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児童文学について①

 この1,2年で、児童文学についてよく考えるようになった。ぼくの根源的な欲求、届けたいターゲット層は、今も昔も小中学生であるため、現状いちばんそこにリーチしやすい領域は、児童文学ということになる。
(ライトノベルを書いたのも、もう少し射程を広げて、中高生に読んでほしいという気持ちが根底にあったが、当時のぼくの認識よりもライトノベルはおとなの読み物になってしまっていたというのが現実問題である)

 思うに、人間はコンテンツに慣れすぎると、物を類型化していく。そして自分のなかでデータ化されているフォーマットでなければ、ローディングが億劫になるようだ。異世界舞台の小説がウケている最大の要因は、このロードのしやすさが根底にあるだろうとぼくは思う。
 よく「異世界はもう飽きられている」というが、その「飽き」と「ロードの簡易ぶり」が表裏一体であるため、次のストリームに向かうのは大変に困難だ。読者全体で共有される文脈が存在しなければ、オトナ化の進んだコンテンツ消費社会において主流にはなれない。

 本来、イセカイの魅力はその「読めなさ」(=異文化交流≠類型化)に宿るはずなのだが、結果としてこうした逆転現象が起きているというのはおもしろい話だと思う。
(もちろん、すべてのライトノベル文脈のファンタジーが類型を取っているとは言っていない)
 が、それはさておき。

 たとえば児童小説において異世界を舞台にしようと考えたとき、ライトノベルにおける異世界文法というものは、当然使えない。若い読者たちには共有される背景が存在しないため、トラックに轢かれて異世界に行くとなったら「なぜ?」となるし、女神がチートスキルを施してくれるにしてもいちいち「なぜ?」となる。そもそも「チートとは?スキルとは?」となる。
 ゆえに、総体としては児童文学におけるファンタジーのほうが、はるかにハイファンタジーとなるだろう。こどもには前提知識が存在しないため、その本から新しい情報を得ようと前のめりになる。とてもいい読者だ。
 そして作家として新たな物を書く難しさ、同時に楽しさも、そちらのほうに強く宿るように思える。

 ぼくは、作家としても読者としても、類型化と相対化を絶えずおこなうような、消費化するおとなの読み方というものが苦手なので、そうした意味でも児童文学について考えるようになった。
 ただし、いざ考えてみるとこれが難儀する。

 じつは去年書いてカクヨムで公開した「第四林檎ルルイエの無忘録。」は、そうした背景から生まれた中編小説だった。じみにタグにも「児童向け」とある。
 これは書いている途中で「児童寄りにすると大変だな」と思ったため、多少、逃げの方向で仕上がることになった。が、組み立ての部分で児童文学であるため、今の意識ならそれなりに直せそうな気もしている。
 気に入っているキャラクター、シナリオなので、こちらにはメスを入れたい。

 だが、肝心なのはつねに次だ。
 ものを書くときの最大の軸は、舞台を現実にするか、否か、となるが、ぼくのこれまでの書き方から推定するに、後者が吉であると思っている。
 バリバリッと戦闘するわけではないが、ナイフくらいは護身用に持っている少年、あるいは少女の旅の物語。これに、かわいい魔女がついてきて主人公ペアとなり、魔法を筆頭としたファンタジー要素が盛り込まれていけば、読めるものになりそうだと踏んでいる。
 結局、パーティが増えていくような展開はだれしもが好きなものなので、奇をてらう必要はなさそうに思える。

 前者も考えていないわけではない。その場合、ド王道の除霊モノがよさそうだと思ってはいるが、児童向けとはいえフックが足りないように考えているので、まだまだ構想の域を出ない。「逃走中」の人気ぶりや、児童文学最大手のジャンルであるデスゲームや人狼を考えるに、今の小学生はもっと外連味のあるものを求めているように分析できる。やはりむずかしい。

 今は先に書いておきたいものがあるのでそちらからということになるが、それにしても近いうちに手をつけたい。それでもやはりむずかしい。
 理想だが、それにしても遠い理想のように思えるのが、今のぼくにとっての児童文学なのだった。

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