「お笑い/コメディ」(4789字で、レギュレーション違反でした)
事件現場はマンションの一室だった。と言って『事件』について概要を伏せたまま、まるでそれが殺人事件であるかのように話を進め、解決した後に『事件』そのものはたいしたことのない出来事(ケーキを誰かが食べてしまった、などだ)だったんだよ、あっはっは、などと笑い話にするのが王道だろうと思うのだが、非常に残念なことに正真正銘の殺人事件だそうである。
と言っても、そこに死体は置かれていない。被害者の体の枠を囲った線すらない。もうすっかり綺麗にされて、ただの片付いたマンションの一室に過ぎない。そのことがなぜか、私を少し悲しくさせる。
難航している事件の推理を依頼された――という話を成香さんから聞いたとき、正直言って、私は少々軽い気持ちで成香さんに着いていくことにした。しかし今では少し後悔している。これは本当に起こった悲しい事件で、誰かの命が確かに奪われたのだ。そして、その人間の命が奪われたことそのものが、いまや跡形もなくなりそうになっている。少なくともこの部屋は、綺麗に片付いてしまっている。
あんまりじゃあないか。理屈ではなく、私はそう思った。
別に部屋を片付けるのが悪いこと、と言うわけではない。ただ、死というものがあまりにもあっけなく「片付いて」しまうような気がして、少し怖くなったのかもしれない。
操作が難航している、ということはすなわち、誰かを殺した人間がのうのうと、かどうかはともかく逃げ延びているということだ。そいつの心も、いつの日か、あるいはもうすでに「片付いて」しまう/っているのかもしれない。それは多分、良くないことだ。
おそらく慣れていないからだろう。慣れたいとも特に思わないが、ただ「事件があった」と聞かされた部屋に通されただけで、私は少しばかり被害者に同情し、加害者に憤ってしまっている。そんな自分に少し気恥ずかしくなりながら、そう、私は被害者の名前すら知らないことを思い出す。まったく。
照れ隠しに、というのもおかしいが、少し気まずい気持ちで成香さんを探すと、成香さんはさすが『探偵』、腕章をきらめかせながらきびきびと部屋の検分を済ませている。そしてベッドに腰掛けている男――刑事で、成香さんに依頼をしてきた有本《ありもと》という名前らしい――に成香さんは尋ねる。
「部屋に特に変わった様子はないわね。何に困っているのかしら。ま、いいわ。ひとつずつ整理していきましょ。まず、被害者は誰?」
成香さんがそう問うと、ベッドに腰掛けていた男が、少しだけ目を見開く。そしてすぐに、動揺など微塵もしていない、というように居住まいを正す。正直言って、素直に動揺するよりよっぽど気持ちが動いているのがバレバレな気がする。しかし、動揺するような質問があっただろうか? 簡単な事件、というのが気に障ったのだろうか?
