https://kakuyomu.jp/works/16817139557879395382/episodes/16817330652180141119逆理桜紅葉(さくらともみじ さかさのことわり) 九の巻「ほとけ」
前章「八の巻 土蜘蛛」で前フリをしたはずの蛇神vs土蜘蛛軍の妖怪大戦争。すわ次で開戦か、と思いきや、まさかの肩透かし&おあづけ。
本章の大部分は、姫と蛇神の仏教談義という。いやホントに、これは読者需要を無視し過ぎだと自分でも思いつつ。
この段取りは、作者的には、本作にはどうしても必要なのです。あらかしこ。
平安文化を語るにあたっては、やはり仏教的な要素というのは欠かせないエッセンスだとは思うのですが、仏教と言っても、一口で言ってどんな仏教なのか。
この小説、「平安時代」というだけで、平安時代のいつ頃のお話なのかということを設定していません。漠然と平安チック。ですから仏教も、天台真言の密教なのか、もう少し後の浄土信仰なのか?そこは本当は悩ましく思うべきところなのですが、姫が蛇神に説く仏教は、どうやら天台宗最澄の奉じた「法華経」の仏教観。
いや実はその、作者であるワタクシが「法華経ならほんの少しはわかる」人間だったので……まぁ時代的にも大きくハズレてはいなさそうだし、それでいこう、と。
ただ問題はもう一つ。別にまだ出家したわけでもない、貴族の姫が仏教の摂理を蛇神に滔々と説くというのは不自然ではないか、ということで。平安人が信心深かったといっても(その点では現代人よりもはるかにそうだったとは思いますが)、仏教の教義についてどれほど突っ込んで知ろうとしたのかというと、さて?
ただ、原作「堤中納言物語」中の「虫愛づる姫君」というキャラクターは、ワタクシの感じたところではひどく「マニアックで理屈っぽい」少女なのですね。妙な屁理屈を捏ねては親や女房達を言い負かして苦い顔を誘う、そういうシーンが印象的で。ただそれが原作では、ひとえに虫に対しての知識や意見に偏っているわけですが。
そういう性格の少女が、一方で「自分は尼になるしかない」と思い詰めていたら?ただの拝み信仰ではなく、仏教の教義そのものに、人より深く首を突っ込んでいくのではないか?……とまあ、本作では彼女をそういう少女として造形してみたわけです。
ただしそれが作者のワタクシの表現で上手く文章に表せているのかは、はなはだ再考の余地があるというか(苦笑)。読者の皆さんの御意見をお待ちしたいところではあります。