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物語が始まらない『お名前を頂戴してもよろしいでしょうか』

「お手数ですが、こちらにお名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」

 磨かれた大理石のカウンターの上に、少しハリのある紙が一枚。差し出された万年筆を手に取り、用紙へと向き合う。

 日付と宿泊プランを確認し、用紙の下部、黒いラインの上に万年筆を走らせる。

『望月あかり』

 万年筆を置くと、ホテルマンがさっと用紙を回収し、確認するように読み上げた。

「もちづき あかり 様。確かに承りました」

 ホテルマンの言葉尻がぐにゃりと歪んだ気がした。その笑顔に言い知れない不安感がこみ上げてくる。なにか大事なものを忘れている、そんな感覚。

 財布は持っている。スマホもここにある。家の鍵? それも違う。着替えも、歯ブラシも必要なものは持ってきたはず。

「あの、さっき預けたスーツケースの中、確認したいんですけど、いいですか」

「はい、構いませんよ。お手数ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか。防犯上の理由で確認するように義務付けられております」

「名前?」

 要領の悪さに少し苛立ちを覚える。

「名前?  名前は、えっと……え?」

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