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久保田弥代 さま

さっそく、ありがとうございます。
恐縮です。よろしくお願いいたします。

4件のコメント

  • 恐縮です。
    では。
    「となりを見たならば」を軸として。



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     正直に、基礎力はたいへん高いなぁと感じ入った次第です。大まかな構成、筋運び、着目点や、なにより『手作りの物干し台』というポイントを作り上げ、キーとしたことなどは素人離れしているといってもいいでしょう。こうした面では自信を持ってもいいと思います。重松清を想起しました。
     それだけに、幾つかあった「気になる点」が惜しい、とも。

     ただ思うに、通常「ここまで書ける」のであれば、頂いたコメントから滲み出ていた深い悩みを得ることはないのではないか。あるとすれば、それは本人が目指している高みが、まだこんなところにはない、ということでしょう。

     すでに高い技能があると見受けられますので、ちょっとリキを入れて、こうした部分に着目してはどうかという提案として、一つ批評文をモノしてみたいと思います。作品の長さなど別に理由があってスポイルしている面もあるかと思いますので、その辺は適宜取捨選択して、自分の中に取り込めるものを探り当てていただきたいと存じます。



     では以下、よくある批評文風に文体を改めて――



     まず、書き出しの物干し台の風景と、ラストシーンとは呼応する、響き合う関係に置かれているはずが、その効果が弱かったように感じた。序盤の書き方で、主人公の心にこの光景が引っかかりを残していると感じ取れないからだろう。中盤で出てくるが、短編だけにそれでは遅かったように思う。中盤で突然テーマ性が「始まった」感が。
     せっかくのお膳立てなので、より効果的に用いるようにしたい。作中のテーマやノスタルジアのイコンとして、この「手作りの物干し台」という存在は非常に魅力的なので(ただし若い人にはイメージが湧かない可能性もあり?)。


     上記に関連した重大な要素として、作品のテーマ性についてのこと。
     母胎回帰的な、あるいはもっと軽く「甘えの構造」のようなものがテーマに据えられているかと思うが、少なくとも作中の文面において、主人公の少年がそのことに欠損を抱えていないことに、勿体なさがあった。
     主人公は物語のポイント、ポイントで、それをおぼろげに表出させてはいるが、通奏低音のように「続いている」ものとしては認識していなかった。そのため、読者としても、彼が実はそれを求めているのだとしても、とても「軽い」としか感じられずにいる。
     こうしたテーマ性の場合、欠損が埋め合わされることによってカタルシスが生じるはずのところ、欠損の様子が見えないため、説得力がやや減じた印象があるのだ。
     例えば夕食のメニュー談義の場面でも、彼は「自分には作れない」というきわめて実務的な観点から話題を観察しており、「俺には晩飯を作ってくれる人はいない」というひがみ、欠損を見せないのである。
     このような彼の「強さ」が、ラストの心を揺さぶられるシーンとは相反する要素であるため、真実心を揺り動かされる事は無かったように思う。


     次に主人公は、小学生男子の一人称として、「大人が描いた小学生」に留まっていた。彼の思考、それが現れた文体が、大人が思い描いて書いたそれになってしまっている印象なのである。これもある意味、前述した彼の「強さ」に関わっているかもしれないが。
    『それにこんな話は、今どきどこにでも転がっている』がポイントで、これは社会性の中に自己を見いだし、広く世界を見据える能力を得た思春期以降の物言いではなかろうか。
    『そこには大切なものがあるような気がする』も鼻白んだところで、小学生が言うには賢しらだ。
     父の死によって子供ではいられなくなった彼ではあるが、それにしても、「大人の価値観を代弁している子供」に見える。それは「子供ではいられなくなった子供」とは、違う価値観や思考の結実であるはずだ。
     小学生の一人称として、こうした点で感情移入を妨げられた感がある。大人を縮めた子供ではなく、子供が背伸びしている様子として描くことができていれば、と惜しまれる。


     細かな点だが、母親の職業にイメージが湧かなかった。毎日夜が遅いと言うことで残業続きのOLかとも思われたが、それが朝六時前に「早出」で出勤するという状況がちょっとうまくリンクしてくれなかった。では工場やコンビニのようなシフト制勤務かというと、ラストシーンの仕事にならなかった描写がやはりOLを想起させてしまう。
     神は細部に宿る。それはこういう部分を、「伝わるように書くこと」や「矛盾のないバックボーンを考えておくこと」で備わるので、気を配った描写をしていただきたかったところだ。例えば「早朝から出張」とするだけで、OLのイメージは崩れなくなる。
     特に母親の存在感は、ラストの「母性」的なものへの印象とも関わるため、作品にとって重要なものだろう。そこへの配慮がいささかおざなりなことに不満はあった。


