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病気、虐待、宗教を通って死について思うこと。

高校の頃の希死念慮は感情の暴走のようでした。単なる抑うつ状態のそれと言って相違ないほど、シンプルかつ可愛らしいものだったと思います。今となっては笑い話ですが、登下校中に川を見ると誤って飛び込まないように少し口元を固く締めることが何回かあったなあと。特に夜の川は神秘的でした。水面が月の光を反射するたびになんだか引き込まれそうに魅力的で、それで且つ静かで、ここで溺れたら誰も見つけてくれないんだと思うと少しの恐怖と恍惚を感じるのです。しかし、抑うつ状態の時は大抵布団から動けないので、希死念慮を抱えていようが変わらないのですよね。あの時は何を考えていたでしょう。ただひたすら自らの人生が情けないと泣いていた気がします。憎しみと諦めと、放っておいて欲しい気持ちと、ああこのままどこかへ攫っていって欲しいというような少女的な妄想と、ぐちゃぐちゃになってよくわかりませんでした。19歳の時に、どうせいつか死ぬのだからと、虚無的な励ましで自らを誤魔化して無感覚になることを試みました。それが1番苦しいことであると知らずに。効果は絶大でした。何も考えないということは、湧き上がるあらゆる不幸な考えを芽が出るまえに潰していって、まっさらにしてしまいました。苦しくない。そう思って最初は歓喜しました。しかし、時間が経っていくごとに、自分がなんなのかわからなくなっていきました。感情を殺した結果生まれるのは合理性による死の選択でした。途端に人生がつまらなく感じたのです。何も感じないということは、生きていないということ。生きていないのなら、今死んだって変わることではないということ。その時、人生で初めて自殺を試みました。クローゼットの手すりにスマホ用ショルダーの紐を括り付けて首を引っ掛けました。でも上背があるせいでうまくいきませんでした。家族は一人もこのことを知りません。しかしなんだか、まずい気がしたのです。これは間違っていると、なんとなく思ったのです。思いながら必死に思考を巡らせました。何が人生を面白くさせるのか。私がこの人生というゲームを続けてもいいと言える、新たな攻略対象を探していました。その時、自らの心の在処に気づいたのです。私がつい最近まで何度も手放したいと思っていたもの、苦しみそのものでした。私がいつも抑うつで感じる情けない気持ち、憎しみ、消えてしまいたい全てが、私にとっての生きる証明だったのです。その瞬間、一気に心から喜びが溢れるような気がしました。私って生きてたんだ。そう思うとなんだか全てが素晴らしいような気がして。悲しいって、どんなに優しいのだろうと感動したのです。そうして自殺を思いとどまって、人生は一変しました。病気が寛解したのです。もう抑うつに苦しまなくなりました。毎日が幸せでした。いつのまにか家族に対する憎しみも手放してしまいました。それからは導かれるように正教会で洗礼を受けるなど、色々な運命が待っているのですが、ここでは割愛しましょう。そうして一年経って。今、死について考えていることがあります。今でも死は魅力的です。私は満たされているので、正直いつ死んでも後悔はないでしょう。しかし、目標があるので死ぬわけにはいかないのです。それに私が死んでしまったら母を慰める人がいなくなってしまうので。正直、身体においては生命力の低下を痛感していますが、心は力強く生き続けております。おそらく、体が死んでも心は死なないのでしょう。そう思うと、去年とは異なる意味で死が怖くないのです。たとえ私が孤独に死ぬとしても私は一人ではないのでしょう。今生きている自分が一人でいる時でさえ、何か、大きな何かが私たちを見守っている気がします。月の明かりを見るたびに、なんで優しいんだろうと感動することがあります。そんなふうにきっと死んだ後も何かに感動しているのです。死ぬことってもしかしたら生きることの延長なのかもしれません。死が終わりなのではなく、永遠に続くいのちの内の一区切りのようなものなのでしょう。ハリストスが唱えた不死とは、このことなのではないでしょうか。

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