このあいだ、とある小説を読み始めたとき、すぐに気づいたことがあった。
こいつ、ヒラキストか……。
村上春樹の小説をこのむ人間たちがハルキストと呼ばれるように、この世にはヒラキストと呼ばれる、とにかく漢字を開きたがる(ひらがなにしたがる)者たちがいる。
かくいうぼくもヒラキストの一員である。
ヒラキストになったときのことは、あまり覚えていない。ただ、あるとき突然、ふとこう思ったのだ。
なんか漢字ってきもくね? と。
そう、なんか漢字ってきもいのである。これは多くの作家が(ことにヒラキストの性質を持つ作家が)言及していることだ。「新宿鮫」の大沢在昌先生も、小説の書き方の指南書でそう指摘されていた。
ヒラキストの最前線をゆく同氏は、今では「言った」も開く傾向にあり、「いった」と書いているという。かなりレベルの高いヒラキストだ。
漢字は、端的にむずかしい。なんかごちゃごちゃしていて、視覚的にきつい。とはいえ、漢字が存在しなければ、多くの文章が読みづらいのはたしかだ。だからバランスが重要となる。
勘違いしないでほしいのは、ヒラキストはなにもいたずらに開いているわけではないということだ。だいじなのは読者にとっての可読性であり、あくまで読みやすさのために漢字を開くという手続きをおこなっているに過ぎない。
だから過度に開いてもいけないのだ。一般的な読者が気づかないで読み進められるくらいの開き具合、それが重要となる。
「ん?なんかこいつやけにひらがな多くね?」と思われないくらいの開き具合でいかなければならないので、そういう意味ではチキンレース的である。
件の小説は、ぼくもヒラキストであるがゆえに爆速で気づいた。なにせ「声」を開いているのである。「こえ」。美しい開きだ……だがチキンレースでいうならやりすぎではないのか? 一般的な読者はどう思いながら読むのだろう。ハラハラしながら読んだ。
また、読みながらバトルがはじまった。
こいつとぼく、どちらがより漢字を開いているか……バトルだ!
バトルの結果はともかくとして、以下に開きの実例をいくつか挙げたい。
ぼくがとくにいやがる傾向にあるのは、漢字ひと文字で三文字を読ませるタイプだ。「間」「形」「隣」などがこれに該当する。だいたいの場合、それぞれ「あいだ」「かたち」「となり」と開く。
理由はわからない。ひと文字のくせに三文字に相当するなんて偉そうだなオメーはよォー、という気持ちが、ないでもない(まずこの感覚が謎である)。
また、ヒラキストが蛇蝎のごとく嫌う例でいうと、「行う」が該当する。当然「おこなう」だ。これは類似用例の存在が、理由として挙げられる。「行う」と「行く」は絵面があまりにも似すぎている。なのに実態は「おこなう」と「いく」だ。ふざけているのか? ゆえに「行」という漢字は「いく」に限定する。お前が「行われる」ことは二度とないと思え。
なお、ぼくの商業デビュー作は「おこなう」も含めて漢字だらけであり、今あらためて見るとわりとうんざりする。漢字を使うな!(何?)
ヒラキストが嫌う例で続けるなら、「一」という漢字はつねに敵だ。これは読みが多すぎることが原因だ。「いち」「かず」「ひと」など、たかだか横棒のくせに偉そうすぎる。だから「一」関係はとにかく開く。「一回」は「いっかい」、「一度」は「ひとたび」あるいは「いちど」だ。
ただし例外として「一階」「一本」などは開かない。
漢字を開く理由は多岐にわたるが、核となる法則はこれだ。
・頻出語句であるか
・(その漢字を)絵として捉えるか、音として捉えるか
頻出語句を開く理由は、それが大量に登場するからだ。なんども登場する漢字を開けば、当然、一本の原稿から消える漢字が増える。上で例に挙げた大沢在昌先生が「言う」を開いたのも、この理由によるものだろう。また、「行く」や「聞く」を開くひとが多いのも同じ理由だと推測される(今さらだが、ここの説明はすべてぼくの勘と感性に依存しており、まったく教本的なものではない)。
後者の説明はむずかしい。
漢字がむずかしいから開くというのであれば、たとえば「憂鬱」「響く」「瞠目」などは開いたほうがいいと思われるかもしれない。だが、そう簡単なものではないのだ。「憂鬱」という言葉は、目にしたとたんに「憂鬱」であると即座に判断できるだけの絵としての強さがあり、それゆえに、漢字は難しいのに読みやすい。
なにより、「憂鬱」というのはユニーク(独特)な用途の言葉であり、すなわち汎用の逆となる。頻出しない言葉は、漢字であるがゆえに文章のなかで目立ち、その派手さゆえにフラッグとして有効に機能する。そうした側面もあるのだ。
