妹から後藤由美、と呼ばれていたことがある。後藤由美はもちろん本名じゃない。そんな簡単にはさらさない。
後藤由美→ごとうゆみ→こうとうゆうみん→高等遊民
大学院に通っていたが、コロナで自宅に1年半いたころのわたしはまさに高等遊民のようにおとなしく家でだらだら生活していた。あの溶けていた時間が今ではなつかしい。切り分けて今消費してあげたいくらいだ。
本当に高等遊民に憧れは未だにある。好きな文章を好きなように書く生活。でもそれは今なんとなく叶っている気がする。安いお給料だが、生活には不自由しないぐらい稼ぎ、社会保障という基盤をがっちり確保しつつ、自分のペースで文章を書く。kindle出版は売り上げはちんまりだが、それでもたまに売れるとこれでまた新しい本の製作費に回せるなあとかほくほく計画していたりする。副業高等遊民、このまま続けていきたいなあと思っている。
この間、映画『蜂蜜と遠雷』を見た。原作も読んでいる。
原作を2年前、わたしは中国語教室へ通う時にパラパラ読んでいて、一気読みなど全くせずに、ゆるく、音楽で言えばボレロのように変わらない日常の中になじませながら淡々と読んでいった。読んでいると、電車の路線がどんどん長く伸びていくように、この物語もどこまでも続いていくような、そんな不思議な読書体験をした本だ。
映画は原作より重めなかんじで進んでいったが(恩田陸作品は全般的にけっこう軽妙なところがあるので)、森崎ウィンの陽キャ感、磁石みたいな魅力のあるマサル役にぴったりだな~と思っていたし、個人的にこの小説で一番好きだった明石が松坂桃李か、こういう普通っぽい役に合うなあと思って見ていた。
「実際にピアニストとして食べていける人はわずか。たいていの人はピアノ教師になるか、趣味で弾くか、音楽自体をやめるかよ」
審査員がそう言い放った。
芸術なのに、基準があって評価されて。それは枠が決まっているからだ。天才しか座れない椅子が。ちょっと前までは本当にこの道しかなかったんだろう。
わたしも選ばれたものを見ていたい気持ちがある。オーディションで勝ち残ったアイドル、文学賞受賞作品、コンクール優勝者のピアノの音。どれもお墨付きだし、やはり勝者のパフォーマンスを見たい。
でも今、表現する場所は増えて、わたしたちは選ばれることが必須ではなくなった。
もう選ばれるとか、カテエラとか気にしなくても、本人次第の世界に動き出していた。それはやさしい世界ともいえるけど、才能がないだとか、運がないだとかそういう逃げの言い訳は通用しない世界にもなった。
わたしがこの本を読んだのはほんの2年前だった。でもこの物語を昔はキリキリと窒息しそうな気持で読んでいたが、今はちょっと少し落ち着いて、周りを見渡しながらこの物語に没入していった。