この有本と言う男、成香さんの評なので若干偏見がある可能性もあるが(と言うと私が成香さんのことを信頼していないようだが、そういうことではない)、成香のことを普段は馬鹿にしているというのか、まあ「探偵なんぞに何が分かる」タイプの刑事であるそうだ。そのような人間が今回成香さんに『依頼』をせざるを得なかったのはおそらく相当屈辱である、ということだったので、何か成香さんがこう、探偵めいた鋭い視点で推理をし、それで自分が苦労して行った操作が無に帰す――みたいなことが起これば、そういう態度をとるのも分からなくはない。でもまだその段階じゃあないだろう。私は真意を読み取るべく、有本の答えとその様子を注視する。
有本は、わずかに悔しげに唇を歪ませ、こう答えた。
「ふむ、ま、さすがに『タンテイ』だ、そのくらいは調べてくるか――その通りだ」
「「は?」」
私と成香さんは、おそらくカタカナで発音されたであろう馬鹿にした響きの『タンテイ』という言葉に突っ込むことをせず、声を上げて問い返す。私に至っては、少々声が裏返っていたかもしれない。
有本が言う。
「なんだ、どうかしたのか」
「どうかしたのか、じゃあないわよ。何がその通りなのよ。被害者は誰、ってあたしは言ってんの」
「だからその通りだと言っているだろう。……まったく、嫌味なやつめ。まあいい、話を進めよう」
「あんた、ばかなんじゃあないの」
「ふん。『タンテイ』ってやつは俺たちの苦労も知らずに、気楽なもんだ。お前さんはそうやって、思いついたことを好き勝手言えばいいんだろうがな、俺たちゃあそれが本当にそうであることを足を使って確かめなけりゃあいけないんだよ。それをばか扱いしやがって」
「は?」
「まあいい。とにかく、――被害者は垂《だれ》だ」
「だからあたしが聞いてんじゃあないのよ」
「うるさいな。だから答えただろう」
「答えになってないわよ」
「何がだ」
「だから、被害者は誰だって言ってんのよ」
「だから垂だって言ってるだろうが」
「あたしが聞いてんのよ」
「分かった分かった。……お前さんの手腕は認めよう。全く。これでいいか? 話を続けるぞ」
有本は憎々しげに言う。成香さんは眦を吊り上げて問い詰める。
「いい加減にしなさいよ。あんたがあたしを嫌いなのは知ってるけど、わざわざここに呼びつけたのはそっちでしょうに。そうやってふざけてるんだったら、あたしは帰ったっていいのよ」
「ちっ。まあ聞け。とにかく被害者は垂だ。それで――」
「つまり被害者が誰か分からないってことなの?」
「いや、それは確かだ。被害者は垂だ」
「何がどう確かなのよ」
「まあ決め手になったのは歯型だな」
「誰の歯型?」
「そう、その通りだ」
「は?」
「どうしたんだ、『タンテイ』。お前、そんな物分かりが悪かったか? つまりだなあ。――この部屋で、人間の生首が発見されたんだよ。かなり損傷が激しかったんで、特定が難しかったんだが――近所の歯医者に歯型の記録が残っていて」
「ほおん? なるほどね。ちょっと面白そうじゃあない。それで、被害者は誰なわけ?」
「その通りだ」
「は?」
皆さんは文字で読んでいるからお分かりだろう。私もこのあたりからちょっと分かりかけてきた。つまり――そんな名字が存在しているとはとてもではないが思えないが――、「ダレ」という人物がこの事件の被害者であったらしい。
「あのう、成香さん」
「何よ」
「その、えっと、名前が、ですねえ」
「なんなのよ」
私が説明しようとすると、また有本氏は身じろぎをする。そして居住まいを正し、咳ばらいをして言う。
「ちっ。本当に良く調べてきやがるな。そう。容疑者は楠《なん》という男だ。誰に多額の借金をしていたらしい。そして、事件後、楠の足取りは全くつかめない」「何の足取りですって?」
「そう、楠の足取りだ。煙のように消えちまったんだ」
正直冗談だろうと思ったが、有本氏の口調は真剣だった。成香さんは怒るのも忘れ、夢でも見ているのかしら、と言いたげな表情で茫然としている。珍しい表情だ。私は少しだけ、面白くなる。殺人事件にさっきまで憤っていたのも忘れ、少し冗談めいたことを言いたくなる。
で言ってしまった。
「それで共犯者は知らん、と」
「! お前――何者だ? まあいい。そこまで調べがついているなら話は早い。その通りだ」
「と、申しますと?」
