最終話投稿寸前に、ふと思い立って書いてみました。
「おかえりー!」
集落の者たちの歓迎の声に――ガンダが、包まれた。
私にも似たような声は向けられるが、そこにあのような喜びのにおいは乏しい。
私は、ヒトの間ではバウワウと呼ばれている。
そのように呼ばれているだけだ。他のバウワウとはちがう。ガンダも同じくヒトの間でそう呼ばれているだけだ。私たちの間では、口から発する音とは別に、におい、仕草などでそれぞれを見分けているので、同じバウワウと呼ばれる同士でもまったく違うのだが、ヒトにはわからない。ヒトと私たちは似ているが違うものなので仕方がないこと。逆に私たちには、ヒトが名乗る、本人の名前以外の「家の名」や「貴族の位」というものがまったくわからない。そういうものを言い出すヒトには丁寧に接しろ、とおかしらに言われているのでそうするだけだが、理解はできていない。
ともあれ、グライルを往復する仕事を終えて我々の里へ戻ってきたのだが――。
共に戻ったガンダは、すでに彼の子を何人も作ったメスたちが取り囲んでいる。あいつは同族にとても好まれやすい。メスには魅力的なにおいを発しているようだ。
私はあいにく、私のにおいを好んでくれるメスにまだ出会えていない。駆ける速さにしても戦う力にしても危険を察知することにかけてもガンダに劣っているわけではないはずなのだが、色合いや顔の形や毛並み、そしてにおいが違うのでは仕方ない。
彼の子を産んだメスや自分の子供たちに群がられているガンダをよそに、私は集落の奥へ進み、年老いた――老いるほどに長く生き延びることのできた長老たちが居並ぶ参道を進んで、我らの守護精霊さまの化身とされている岩の御元に頭を垂れた。
その時、啓示をいただいた。
次の仕事はきわめて重要だ、というもの。
しばしの休息の日々を経て――再び、私とガンダは里を出た。
ゾルカンの隊に同行することになった。力のあるヒトのオスだ。おかしらと認めるに十分な力量の持ち主。
合流し、まずバルカニア側に向かい、そちらで荷物を受け取り、東へ向かってカラント側へ。
カラント側の縁に付く二日前、戦いには役に立たないがとにかく速く駆け続けることに長けた、小柄なウマ系獣人が飛びこんできた。
この先のカラント側、下界で大きな変化が起きて、自分たちの隊は滅多にない大人数の「客」を連れてゆくことになるという。
グライルを知らない者が沢山入ってくるというのは面倒きわまりなくて、早々に消してしまっていいとも思ったのだが、ゾルカンはこれは大もうけになる俺たちにもいいことになると、受け入れる判断を下した。
私はゾルカンにひとりだけ呼ばれて、今回の「客」にはヒトの女、子供が何人もいるので大いに役に立ってもらいたいと激励された。
正直なところ、好意を向けてもらえるのはわかっているのだが、ヒトのその手の連中というのはやたらと私の頭や毛並みを撫でたがり、下手をするとしがみついたり顔を埋めたりしてくるので、面倒だと思う気分の方が強いのだが。もふもふ、というよく聞かされる表現が何を示しているのかどうにもわからなくて困っている。
しかし役目は役目、やらねばならぬ。
全体の警戒はガンダに担当してもらって、私は下界から入りこんできた者たちひとりひとりを検査し、おかしなにおいがしないかどうかを探る仕事につく。
ヒトの女と、その子供には喜んでもらえた。問題を起こさずにいてくれるのなら撫でられるくらいは許容すべきだろう。
……最後の方になって、ヒトの子が崖を登ってきた。
精霊の啓示が全身を打ちすえた。
とてつもない「におい」を発していた。
先に見た人の子供とはまったく違う、根本から違う、貴族とか言っていた者たちよりもはるかに巨大な存在の「におい」だった。
それだけでも群れの長に対すると同じくらいの敬意をはらってしかるべきだったのに。
その子がまとわせている「におい」……その者が発するものとは別な、外部からのものが…………。
それをかぎとった瞬間、私の鼻どころか肉体、いや心のすべてが停止していた。
判断停止。控えよ。伏せ。
うちの集落の長よりもさらに上の上の上の、最上位者がおいでなされた。
