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原作改変について

・芦原紀名子さんの件について、他の人の意見を聞いていると、原作改変について、自分とはだいぶ意見を意にする人が多かった。どうも、自分は毎度のごとく、少数派のようである。

 個人的な意見としては、原作改変自体はまったく問題がないと思っている。原作が改変されていようと、されていまいと、そのテレビドラマなりがおもしろければ、一視聴者としてはそれでよい。
 むかし、漫画原作のアニメは、できるだけ原作に忠実に作ってほしいという女子高生がいたが、自分はそれほどこだわることではあるまいと思った。趣味というか、考え方のちがいである。

 実写化に話を戻すが、たとえばだが、原作の髪の色などは律儀に倣うのではなく、日本人(その俳優)の顔にあったものにしたほうがいい。一気にコスプレ感が増す(個人的な嗜好としては、あれはあれで好きだけれど)。

 であるから、今回の一件について、原作改変そのものを非難している人と、私は相いれない。
 問題は、「労働」上の契約が履行されなかった。その一点である。
 今回の問題は、日本の労働環境という、きわめて根の深いものに直結しているように思う。
 下請け企業などに務めている人には、芦原さんの気持ちや無念が痛いほどわかるだろう。そして、そういう人が今の日本には多くいるように思う。元受け企業の一存で、結ばれた契約が無視されるなど、ざらにあるのが、現在の日本である。

 芦原さんが原作使用の許可を出す一月前に、主役の女優がベリーダンスの練習をはじめたことが問題になっているが、これは、企業活動では、事の善悪を横に置いておくとして、まま見られることであろう。海外でも。個人的には、取り立てて騒ぎ立てる問題ではないように思う。
 原作使用の許可が下りなければ、ただその練習が無駄になるだけのことであり、一般企業でも、プロジェクトに対して、事前準備が無駄になることなど、ざらにある話である。日本テレビに誠意ある対応を求める人たちの気持ちはわからないでもないが、すこし感情的になりすぎているきらいがあるように思う。

 原作者に会いたくない。原作だけがあればよい。そう言った人がいるそうで、これも問題になっているが、個人的には理解できる発言である。前提として、原作者の意向というものがあるが。それでよいものができるのならば、別に原作者とコミュニケーションを取る必要はあるまい。できるのならば(むずかしいと思うけれど)。


・だれにも読まれなくてもいいから、コクのあるというか、奥行きのある小説を書いてみたいと思い、文学に関する本を読みはじめている。
 長編小説を2作書いてみて、また、カクヨムでほかの人の作品に触れてみて、そう思った。依然、頭の中は空っぽだけれど。
 カクヨムのエッセイで知った、ジョゼ・サラマーゴの「象の旅」を読みはじめているけれど、おもしろい。会話文(「」)が一切ないのだ。地の文に落とし込まれている。むずかしそうだけれど、まねしようかな。


・辻原登先生といえば、本屋の店員はスーパーのレジ打ちと変わらないと喝破した方だが、「東京大学で世界文学を学ぶ」の冒頭で、十代のうちにドストエフスキーを読んでいない者は小説家になれないと、これまたドキリとさせられる一文を載せている。小説を書く参考のために読みはじめてそんなことをのっけから言われると、気持ちが冷めてしまう。でも、まあ、私は自分のために小説を書きたいだけなのだから、辻原先生のいう「小説家」ではないだろうと、自分をなぐさめてみる。
 挑戦したけれど、だめだったな。ドストエフスキー。おもしろさがよくわからなかった。分厚いし、人物のなまえが長いし。
 人物のなまえでいえば、ポルトガル語の響きが好きである。そのためもあり、「象の旅」を読んでいる。


 ではでは。

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