珊瑚の森や海藻の林よりもさらに奥。海底火山の麓にある魔女の家に、人魚が一人、やって来ました。彼女は人魚姫。青白い肌をほのかに染めた彼女は、その美しい青い瞳に不安を浮かべながら硬い金属の扉をノックしました。
こんこんこん。
「あんたかい。人間に惚れたという人魚姫は。」
海峡から響いてきそうな太い声が答えると、扉が独りでにぎぎぎと開きました。人魚姫の周りの海水が、誘い込むように扉の奥へと流れていきます。姫は小さな手を握りしめると、扉の奥へと進みました。
「よく来たねぇ。」
ごつごつとした石壁を背に、魔女は不敵に笑います。魔女の手下たちは恐ろしい牙を鳴らして、人魚姫の周りを泳いでいます。
ランプの白い灯りを映した触手を動かし、魔女が聞きました。
「人間になる薬だろう?いいのかい?お前の前にも何人もの人魚たちが―――」
「違います。人間を人魚にする薬が欲しいんです。」
「ふぇ?」
威厳も何もない素っ頓狂な声が魔女の口から飛び出しました。
人魚姫は真珠が転がるような声で語り始めます。
「初めて見たのは海藻の林です。泳ぎ方がとても綺麗で、魚たちにも優しくて、なんて素敵な人なんだろうって。お父様はあきらめろって言うんですけど、わたし、どうしても彼のことが忘れられなくて・・・・・・。だからわたし・・・・・・。」
人魚姫は金に輝くまつ毛を震わせ続けます。
「前にお姉さまたちが話しているのを聞いたことがあるんです。魔女はなんでも叶えてくれるって。だからここに来ました。魔女さんお願いします。彼を人魚にしてください。」
「そりゃあ、あんた。人間を人魚に変えることだってできるさ。」
魔女は呆れたように水泡を吐きました。
「だけどね。大抵は人魚が人間になるものさ。惚れた方が行くんだよ。なぜそうしないんだい。」
「だって・・・・・・。」
人魚姫は寸の間口ごもると、意を決したように続けました。
「だって、恐いじゃないですか!海の上なんて!お友達もいないし、水が無いから乾燥するし、運が悪いと突然空の上!料理されちゃうんでしょう?誰に聞いても危険だって言うわ。そんなところ恐ろしくて行けません。」
「ちょっと待ちな。」
人魚姫の訴えを制した魔女は、こめかみに触手を当て、ううんと唸りました。眉間には深いしわが刻まれています。
「ということはなんだい?あんたは、自分は安全な場所からひとひれも動かずに、好きな相手を手に入れようとしているのかい?」
「はい!」
今日一番の大きな声で朗らかに答えた人魚姫を、魔女はまじまじと見つめた後、厚い唇をぐいと引き上げました。
「まあっはっはっはっは。気に入った。そんなに欲の面が張っている奴は久しぶりに見たよ。いいだろう。」
そう言って魔女は人魚姫に小瓶を一つくれました。
小瓶を握りしめ、ひれを大きく動かし帰って行く姫の背に魔女は不敵に笑います。
魔女の手には真珠が一粒乗っていました。
「馬鹿だねぇ。水から出ないでどうやって薬を飲ますのさ。」