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境界線快楽主義について雑記

思うに、快楽は摩擦に似た現象だと感じる。

摩擦を感じたときに、人は快楽を感じるのは、形而上学的にも明らかである。

おふざけではなく、摩擦にこそ真理が潜むと感じる。

子供の頃、世界の始まりについてよく考えた。

世界の始まりはビッグバンによって始まった。といわれている。

爆発。無からの差異。

差異が生まれて、世界は始まった。

熱と死。渇望と満足。光と闇。男と女。

轆轤のように、何かを基軸として回り続ける世界。

基礎が曲がれば、完成品も歪む。

もしも人は汚いものだ。
として人生を回せば、性善説と性悪説どちらに歪むかは考えるまでもない。

良い悪いではない。

何を世界の基軸に置くかで正しさが変わる。

正しさとは気持ちよさだ。

自分にとって正しいことをすれば、気持ちがいい。

どっちが悪いとかではない。

どちらが摩擦として気持ちいいかが正しさなのだ。

人は良いものだと、考えられるなら、幸せなことだ。

その人は、人は良いものだから親切にする。ことが気持ちいい摩擦になれる人だからだ。

当然その人にも不幸は訪れる。
その時に自分の基軸の対面に善があるなら、今は試練の時だと考えられる。

それは幸せだ。


よって全ての行為、概念に、普遍的な善悪は存在しない。

もしも幼少期ひもじい思いをして、盗むことを繰り返し、その社会もまた貧しいならば、窃盗でさえ物を手にいれたと言う摩擦に勝ることがなく、その者にとっての善行となるだろう。

義賊、ロビンフッドのように。

戦場の英雄のように。

独裁者のように。

人生は、快楽の基軸を見つける旅に出ているようなものだ。

何が気持ち悪くて、何が気持ちいいのか。

物や、動画が与える一時的な快楽に、真の快楽である摩擦の感覚を鈍らせてはいけない。

それはあり続けるが、それ以上に摩擦を与えない。
命が宿らないものは、手に入れたときと捨てるときにしか価値ある摩擦を及ぼさない。

ものに溢れた幸せな時代、偽物の摩擦に溢れすぎて、幸福な人生から遠いている。

手にいれるよりも自ら捨てる快楽が、このご時世にはお似合いだ。

お金を払うよりも、価値を作り出す創造性の方が豊かになれる。

全ては摩擦。

疲労感のない睡眠は惰眠であり、食欲のない食事は惰食、整っていない性欲は、古代の名残。

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