十八のときに、そもそも日本では母国語の文法をきちんとしたかたちで学習することがないと聞いて、とても驚いた。たとえまじめに学校に通っていたとしても、あまりしっかりと学ぶものではないらしい。
国語の授業といえば、漢字や仮名の書き取りから、文章の読解、あとはせいぜい感想文などの簡単な添削をおこなうだけで、「読みやすい/正確な文章の書き方」をじっくり教わるということはない。
つまり多くの人間が、話すかのようにして文章を書いているということになる。あるいは、ほんとうに正しいのかどうかいまいちわからないサンプル群を読んで、見よう見まねでどうにかしているということになる。
これは、もとより文語と口語が明確に分かれていた国にしては、かなり特殊な状況であるように思える。本書では、その原因を江戸末期から入った西欧語に悪い影響を受けたという説で説明していた。
ともあれぼくは、日本人が文章の正確な書き方を学んでいないのであれば、これだけ世に悪文がはびこっていることもしょうがないのではないか、と思っていた。
そうした状況を受けて、当時のぼくは英語を勉強した。
そのときに、人生ではじめて、日本語の客体化というものをおこなった。
ほとんどの物事が、相対化によって初めてその真価をはかることができる。ぼくの場合は、英語の機能性を勉強して、はじめて日本語の不自由さや、ある種の適当さというものを理解したように思えた。
自分の書く日本語はどんなものなのだろうと意識するようになり、また価値を問うようになったのは、そのときがはじめてだったように思う。
〇日本語は非論理的な言語なのか?
日本人が「日本語は難しい」と言う場面をよく見かける。日本語が流暢な外国人を見ても、難しいのにすごいねと言ったりなどするひとが多い印象だ。
まあ、ひとつの言語である以上、簡単ということはないはずだが、日本語が世界の言葉に比べてことさらに難しいのかというと、おそらくそうではないように思える。
本多先生は、こうした私見にかんして、どうやら怒りを覚えていらっしゃるようだ。あらゆる言語というものは、その言語が生きる社会において最適化された論理的な生命であると、氏は述べている。その物差しの基準を西欧の外来語に据えるのは許せないのだそうだ。
一理あるのだが、それはそうとして、ぼく個人の経験としては、英語を読むほうが遥かに「論理的で読みやすい」と感じることが多かった。
しかし、これはおそらく、その言語の生来の性格によるものではないと考えている。ものすごく単純に、ぼくが読むような英語は、高度な教育を受けたネイティブによるものが多かったせいだろう。
英米の国語教育では、まともな文章の書き方を教わらない日本人とは異なり、しっかりと「ロジカルな文章の書き方」というものを学ぶ。日本の読書感想文などとは比べ物にならない、ごく厳密に採点されるエッセイというものを大量に書き上げなければ、向こうの高校・大学は卒業できない(そしてもちろん、日本の教育機関に比べて遥かに多くの課題図書を読まされる)。
ハイ・エデュケイテッドな英米人は、古い情報から新しい情報へと繋がる文章(センテンス)の連なりが段落(パラグラフ)を作り、最後に明瞭なオチのついた主張(コンクルージョン)が完了することを、きちんと学習して理解している。
論理的な文章とは、積み木なのだ。
積み木の重ね方がよくわかっている外国人の書いた英語を読んだからこそ、当時のぼくは、英語のほうがロジカルであると感じたのだ。
ようは、たんに教育の質の差が出ているということだ。
日本語は、たしかに主語を省略して一文が成り立つ言語ではあるが、それは読者にとって明白に主題(視点の向く先)が決まっている場合にかぎっている。言語学者の三上章氏が、こうしたテーマを取り扱っているというのは、ぼくも本書で初めて知った。日本語にあるのは、主語ではなくあくまで主格であるというはおもしろい構文論だ。
言語としての性格は西欧語と異なるが、当然、日本語であっても論理的な表現は可能なはずだ。
もちろん、書き手が正しい技術を学べばの話ではあるのだが。
〇無生物主語について
本来、日本語には無生物を主体とする表現はなかったし、ぼくが英語を勉強していた十年前も、そうした訳し方はやめろと教えられていた。本書でもページを割いて言及されている。
が、実際の生きた言語としては、すでに日本において無生物主語は広まっているように思える。誤った訳文が跋扈し、それを読んで育つようになったせいか定かではないが、ともあれ「ら抜き言葉」と同じように、もはや止めようと思って止められるものではないようだ。
というよりも、言語の変形(成長)は自発的であり、そもそも止めようがないものだといえる。ぼく個人としては、無生物主語に対す忌避感はとくにない。
〇句読点をどこで打つか
第四章の「句読点」の項目は、読んでいてもっともおもしろかった。「、」をどこに置くのかは、文法の理屈としてはたったふたつの原則で説明がつくという。
こちら、気になるひとはぜひ読んでみたらいいと思う。
なお、ぼくはこの数年ぽちぽちと小説を書くにあたり、ずいぶんと読点が増えてきたという自覚がある。これによって、多少なりとも読みやすくなったのではないかと思っていたが、本書を読んであらためて考えてみると、自信がなくなってきた。
今の一文でさえも検討の余地がある。
「これによって、多少なりとも読みやすくなったのではないかと思っていたが、本書を読んであらためて考えてみると、自信がなくなってきた。」
「これによって多少なりとも読みやすくなったのではないかと思っていたが、本書を読んであらためて考えてみると自信がなくなってきた。」
果たしてどうだろうか?
