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小説における「描写」について

堅苦しいタイトルですが

じぶんの書いた小説を読み返して、赤ペンで添削したい箇所、てんこもりです。

小説とは何か、という議論をここでするだけの力量はありません。

ただ、

「描写」

これこそ、表現者の醍醐味というか、

小説が小説であるために

音楽が音楽であるために

映画が映画であるために

漫画が漫画であるために

アニメがアニメであるために

とってもとっても重要な点なんだと考えています。

というのも、単にストーリーを伝えるだけなら、小説でなくても構わないわけです。スライドを用いてプレゼンしたり、動画で伝えたり、いろんな方法があります。

なぜ小説でなければならないか

文字だけで表現するからこそ、だからこそ伝えられるものがあると、わたしは信じています。詩歌も同様です。

これは大学四年間で、『萬葉集』という古典を必死で勉強した経験から確信することです。これについては、またいつか語りたいです。『萬葉集』とはもう33年の付き合いになりますが、掘り下げても掘り下げても、底の見えない、とんでもない作品です。

表現というのは、小説に限ったことではありませんが、「構成」も大事だし、「適切な長さ」も大事。

今回のわたしの第8話なんて、あえて逆を行くというか、無駄に長くなってしまいました。本当は、1話あたり、2,000字くらいが読みやすい長さかな、と思ってはいるのですが、今回1万字を超えました。これはダメだ、と自分でも思います。

でも発表しちゃうっていう。

それで今回のタイトル「描写」について。

未熟!

自分で読み返して、

本当に未熟。

50歳にして、こんなつたない描写しかできないのに、よく恥ずかしげもなく書いているな、と振り返り。

書いているときは、とっても楽しいし、元気が出てくるんです。楽しんで書いてるから。

でも、後で読み返して、なんだこれ、と思ってしまう。

なら修正して更新すればいいだけの話なのですが、

あえて、残しておくことにしました。

そして、物語が完結したあとで、

「修正版」

を、連載ではなく、一本の長編小説として記録しておこうと思いました。

そして、ダヴィンチが「モナリザ」を15年間だったか16年間だったか、手直しし続けたように、

私も、この物語を、何年もかけて、手直しし続けようと思います。

「カクヨム」連載中は、修業期間ということで、

第8話は本当にひどい回だったけれど、

第245話は、かなり描写がうまくなってきているな、

と自分でじぶんの努力を評価できるようになりたいです。

245話まで続くのかわかりませんが。

そんなに続いたら、七海はなかなか合格できませんね・・・

とにかく、小説における「描写」が難しい~

読者目線では、いろいろ批判できるんですが、

いざ自分で書いてみるとなると、こんなに大変だったとは。

何事も、やってみないと、わからないことがある。

じじぃはまたひとつ、おとなになりました。

何この終わりかた。

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