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山野辺主水正

そのうちnoteでも書くかもしれませんが……。

助川海防城の城主だった山野辺主水。名前だけは、第2章の「守山藩」(守山藩の助郷騒動)のときなどから、登場していました。

どこまで作中で山野辺主水正の情報を盛り込むか考えたのですが、あまり詳しく書いてもバランスが悪くなるので、今までの流れを踏まえて、連行されていく場面を中心に書いたわけです。

さて、この助川海防城の攻防について。
8/28前後は、御家老の源太左衛門様が助川海防城の攻撃のメインを受け持っていました。
(『助川海防城の全貌』より)
このときに、二本松藩に投降を申し出ていたのは
・大石田六兵衛通勝
・興野昇左衛門
の二人。ただし、源太左衛門様はこの投降の申し出を断固として断っています。

その後、9/6の投降で山野辺主水正に同行していたのは

・小沼亭介
・大泉九兵衛
・郡司仙蔵
・高野八郎衛門
・小沼錫之介

の5名。湯縄子で鳴海らに投降を申し出て、それが受諾されて太田へ連行されたのでした。

もっとも、このときの連行ルートは、萩露旭旅立(白沢村史に収録されている、従軍した里正の手記)と拙作では異なっています。

萩露旭旅立では、鳴海らは4日に山野辺氏を受け入れ、6日に連行したことになっています。このとき、なぜか久慈川まで出て、船で少し遡ってから大橋宿に行った事になっていますが、それ自体、不自然なんですよね(´・ω・`)

というのも、湯縄子から久慈川口まで少し距離があり、16~18キロの距離をわざわざ遠回りして移動している計算になるからです。
しかも6日と言えば、まだまだ天狗党と砲撃戦を繰り広げていた頃。
このときに、久慈川を遡って山野辺氏を連行したとは思えないのです。

萩露旭旅立については、地名の誤記(那珂川と久慈川の取り違え)なども結構あります。
そのため、書き手の勘違いも含まれているのではないかなあ……ということから、川を登る経路ではなく、陸路経由で連行させてみました。

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