〇漢字を開くか否か
以前、ここのノートで「ヒラキスト」について述べた。漢字をカナにすることを、出版界の用語で「開く」といって、ぼくがそれをかなりやりたがるという話だ。
漢字にするかカナにするかは、難しくも興味深い問題だ。ぼくには持論があるし、もちろん本多先生にも主張がある。
以下に一文だけ引用したい(一部改変)。
「①の例文は「いま」、②の例文は「今」の方が視覚的にわかりやすい。編集者のなかには、こういうとき統一したがる人がいる。「今」は漢字にすべきかカナにすべきか、などと悩んだ上に決めてしまうのは、愚かなことである」
なぜ愚かなことであるのか?
これにかんしては、読まずともわかるひとが多いのではないかと思う。極論すればぼくが前述の記事で述べていたのと同じ内容で、文章のかたまりをどう見るかという話だ。
〇「が」の用法
接続助詞「が」の話だ。本書では229Pで細かく触れている。
これは、ぼくにとっても耳の痛い話だった。つまり、英語でいうbutとしての機能ではなく、andとしても「が」が使用されていることをどう見るかという話だ。
これにかんしても、日本語そのものがそういうふうに進化してきたということもできるが、個人的には、やはり「が」には逆接のときにこそ使いたいという願望がある。順接として使用するくらいなら、文章そのものを分けたほうが機能的だと思えるからだ。
「が」にかんしては、今後注意して取り扱っていきたいと思っている。
〇段落
接続助詞と並んで、これも気をつけなければならない項目だと感じた。というのも、上でみずから例に挙げたように、ロジカルな文章には適切な段落分けが不可欠だと考えているからだ。
にもかかわらず、うまく実践できていない。これは、ぼくの直観する「わかりやすさ」が、文章を論理よりも「見てくれ」のほうで捉えてしまっているのが原因であるのだと考える。つまりライトノベル的にいうなら、「改行が多いほうが見やすくて読みやすい」という話だ。
もちろん、それこそ小説であるか否かが大きく関わる話ではあるのだけれど、「優れた小説とは突き詰めれば論理文章である」というぼくの私見も混じってくるので、これという結論を出すのは困難だ。
ぼくの商業作の文章がたびたび「堅い」と称されるのは、そうした私見からきているのだろうか? 感情の起伏、情感、詩情でさえも、論理的な機能としてそこに置かれるべき部品であるように感じる。
本書では、最後の項目で「リズム」について扱っている。
本多先生が述べる理屈の底に、詩歌の要素があり、それゆえに最後は書き手の感覚に委ねられるのは、興味深い話だと思った。気色悪く感じるリズムの文章を解剖していったとき、はじめて修辞学と統語論が顔をあらわす。
その項目では、本多先生が「名文」として文豪や記者たちの文章を挙げて、それがいかに切れぬ文章(切り分けたり、変形させたときに台無しになる文章)であるのかを語っている。
が、それら名文のうち、ぼくが優れていると感じるのは三割にも満たなかった。リズムに触れるとは、そういうことなのだ。
覚えているかぎり、この十年でぼくがもっともすばらしいと感じた文章は、生まれ育った大阪を出て行くことに決めた元プロボクサーのブログ記事の一文だった。あるいは冨樫義博先生の描いたキャラクターのセリフであったり、石田スイ先生の書くモノローグであったりした。そして、心の底から尊敬しているため、軽々しく名前を挙げられない日本の作家の文章であったりした。
それらは文法的に正しく、優れたレトリックと豊富な語彙でもって紡がれた言葉である。
が、もしかりに、それらが論理的には誤った文章であると指摘されようと、だからなんだという話だ。「だからなんだよ」と中指を立てながら、もう片方の手では作文技術の本を開いて読むのである。
畢竟、そういうことがだいじなのだろうと思うのである。