一人称の不可能性

ミステリーにおいて文章というのは殊更に大きな意味を持つ。
新本格においては顕著な動きで「排他的な空間で行われる純粋な思考ゲーム」を原点と考えれば容易で、要するに文章表現に一切合切のヒントが含まれているからだ。これはガリレオといったハウダニットではやや外れる向きはあるが、思考に重きを置く小説に論理が求められるのは必然といえる。
しかし、最近困ったことに(筆者は)なっている。
それは一人称のミステリーだ。
ミステリーでは珍しいことではない一人称ではあるが、これに大きな疑問を抱くことが多い。
基本的に一人称というのは誰かに憑依した視点からの文で読者の目はそれを通して作品を見ることになる。しかし、人間の感覚というのは曖昧なもので、完全に信頼を置くべきものではないともいえる。
つまり、視点人物の主観によっては誤読や決定的事実抜け落ちや記憶の齟齬などが生じる可能性が高い。
「今更何を言ってるんだ」という話でもあるが、私は真剣に考えてみたい。導き出される論理の根本がねじ曲がっていてはそれはアンフェアではないのか。
解決方法としては完全な人間が挙げられる。つまり、視点人物=神である。三人称に戻るという意味ではなく、言葉通りの意味で。デウスエクスマキナになる予感しかしないが、これも不完全と言える。
完全な人間の完全の証明がなされない限り、それは完全と言えないのだ。それに新本格の特徴として「人物関係の隠蔽」が挙げられる。
新本格では論理優先のため、一般には、動機は軽んじられているといわれる。(具体的な書名をあげたいところだが・・・)
つまり、事件の内部にいる時点で犯人とどのような関係にあるのかがラストまで分からないという致命的な欠陥があるのだ。
また、ミステリーとはすべて疑惑から入るものともいえる。主人公と仲がいいから「犯人でない」とは言い切れないのだ。
完全に事件と無関係といえるのはやはり視点人物が「神」視点である三人称に絞られるともいえる。すくなくとも、一人称ではそれは為しえない。
しかし、私は構成上、一人称で書かないといけない。
それゆえに少し足が止まってしまっている。無論、それを気にせずに一人称で書く人もいるし、それはポピュラーなものでもあるといえる。
ただ、あまり気にかけられない物事に目を向ける視線というのも大事だと思う(という進捗への言い訳)

追記
誰かいい解決法があったら教えてください。

2件のコメント

  •  一人称視点において話者を信用出来ないというのはもはや前提であって(姑獲鳥の夏とか)、それは言ってみればワトソンの時代から実はそうなわけですよね、っていうのはワトソンは自己をボンクラであることにして、意図的に事件解決に寄与する重大な手がかりを記述しなかったり重視しなかったりするわけです。彼は事件簿を書いている時点では答えを知っているのにも関わらず、ですね。

     なのでフェアネスの観点から言えば、一人称視点の場合は誤謬、誤解、失認があるのは前提で、かつそのあやまりを「論理的(この言葉をどう定義するかはめちゃ難しいですが)」に指摘できる構成であること、というのがいわゆるところの本格なのではなかろうかなぁ、と思いますね。むしろどう一人称話者が「的確に」誤るか、ウソではないけど正直ではないビックリラインを語るか、ってのがひとつの考えどころではないかと思います。ちょっと面白いテーマだと思いますね。
  • 返信ありがとうございます。
    私は一人称で書かないといけないというトリックの制約上、ある意味で言えば「前提」に無謀にも切り込んでいったわけですが、大家でさえ曖昧に済ませている問題なのでやはり難しいですね。
    条件付きであるならば、シリーズ物の探偵側のレギュラーは信頼性が上がっていくとは思うのですが、ドラマの相棒のように必ずしも成立はしませんし、日常の謎といった軽い内容では米澤穂信氏の「手作りチョコレート事件」など反証もあるので・・・。ましてや、一作目の読者の疑心暗鬼は推して知るべしといったところでしょうか。
    ただ、人物の背景を意図的に隠蔽して、叙述で騙すというやり方が一般的な今では、読者も安心して一人称の視点人物に委ねられるのは有栖川御大くらいでしょうか(しかし、やはりシリーズもの・・・・・・)
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