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文章を書くときは話しかけるように物したいという話し

わたしが「名文」という場合、ほぼ完全に「有名な文・文章」という意味です(これは「名作」などにも一般です)。そんなだからわたしは、語弊のないようにその熟語をめったに使いません。

わたしはかかる考えの持ち主ですが、そのわたしの頭にもひとつの思想(アイデア)が去来しました。すなわち「名文」の条件とは、読んだ者があたかも話しかけられているように錯覚する文章ではあるまいか、と。

そう考えたことには契機があります。頭のはたらきが鈍くなってロクに文章を読めなくなるという経験がそれです。文章が読めないときは語り聞かせてもらいたくなるのが心理や人情かとかりそめに考えています。

うたは世に連れ世はうたに連れと申しますが、名文が世(人生)に連れるとは考えもしませんでした。数少ない例外をここに書き起こすと、松尾芭蕉がすぐれた俳諧師だからすぐれた発句(俳句)をよんだのではなく、松尾芭蕉が偉大であったからこそそれらがすぐれた作品たり得たのだ、という発想です。

この考えが正しければ、AIがヒトよりすぐれた句をよむためには、AIが生身の肉体をもってAIであることを辞めねばなりますまい。AIが囲碁や将棋でヒトを負かすことと、AIがヒトより偉大な棋士になることとは別の問題である、というふうに言い換えられるかもしれません。

似たようなことを、当サイトでひとの短歌と俳句を拝見しながら思いました。もっとも、それが本人にとって名誉となるのか不名誉となるのかは分かりません。わたしなどはそれをほめ言葉として受け取るだろうと思います。

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