フィン・シャンドレンと名乗っておられる方だった。
その方ご本人が現れた時、私は本能的な、ヒトの間では無様とされる姿勢を取るのを死に物狂いでこらえ、ヒトとしての最敬礼をとってのけた。
それが評価されたのだろう、お許しをいただけた。
無礼と思われたならばすぐ毛皮だけにされていたことだろう。
私は生きている。それが答えだ。
……私からすればあれほど明確なものがなぜわからないのか困惑したのだが、フィン様のものであるあのヒトの子は、自分の主がどのようなお方なのか理解していないようだった。
いくつもの、いつもよりはやや過酷なことが起こりはしたが、おおむね普段通りの旅路の中で、幾度もそういう場面を見聞きすることとなった。
そして…………さすがにこれは経験したことがないとてつもない事態が起き、フィン様が片づけてくださった後に、その子供がまだ悩んでいる様子だったので、私の感覚のままに忠告した。
大きなものの庇護下に入れ、弱いものにはそれが必要だと。
その結果、子供は完全にフィン様のものとなり、このグライルではもう誰にも、何にも手出しされない存在へと引き上げられた。
あの子供が少し離れた隙に、フィン様が私を、私だけをお呼びになられた。
完全な二人きり。
「あの子の背中を押してくれたのだな。感謝する」
他に誰もいなかったこともあり、私は心と感覚の導くままに、イヌ側の情動に従い、地べたにごろりと横たわった。
ヒトからすれば醜悪なものに見えるらしい、衣服をはだけて腹の部分を出した、完全な服従の姿勢。
我々からすれば、これにより全てがうまくいくというのに何が悪いのだとヒトの感覚に疑問を抱くところなのだが……ともあれ。
「よくやってくれた」
至高者に、淡い毛並みが覆う腹を撫でていただく望外の幸福を得た私に……。
途方もないものが流れこんできた!
「お礼だ。受け取れ」
灼熱の奔流だった。
我々の神が入りこんできた。さきに祈りを捧げた精霊が私に満ちた。私に与えうる限りのあらゆる祝福、守護が与えられた。
――旅程のすべてを終えて、さすがに疲れ果てて、ガンダの訃報も携えて里に戻ると。
みんなの、私を見る目が、違うものになっていた。
長老たちが、私に腹を見せて。
これまでは私が伏せていた相手が、私に伏せるようになって。
メスたちが…………ガンダの子を産んだ者たちも含めて、無数に、私に群がってきた。
フィン様に感謝するのはもちろんだが、他の者ではなくこの私があの子供に接し、フィン様がご同行するゾルカン隊に参加できたという幸運を、そのような巡り合わせをくださった精霊と上位神とグライルの大いなる神々に心から感謝しつつ――。
メスたちに求められるまま、子作りに励んだ。
「バウワウ」
カルナリアのグライル踏破に同行した獣人族のひとり。
女帝カルナリアが愛玩したペットの名と伝えられているが、ヌヌー「グライル往還記」によると愛玩動物ではなく警護の役目を務めた獣人一族の個体名である。
女帝の旅路を何くれとなく支え、信頼を得て、のちにその子たちがカラント王宮に出仕することとなった。
バウワウ自身は人間より寿命が短い獣人族の天寿を全うしカルナリア暦三十年頃に死去したが、その子たち、孫たちが代々カラント王宮に出仕し、国王や貴人たちの身辺警護の任につき大いに役立った。
犬系獣人の中でもきわめて愛らしい、淡い色合いの毛並み、丸っこい顔立ちにより同年代の女性に人気を博す。
カルナリアも、バウワウの子を大いに気に入り側に置いたという記録がある。事実、「親衛兵」たる獣人の嗅覚により難を逃れた毒殺、暗殺未遂事例がいくつも発生した。
「巨乳連隊」ことカルナリアの親衛部隊の間でも、バウワウ系の獣人たちは大いに愛されていたと伝えられている。獣人用の洗髪液、各種化粧品類に多額の資金が投入されいくつもの成果をもたらした。
カルナリアの「死亡」発表と共に、各地の「バウワウ係累」の者たちがいっせいに任務を放棄しグライルに戻っていった。
彼らにとっては、人間との契約よりも血が伝える盟約の方が重要なものであるという実例となっている。
この事件以後には、獣人を契約で縛ろうとする試みは激減した。