黙読する人間は、目としての情報と、声にならぬ音読のなかで再生される耳としての情報で、文章を処理していく。「いく」「おこなう」などはその好例だ。読者は、その前後の文脈から、対象となる人物が「行く」のか「行う」のか、ある程度の予測をつけながら読み進めることになるが、もしもどちらの行動を取るのかが明瞭ではない文脈で「行」という漢字が登場した場合、コンマ何秒という短い時間でのラグが生じる。
そのラグの積み重ねが、文章の読みづらさを導くことになる。
だから、「行う」ではなく「おこなう」という音声によって処理することで、そのラグを消そうと試みる。
ラグを消すというのは、漢字を開く最大の目的のひとつだ。
後者の例の延長となるが、ある一文を目にしたときの「かたまり感」というのも、可読性に大きく影響する要素となる。
たとえば、
・「何なら貰ってくれても構わないよ」
・「なんならもらってくれても構わないよ」
・「なんならもらってくれてもかまわないよ」
こうした一文を見比べたとき、視覚的なかたまりが可読性に作用するように思う。ひらがなが主体の一文に漢字が混ざるとき、その漢字はフラッグとして機能して、文章を前後で分けるような印象がある。
「なんならもらってくれても/構わないよ」
真ん中の例は、かたまりとしてはこのように処理される。そうした際、この一文が、頻出する/発言の意味が読み手にとって予測されるか、といった判断基準から、文章全体をかたまりとして処理したほうが理解がはやいとみなされる場合は、いちばん下の例で書いてしまったほうがいいように思える。
もっとも、こうした話は文法的ではなく、感覚的な話となるため、書き手による。ぼくの場合はすべて開きたがると思う。
再三となるが、ヒラキストは可読性のために漢字を開いているので、その一文を一行のなかでおさめたい場合(開いてしまうと二行にわたってしまう場合)は、おとなしく漢字に変換することもある。これは校正の規則でいうなら表記ゆれということになるが、ぼくは必要なブレであるように感じる。
さらにいうなら、上で記した「かたまり感」のために、ここは漢字にしたほうが文意がつかみやすいだろうという判断がなされた場合には、その際も変換がおこなわれたりする。
漢字を開くのは、けして機械的な処理ではないのだ。
ヒラキ道はむずかしい。最新の刊行作は、はじめてひとに読んでもらった際に「漢字を開きすぎて作風の雰囲気を阻害しているような気もする」とコメントされた。そういう見方もある。
カウンター意見としては、漢字の雰囲気に頼って作風を彩ろうとするのは、虎の威を借りているような気がして好きではないという言い方になるのだが、しかし京極夏彦の小説が開きまくりとなると、やはり雰囲気が損なわれるような気もするので、ふわふわした意見である。
最後に、開かれた言葉と所感をメモして閉じようと思う。
なお開きバトルは負けたように思う。ぼくよりも断然開きたがる作家だった。多くのヒラキストが世のなかにはいるのだ。
・けなげ(「健気」という感じの読みを答えよという国語のテストがあったら答えられるのだが、特殊な読みである以上ラグを呼ぶものだから開いたほうがいいように思える)
・はらんだ(「孕んだ」と書くと不穏な気がする。が、勇気がなくて開かずに終わっていることも多い。ぼくには勇気が足りていない)
・さすが(これも特殊な読みがラグを呼ぶ例。流石ってなんだよ、りゅうせき?)
・きみ(「君」はメジャーな読み方がふたつあるから開きたい。メジャー読みが多い漢字は開きたがるという法則もある)
・おぼえる(「覚える」「憶える」といったように当てる漢字が多いものも開きたい。この好例は「わかる」である。いちいち「分かる」「解る」「判る」と使い分けているとしゃらくせえ!となる)
・ふたり、ふたつ(「二」も「一」と同様にダルい漢字だ)
・たずねる(こちらも当てる漢字の多さに起因するが、例外として「訪ねる」ときだけは開かない、といった手法もある。「尋ねる」「訊ねる」が意味的に同じであるため、グループ分けをしている感覚になる)
・みる(「たずねる」と同じ例で、「(患者を)診る」ときだけは漢字になっていたりする)
・からだ(ぼくはこれまで一貫して「身体」と書いてしまっているが、じつはこれまで記してきた法則でいうなら開いたほうがよい。「身体」は「しんたい」とも読めるために面倒で、「体」はひとつの漢字で三文字だからムカつく。つぎがあったら開きたい筆頭)
・ちいさい(これもできていない。頻出漢字だからぜひとも開きたいが、勇気が足りていなかった。これからは勇気を出していく)
なお、べつに漢字を開いているからといってうまい文章というわけでも、いい文章になるわけでもない。これはものすごくじみで、べつにほとんどのひとが気にしていない領域の些末なバトルだ。
それでもヒラキストは開くのをやめられないのである。
メリットや理由はある程度語ってきたつもりだが、それでも最終的な理由は正直謎である。できればだれか解明してほしい。