「紫蘭《しらん》。そいつは、楠の借金を建て替えたと言い張っているんだな。だから、楠としても、垂との間にもトラブルがあるはずない、と言うんだ。ただ、コイツは楠の疑いを逸らすために偽証をしている可能性がある」
「そいつって誰よ? で、なんの疑いなのよ」
「垂じゃない。紫蘭さ」
「?????」
はあ。からくり、というほどのことでもないが、それを見抜いた私ですら茫然としてしまう。私の会社の社員も、我ながらふざけた名前の人間を集めたものだと思うが、本当にこんなことってあるんだろうか。まあ、あるというのだから仕方がないが。
そんなことを考えていると、夢から覚めた成香さんが叫ぶ。
「ちょっと! さっきからあんたはなんなのよ! 訳わかんない!」
「俺が? 楠だって? そんなわけないだろうが。何を言っているんだ」
「何だっても何もないわよ!」
「いやいや、それは流石に飛躍だろう。いいか『タンテイ』さん。奇抜なことを言えば推理になると思ったらそれは大間違いだ」
「まあそうですよね。あなたは有本さんで――垂でもない。楠でもない」
「ふん。そういうことだ」
「誰でもなくはないじゃない!」
「だからなぜ俺を事件の関係者に仕立てあげようとするんだ」
「してないわよ」
「してるじゃあないか。いいか。落ち着いて聞け。紫蘭がこう言っている」
「何が知らないってのよ」
「何も」
「は?」
「どうやら、紫蘭は事件については何も知らない──ということらしい」
「そりゃあそうでしょうよ」
「ふむ? なぜそう思うか、一応教えてもらえるかね、『タンテイ』さん」
「あんた、そこまでばかだったかしら……。あのねえ、同じ言葉でしょうそれはもともと。ただ見た目っていうか、活用が違うだけで」
「どういう意味だ」
「どういう意味もこういう意味もないわよ。いいからちゃんと一から説明しなさい! 被害者はなんなのよ」
「いやだから被害者は垂だっ──なるほど?」
「なにがなるほどなのよ」
「いや、やはりそれはおかしい」
「おかしいのはあんたの頭よ」
「歯型はどう説明する?」
「誰の歯型よ」
「そうだろう? 最近じゃあDNA鑑定っていう便利なものがあるからな。首なし死体が見つかったところで身元の特定は不可能ではないが、まだ首なしならわかる。首だけがあって、そこに垂の歯が残っている。これは流石に楠だとは考えにくいだろう?」
「本当にどうしちゃったのよ? 誰が被害者だって言ってるじゃあないの。それがなんだっていうのよ。ねえ。ホントに」
「垂が被害者で――それが楠……? つまり…………なるほどな」
深く頷いて、有本は言う。
「あんたはこう言いたいわけだ。今確定していることは、それが垂の歯形だという『記録がある』ということに過ぎない、と」
成香さんはいっそ悲しそうな顔で、私を見つめた。私は、大丈夫ですよ、成香さんの頭がおかしくなったわけではないんですよ、と力強く励ます視線を送るが、そのことが余計に成香さんを不安にさせてしまったようだ。項垂れそうになる成香さんに気づかず、有本は続ける。
「つまり、<<垂を名乗って歯科に通っていたのが、もともと、楠だったのだ>>——ということか? なるほどな。垂は、カネが無くて保険料が払えないやっこさんに、保険証を貸して、歯型の記録を残させた。そうしておいて、被害者を殺し、自分自身が死んだことにした。どんな事情があったかは知らんが、そうしてでも、自分の生きた痕跡を消したかったのだろうな。それじゃあ、紫蘭が本当に何も知らんわけだ。そして、どこを探しても楠が見つからないわけも、これで分かった。俺たちが探すべきは――垂だったんだな。チッ。借りが一つできちまったな、『探偵』さんよ」
有本はそう言うと、慌ただし気に私たちを部屋から追い出し、そして自分自身も駆け出すようにその場から去って行った。
成香さんは、しばらく魂が抜けたように立ち尽くし、ようやく、絞り出すように、私に言った。
「今の、何?」
「成香さんは、やっぱり名探偵だと言うことなんですよ」
私が言えるのはそれくらいだった。それから、成香さんに、「もしまだ見たことないようであれば、一緒に『レインマン』という映画を観ませんか?」と誘うことにした。他にうまく説明できる方法が見つからなかったからだ。
人は争ったり消えたくなったりそれで人を犠牲にしたりする。それはとても悲しい。でも、だけど、そうやって暗くなったところに火を灯す人がいる。
明かりを灯す。道を示す。それが名探偵の役割なんだと、私は強くそう思う。