     最後に父性の不在も、少々気にはならないではなかった。ただ、短い枚数に収めるための取捨選択や、テーマ性の強化として納得出来る結果なので、他の点ほどには問題にも感じない。まぁそういうことも考えられる、程度で。



     ここまでまとめてみて、トータルで一つの姿が、作者の印象として浮かび上がってくるのだが……実は別の作品においても似た印象を抱いた箇所を見つけた。『眼鏡のワルツ』という短編にこうある。

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     昔は朝から夜お風呂に入るまで靴下を履いていたかったのに、今は家にいるときには絶対に裸足。あなたの真似して一回脱いだら、もう履けなくなったのよ。
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     少々の違和感がある文だった。
    『朝から夜お風呂に入るまで』は、パートナーに語りかける独白体、という形式にはそぐわない妙な細かさ、形式的な硬さが感じられる。個人の述懐という範囲を離れて、「作者が、『夜になって靴下を脱ぐのはいつだろう……そうかお風呂か』と考えついたことを説明している」ような印象である。
     身近な誰かに語りかけるような言葉の中では、こうした部分は「朝から晩まで」といった端的な区切りで済まされるものではないだろうか。
    『あなたの真似して一回~~』という末尾の文にも、「なぜ?」という疑問が湧く。この一文は「結果」を述べているのであり、「どうして“もうはけない”ようになったのか」の理由はないからだ。
     また『一回脱いだら』というところでは、その『一回』は二人が積み重ねた時間からすればだいぶ以前なのではないか。とすれば、その最初の『一回』を、こうした日常のある場面という述懐の中でわざわざ触れるのにも、なにか形式のような硬さを感じないではない。


     例えば私自身であれば、即興で失礼だが当該部分はこんな風にしているだろう。
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     昔は一度靴下をはいたら、脱ぎたいだなんて思いもよらなかったのに。今じゃ家に帰ったら真っ先に脱ぐようになっちゃって。あの解放感、たまらないわよね。
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     一文目の末尾「のに。」で暗に今は違う気持ちであることを示し、二文目の「なっちゃって。」では砕けた述懐により本音を漏らしていることを示すと同時に、呆れたような物言いから“自分も変わったものだ”という感慨も含める。三文目ではそうなった“理由”を端的に示し、かつ、「わよね。」という呼びかけによって、男を共犯者・価値観を共有する者として表現する。そうした意図を込めた文である。


     実は、この引用文と書き換え例の中に、『トータルで一つの姿が、作者の印象として浮かび上がってくる』という、前述の姿が映し出されていると思う。


     ここまで述べたことと、引用文から感じられるのは、『作者が、作者の設計図通りに文を記述している』ということだ。

     同時にそれは、『必ずしも、物語それ自体が要求している文とは合致していない』ということも指す。

     一人称作品ではあるものの、これらの作品を「書いている」のはやはり作者だった。一人称の話者ではない。そうした印象が、これまで述べてきたことの随所から感じられるのである。イベントが起きる早朝に母親がすでに家にいないことも、「作者都合」によるように思えてしまう。
     それでいて、書き換え例文に示したような、作者として物語を、「内側からより強くする」ための工夫というものも、さして見られない。
     このように設計図を引いた。エピソードはこのような順番と決めた。テーマはこのようなものである――だから、こう書いている。
     その通りに話を書き留めている作者の姿。丁寧に説明を重ねている作者。そういう印象なのである。


     こんな印象を持たれてしまう理由はただ一つ。
     作者が、作品や作中人物の内面まで入り込んでいないことだ。だから、作者という別人格の影がちらつく部分が生じてしまう。登場人物の言動が、場面の展開が、いささか不自然さや、違和感を覚えさせる結果になってしまうのだ。

     作中人物に作者を代弁させてはいけない。それは逆で、作中人物を作者が代弁するのだ。

     作者が心底から人物にシンクロできていれば、書き換え例文のように、作者の側からの「この人のことを伝えなければ」という意志がにじむ工夫が起こるはずなのである。

     もちろん、プロッティングや推敲の時点では、作者は物語の外にいて、物語に飲み込まれないようにせねばならない。だが、書いている時点では、作者は物語の内側に足を踏み入れ、人物や物語それ自体の声を汲み取ってやらなければならないのではないだろうか。それが、人物を生き生きと描くということであり、物語に生命を吹き込むという作家の行いではないか。





