父が、人生の最期を、がんばっています。
酸素濃度が、著しく低下し、いつ息絶えてもおかしくない状況で、
もうダメかも
もう無理かも
と、病院から何度も呼び出しがあって、
本来なら面会はできない(感染症対策のため)中で、
生きたまま会えるのはこれで最後になるかもしれないから
という理由で、
何度も特別に面会させて頂いています。
大病院(赤十字病院)とは思えない、ハートフルな対応をして頂いて、
感謝しかありません。
まだ生きています。
でも、確実に、終わりに向かっているそうです。
それでも、今日かもしれない、明日かもしれない、という状況の中で、
必死に生きようとしている父を、
肺が壊死していて、どれだけ苦しいかわからないのに、
それでも生きることをあきらめていない
そんな父を、
私はずっと、大きらいで軽蔑してきました。
いま連載中の「せんせいあのね(以下略)」でも、妻を虐待するシーンが出て来ましたが、完全に、父のことです。
味噌汁の味がいつもより薄い、という理由、たったそれだけで、食卓をひっくり返し、大声で怒鳴り散らし、それでも気が収まらないと、暴力。
もしそこで、反抗的な目を向けたものなら、私まで攻撃を受けることになります。
いまでこそ、
DV
パワハラ
という用語が広く知られるようになり、一般的な社会問題として扱われていますが、
当時は、たとえガラスの灰皿で頭を殴られ、気を失いかけたとしても、それは、
教育
しつけ
でした。私が殴られる理由は、ひとつしかありませんでした。
それは、私が父の思い通りに育たなかったから。
父はヤクザや不良が大好きで、自分もかなりそういったアウトロー的なファッションに身を包み、オラついていました。
オレはヤクザの知り合いが多いんだ、といったような自慢を、毎日のように聞かされました。事実はまったく違いましたが。
いつも車の中に木刀を積んでいました。あおり運転をしてくるヤツをぶちのめすため、といいながら、自分は、あおり運転ばかりしていました。子どもたちを乗せていても平気でした。
逆に私は、クラスの学級委員や、生徒会長などを務め、読書と絵と歌が大好きな、絵に描いたような、真面目な子どもに成長しました。
たぶん父はがっかりしたんだと思います。
ところで、父は、いつでもどこでも、タバコを吸っていました。車の中でも、家の中でも、煙がもうもうと立ち込めていました。
その長年の喫煙の結果が、肺気腫×動脈硬化×肺がんという病気につながりました。
あとは、偏食がひどくて、特定の数種類の限られた食材しか口にしない。
それが病気を加速させたそうです。
そういった、異常なこだわりの強さ、感情の起伏を抑えられずに、すぐに暴力的になる性質は、私が大人になって、
発達障害
というものが大人にもあるということが話題になり始めて、
やっと、
ああ、そうだったのか
と理解はできるようになりました。
だからといって、父が母にしてきたこと、私たち兄妹が受けてきた暴力、
そう簡単に許せるはずはありません。今でも心の傷、トラウマは消えません。
それでも、
やっぱり、
そんな男でも、
ぼくの、お父さんなんです。
いざ、命の炎が消えかかっているという時に、
ろくに呼吸もまともにできないのに、
必死で生きよう、生きようとしている姿を、この目で見、医師から伝え聞くと、
どうか神様、安らかに終わらせてあげてください。
そう、念じてしまいます。
まったく神も仏も信じていないにも関わらず。
本当なら、コロナ禍でさえなければ、
病室で父の手を握りながら、最期を見守りたいという願望が、強くあります。
でも面会時間にも制約があって、なかなか、思い通りにはいきません。
あんなに大きらいだった父なのに。
憎しみの方が大きかったはずなのに。
命の散り際
この人の最期を見守りたい
そう、思えること、
そう思ってくれる人がいること、
どちらも、幸せなのかも知れません。