結論 自分の周りにいる人の役に立て
一旦の経済成長を終え、多くの若者は豊かさと自由を手に入れた。
その引き換えに、個人の孤立を招き、規範意識が失われ、もはや道徳や倫理は消えつつある現状。
最後に残った唯一の宗教が、損得勘定。
個人の倫理観に基づき、「それは、所属するコミュニティにとって得か損か」で判断する。
この判断基準を、個のためではなく、あくまでも所属するコミュニティーにとっての価値観で計るところがポイント。
個の利益追求の先に、幸せが見えないことは何となくわかっている。
経済的な豊かさのボーダーはとっくにクリアしているし、満たされないものは物質的なものではなく精神的なものだから。
だからこそ、所属に回帰する必要がある。
複数の組織に所属しつつも、どこにも依存しないスキゾ的な個であり、どの所属にとっても「役立つ存在」であるパラノ的なスタンスを取るドクトリン。
これについて整理したい。
一見すると、
「それって八方美人やん!」
に見えなくもない。
全体でみればそうなのかもしれない。
理想を言えばすべてにとって役立つ存在であるべきだ。
でも、僕たちは人間で、そんなことをしたら消耗してしまう。
だからこそ、選択が重要になってくる。
選択の基準は「そこに貢献をしていて自分が気持ちよいか」
これに尽きる。
自分がそこにいることで役に立ち、評価されるのならば、その評価はその他のコミュニティーにとっての信頼の担保になる。
自分がしていて嬉しい!そして全体としても役に立っている!
そう感じられる関係を、自分の中で構築していく。
そう感じられないコミュニティーからはスキゾ的に逃げ去るべきだし、コミュニティーにいることでしんどい思いをするのならば無理に貢献する必要もない。
その共同体に貢献し続けることが、自分にとって幸せならば、それが真である。と信じたい。
シャルルフーリエは共同体を6 家族 7 友人 8恋人 9社会集団 に分けた。
家族という社会集団で学び、友情を育むことで人間的魅力を増し、それが異性に評価されて恋人が出来、次世代を豊かに育むための共同体に参加する。という段階を描く。
冲方やエーリッヒ・フロムの作品では、愛するということは継続的に与え続けることだと、説いた。
共同体の役に立つことは、つまるところ、そのコミュニティーに貢献することが、幸せで感じられることが肝心なのだろう。
そういった意味で、給料はその感覚を濁すきっかけになりかねない。
仕事とは社会的な意義を達成するためのコミュニティーと定義するならば、その働きとしての対価としての給料は数値化が難しい。
出世のために頑張る。給料のために頑張る。
どうもしっくりいかない。
それは、対価のために仕事を選んでいる世代ではないからだ。
本当にそうであるならば、とっくに仕事を辞めている人も多い。
恋人はおろか、友人、家族からも孤立化してしまった、個人は与える喜びを忘れてしまい、損得勘定でしか物事を図れなくなってしまった。故に、絶望するのだ。
なんてのは言い過ぎだけれども、何のために生きているのかが分からなくなりそうなのは事実だ。
もちろん、幸不幸は感情の問題なので、こんなことを書いていてもつまるところは、「私はこう思います」止まり。
なので、都合の良い「評価経済社会」という作られたワードでとり作って、
周りの人の役に立てる存在でありましょう。
という基本スタンスを支持していきたい。