     おそらく作風からして、新樫さんのカラを破るには、作者の影を消すことすなわち、作者自身が作中世界に入り込むこと、がヒントになるのではなかろうかと思う次第である。
     その世界が、人物が、文字の中ではあっても『生きている』という実感を、読者に与えること。その境地が目指せるところには来ていると思われる。どうぞご一考ありたい。


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    以上 _(´ㅅ`_)⌒)_ 偉そうですんまそん。←おちゃらけ

  • 拝見しました。
    ひとつひとつがすとんと胸に落ちました。
    大変にありがとうございます。

    お恥ずかしいのですが、構成を組み立てて書いたことがありません。
    急に発作的に書きたくなった情景を書き始め、書きながらストーリーと着地点を決めます。
    言葉も湧いてくるものをそのまま書きとめていくような有様で、本当ならとても小説として作成しているなんて言えないのです。

    その場の行き当たりばったりのインタビュアーとインタビュイーみたいな、そんな程度の作中の人物との関係だったと気づかされ、抱えていたものの正体を少しだけ見たような気がしました。

    今まで、いわゆる、小説の書き方というものを学んだこともなく、ただただ書きたくて書くという範疇を越えませんでした。
    自分の中に溜まっていくもののはけ口というか……。

    久保田さんに見透かされたと感じました。

    作者の影を消すこと、そんなことを考えたこともなかったですし……。
    でもそう言われてみると、本当にしっくりくる。

    もっともっと内面に踏み込む、というようなことには、はっとさせられました。
    私にとって、それはとても勇気のいることなんです。
    性格的なものだと思います。
    こうしてみると私にとって書くことは、自分自身の変革への挑戦とも言えるようです。

    すみません。とりとめないことをダラダラと……。
    アドバイスが、あまりにもうれしくて。
    何度かアドバイスを読み返して、少し時間をかけて書いてみたいと思います。
    「無計画に書きたい病」の発作の方は、散文で吐き出しながら。

    もしご迷惑でなければ、またアドバイスをお願いできますでしょうか。
  • _(´ㅅ`_)⌒)_ でろーん。←おちゃらけ


    本質的なところで言えば、「決めた設計図通り書く」ことも、「思いついたことを書く」も同じで、つまりは『書きたいようにしか書いていない』になるのです。その辺りは斯様に読み替えていただければいいでしょう。

    多少、本音をお聞きしたところで言い換えれば、「読者のために書く」という立脚点も必要かな、という感じでしょうか。文章書けてるので、意味が通じるように腐心するなんて経験はないかもしれないですが、そこ以外の「より話を面白がってもらおうとする姿勢」とでも言いましょうか。

    実は執筆とは孤独な行いではなく、常に「読者」を想定したコミュニケーションでもあるのですよ。そしてまた、作中の人々との対話でもあるのです。


    _(´ㅅ`_)⌒)_ なーんて辺りは、助けになりますかね。


    がっつり濃いのはたまにしかできませんが、軽やかな受け答えなら、まぁお気軽にどぞー。(嫌なら答えなかったりはぐらかすだけなので、聞く分にはタダよ
  • 樹ちゃんへ 推敲作業の息抜きにお邪魔しました。久保田師匠との濃厚で深い創作談義を横から覗かせて頂いて、改めて自らを振り返る機会を頂きました。樹ちゃんにサンタさんが来たように、私にはこれが最高のプレゼントです。有難うございます。
    「読者」を想定したコミュニケーション、というのは、好きなように書きたいことだけをただ綴って来た私にはまだ何ステップも先の課題のようにも思われますが、読者をもっと楽しませたいという気持ちはこれからも大事にしたいと思いました。
    樹ちゃんの書き手として人一倍強い謙虚さや素直さは大いなる魅力ですが、それに埋もれることなく、エンターテイナーとしての側面ももっと遠慮なく出して行ったら、さらなる飛躍をされるのかもしれない、と久保田師匠のご指摘を読んで感じました。私ごときが偉そうなことを申し上げるべくもないと思いながら、クリスマスに浮かれた老乙女の戯言とお許し下さいね(#^^#) 
    どうか素敵なホリデーシーズンをお過ごしください。
    そして、樹ちゃんの脳内で熟成されていた物語が、新パソコンの御蔭で私たち読者に届くことに感謝している大ファンが居ると、サンタさんにも宜しく御礼をお伝えくださいね。
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