移動教室に置き忘れた片耳を取りに廊下を走った。
視界を横切る教室では、夕日の中に椅子や机だけが浮いていていい気分はしなかった。足音が壁や掲示物に反射して、置き忘れた片耳を起点として左右非対称に降りかかる。まっすぐ進んでいるはずなのに、音の懸濁の中で目が回るようだった。
わかっている。これが夢の中だってこと。風邪をひいて、今日は休んで、午後の日を浴びながら見ている夢だってこと。朝からの熱のせいか、片耳だけ埃の浮く教室に置き忘れたみたいな静けさ。
熱に浮かされて私は走る。ふっ、ふっ、はっ、はっ、どこかで習った長距離走の呼吸法。ふっ、ふっ、はっ、はっ、まだ移動教室は見えない。
みっちゃん元気かな、私の風邪うつしてないかな。給食、食べたいな。白いお粥はもういいかも。
すがり付いた教室の引き戸はガラガラと開き、中へ1歩踏み入れる。暴れる心臓、じっとりと汗。膝に手をついて何度も息をする。木屑みたいな香り。私だけ、生きてる空間。
見回すと、あった、机の上に私の片耳。ちいさいほくろがひぃふぅみぃ、間違いなかった。家に帰ってからくっつけよう。冷たい耳たぶをそっとつまんでポケットに入れる。引き戸を閉めて、また走り出した。弾む足音にこぼれ落ちないよう、ポケットを押さえながら。
毛布の温かさと、少し汗ばんだ感覚に目を開いて、ほっと息をつく。まわりの音が透き通っていて、思わず片耳に触れる。あった。
祝杯をあげねば。冷たい水道水をひとつ! 起き上がろうとして、母に見つかり、また寝かされる。
ひんやりした手を額に当てられながら、体調、どう? と訊かれたから、夕ごはんはすき焼きが食べたいと呟いて、元気ねと言われた。