• エッセイ・ノンフィクション

家庭の話‐創作の方向性‐

十二月三日、午後六時。
家庭環境のストレスと遺伝的性質から
鬱やちょっとした霊感に悩まされながら
社会的生活が送れなくなって5年が経過した。

隔絶された12年の末に離婚した父と母は両者ともに言い分があり、
久方ぶりにそれぞれの言うことを聞き取って、ある程度の納得は出来たが、
根本的に「この人のそういうところは、何をしたって治らないんだよね。」と
思える箇所がとても多く、そしてそれが彼彼女自身の責任であるとは
言い切れないことを自分自身の価値観で把握し、

親同士の断絶ーーというよりお互いに嫌悪して呆れている現状を
私自身の力でどうこうできるものではないということをはっきりと理解した。

私は父と母に互いが相互に価値観と心の内を理解しあった上で
二人で私に対して親として協力的に向き合ってほしいと願っていたが、

私が生まれる前に既に二人は何をしようと
噛み合わない閾値のようなものができてしまっていて、
私が生まれた時点でそれを越えていたらしかった。

遺伝、固着、トラウマ、社会の常識の変化、
それをどう呼んでも構わないが、
彼ら自身の持った傷を、彼ら自身の責任として
彼らに突き付けることは、




私自身を退行……否、
「これを相手にしたってしょうがない」
とか、
「手の施しようがない」
とか



そういう風にいうもので、






10年、20年かかるもので、






私は親に関してため息を吐いていいし、

父と母の互いの心のケアのために
父と母の嫌なところを相手方のところに
持っていって愚痴解消の着想元に
したって構わなくて、





しばらくそういう風に生きていかなくては
いけないらしい。






12年前、家庭が一番逼塞したときから
少しずつ段階的に始めるつもりだったが、
ここだ、というタイミングが出現せず
思ったより遅れてしまった。





親のことは
二人とも好きだし、嫌いだ。






モラトリアムも終わりに差し掛かると、
親というものは越えるものではなく、
自分の領域を獲得して離れるものだということが
わかってくる。









『機動戦士ガンダム Gのレコンギスタ』では、
クンパ・ルシータ大佐とウィルミット・ゼナム長官に
富野由悠季監督のご両親のエッセンスが入っていると思われるが、

世の中を諦観しながらも傍観者の態度を取り続ける父親と
ヒステリー気味に自分の信じる観念に捕らわれて自縄自縛に陥る母親という
二人の立場が若干コミカルに描かれている。


ただ、傍観者然とした大佐は自分なりの保護を世界に対して与えていて、
その行く末がどうなるのか自分の目で常に確かめようとしているし、
母親も体を張って養子であるベルリのことを守れる行動力を持っていて、
宇宙エレベーター運航長官というポストで高い仕事能力を有している。


主人公のベルリ・ゼナム少年らしく言えば、

「大佐の頭が冴えていて世の中の人々が馬鹿らしく見えるのはわかるし、
大佐なりの思いやりを持って世界を見ているのは知っています。
だけど結局は世捨て人ぶっているのに世界のことを捨てきれなかった
俗世を掻き廻した傍観者だから、あなたも『しょうもない人間』の一人として
ここで世界を見ていればいいんです。残念でした、大佐!」

とか、
「母さん、母さんが真面目な人で人一倍頑張っていて、
僕のことをいつも気にかけてくれているのはわかります。
だけど僕は、僕自身の目で、僕自身が見て来た光景で、
何が正しいのか、自分の足で探してみたいと思います。
それじゃ、行ってきます!」
とかになるだろう。




父親は「あんたもしょーもないね、まあ、ご苦労さん」で
『少し嫌い』の部類で視界から追い出しておいて、
(社会的な没落も含めて罰ゲーム的に笑って受け止める)



母親は「母さんが大変だったのは知ってるよ、
頑張って育ててくれてありがとう!」
(社会的に信頼されるところまで押し上げて深入りせずに放っておく)




という至極真っ当で健康的な距離の取り方をしていて、




だいたい私の今の現状と重なるなと感じて、
そういう気持ちで父と母を見てればいいんだなと思えるし、
やはり富野監督は家庭論もできる人だなと思った。





うちの親はわかりあって離れ合うということはできないし、
私が気を回すことでもないということは最後の入院を通して理解できた。

そんな父と母をどう目していけばいいのかは富野監督が描いてくれた。
ありがとう富野監督。これからもご自愛下さい。








父と母が齟齬や誤解や対立を深めたことは父と母自身が
私に対して真摯に説明し釈明し謝罪すべきところがあると思うが、
父と母が抱える問題は本人に言葉で話しても変えられないか、
あるいは受け入れられないものか、という障害がある。








それに関して私は「関係ない距離感」と「真摯に向き合ってくれる関係」を
両取りできるように努力して画策している。そしてそれはある程度
現時点でうまくいっている。





そしてそんなことを若干の自嘲を心に混ぜながらネットの海に書き出している。









家庭とは、いったいどれだけの数がうまくいっているのだろうか。
完璧にうまくいく家庭なんて、きっと存在はしないだろう。



互いの噛み合う力に魅力を見出し、噛み合わなさでこじれていく。
制度があれば人は救われるのか?常識が変われば人は報われるのか?



そうではない。もっと生物的な、遺伝子の問題であると思う。



遠く、もっと遠くを見つめたくなる。
普通のSFでは、私の書きたいものにはまだ近すぎる。



神話、それも未来の神話を見つめたい。








男と女は 、その濃淡を有した者たちは、
どこへ行ったのか?どう伝わったのか?




種族として人間が人間ではなくなった後の世界が、見たい。



そんな話が、書きたい。

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