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選民思想のある文

※別に評に文句があるわけでなく。というか感謝してます、ありがとうございます。

 契約書の文言に縛られてどうだこうだ、というようなことを除けば、だからたとえばエンタメに関して言えば、基本的に人間と文章の関係というのは人間が上、文章が下じゃあないですか。文章が人間の上に君臨するってことはないわけですよ。いや感性豊かな人はひょっとすると、「この文章は俺の上に君臨していてもうダメだ」みたいなこともあるかもしれませんけども、標準的な範囲で言えば、人間が文章の上にある、だから人間が文章を評価する立場にあると思うんですね。文章が人間を評価するんじゃあなくて。

 もちろん通知表とか、文章を介して人間が人間を評価した結果を出力することはあるけど、文章そのものが人間を評価するってことはまずないじゃあないですか? ところが、人間は文章を評価するわけです。これは良い文ですねとか。悪文ですねとか。こんな文章読めたもんじゃあねーよとか。感動的な文だとかね。そのように考えると、基本的に人間は文章より立場、上じゃないですか。上から見てますよね。だから評価するわけですよ。

 いやまあ評価者はあらゆる側面において被評価者より上なのかって言うとそれは話が別ですよ、みなさんがこれまで関わってきた教師、あるいはアマゾンで商品を評価する人々を思い浮かべれば、評価する側が無条件に偉いとも、その評価が正しいとも限らない、それはそうなんですけど、評価ができるってことはやっぱちょっと上にいるからだと思うんですよね、つまりたとえば俺は草書とか全く評価できないんですけどそれは読めないからですよね。なんも知らんからです。評価をするということは、少なくてもある程度は体系的な知識があって、あると思っていて、だからできる。そういう意味で被評価者より「上」って言いたいわけなんですけども、もっといい言葉があるような気もしますね、でもまあ、ここまでにがっつり「いやいやそんなことねえよ」って話はなかったと思うんです。

 とにかく、人は文章の上にいる。で、どの文章が好きか良いか面白いかは人の側が評価して好みのものを選んでる。そういう関係性にあるはず、と言いたいのです。ところがこの前提を覆す事象があるんですね。それがタイトル、すなわち、「人を選ぶ文」というやつです。すなわち度がちょっと低くて恐縮なんですけども。

 人を選ぶ文、というのを素直に読むと、これは選択の主体は文章にあるわけですね。文章の側が、人を選んでる。これはとんでもない価値観の逆転だと思いませんか。

 今まで我々は文章の上に立ってると思って安穏としてきたというのに、いつのまにかその世界観は卓袱台返しされてたわけですよ。実は文章の方が人を選んできていたのだと。こいつぁちょっとした革命ですよ。じゃあ何か? 文章のが人間より上にあるってそういうことか? 人を選ぶ文章、というのを素直に読むならば答えはイエスなわけです。人を選ぶ文に関してのみ、これは文の方がエラくて、人の方が下なんです。選ばれなかった人については、その文を評価する権利さえ奪われている。評価しようったって、文の方がシャットアウトしてくるわけですからね。お前を選んだ覚えはねーよって。

 これはとんでもない時代が来たなって感じしますよね、文章というものは、人類何万年かの歴史のうちたかだか5000年かそこらでしか使われてないのに、まして万人が文章に触れるようになってから、長く見積もっても400年くらいしか経ってないというのに、こいつらもう人間に叛旗を翻してるわけです。こわいですね。AIとかロボットにビビってる場合じゃあないですよ、まずは文章にビビらないと。こいつら書かれた文字の分際で人間選びにかかってるんですよ、なぁにを偉そうにって立場を思い知らせてやる、人類が尊厳を保って今後地球で生きてくためには、まずはそっからなんじゃあないかと思うんですよね。皆さんは地球の未来のために行動してますか? 

 というのは与太話で、何が言いたかったかというと、文が人を選ぶってのはそのように考えると違くて、やっぱり人間サイドが文章を選んでるわけじゃあないですかってことが言いたかったんですね。その一言のためにこんなに?

 こんなに? って皆さん以上に俺が一番思ってますからね。実はここしばらく、素直に考えたことをアウトプットしてみる週間みたいな感じで文章書いてるんですね。別に文章修行とかそういうことではなく、ほかに書かなきゃいけない文章があって、単に必要に迫られて実生活でそれやってみたらわりと良くて、でこっちにも援用してみてるって感じなんですが、何かしらの萌芽はあるんだけどまだ確立してないなぁって感じで、とにかく見ての通りで、なっがいんですよね。で、だから前回21日かな、そのへんの話もほんとはオチっていうか、何事もなしとげてないけど世界くらいは救おうってことでゼルダの話でもするか、それかちょっとなんか書くって宣言するか、どっちかやろうと思ってたんですけどそこまでの堂々巡りさに自分でウンザリして話すのやめて、でこのノートも、昨日「地球の未来のために行動してますか?」まで書いて、そこで眠くなったんで打ち切ったんですけどほんとは言いたいことはそういうことではなかったということです。

 ここまでの話全部忘れて良くて、つまり、「人を選ぶ文」とはなんぞやって話なんですね。二回別の人に言われたので、多分一般的に人を選ぶ文になっちゃってることは事実だと思うんですよ。繰り返しに、いや全部忘れられたと思うのではじめて言いますが、そう言われるのが嫌とかではないんですね、感謝の気持ちがあるんですが、自分では選んでるつもりはないわけです。前こんなたわごとを書いたわけですが(https://kakuyomu.jp/users/GJMMTG/news/1177354054883071175 )、みんなを選ぶ、みんなに分かりやすい、そりゃ無理でしょってのは思ってますが、別に選民思想とかはないわけですよ、そういうのがないって言ってる奴ほど腹の中は漆黒で、無意識の選民思想が発露してるってなったらそりゃあスイマセンって感じですけど(いまさらフロイトかよとかは思ってないです何がいまさらだ、すいませんすいません)、まあとにかく意識的には万人向けのタグを……タグを打っても……いやそれはちょっと、さすがにどうかと。どうかと思うよね。じゃあやっぱ選んでんのか俺は、人を? まあデブに向けては書いてますけどねえ。前のファンタジーみたいなやつは(ラ研でも、人を選ぶ文だけどみたいなことを言われてたんですね)…あれはSCPにハマってたときだから同好の士に向けてたか……いやだから根底には選民思想がやっぱあるのかもしんないですね、前言撤回、すいません。

 もう一回今までの話全部忘れてもらっていいですか? すいません皆さんの脳をモノのように扱ってしまい。電気ショック痛かったですか? ああそれも忘れた。そりゃあ良かったです。

2件のコメント

  • 中身が増えてるw

    選民思想ではなくて人を選ぶ文章ではなくて

    文字をどこで読んでるのかっていう基本的な認識が必要なんではないかなって思います。
    たとえばうちの家族その1ですけども、

    コミックスの1ページ読むのに、なぜか1分ぐらいかかるんですよね。
    何でかっていうと、文字とか単語を、いっこずつ考えながら追ってるらしいんです。

    「何だ  あの 技は ァッ … …! ! !」
    「知り たい か … … この 技 の 名 は ! !」
    みたいな感じで。

    帝大の院まで行ってるやつなんでバカではないと思うんですけど、私から見たらこいつ何でいつまでも同じページみとんねんwみたいな。文字を左で読むか右で読むかみたいな、わたしなんかはたぶん右で読んでるんで、意味を理解せずに画像として文字を認識しつつ読んでるわけです。ってえと一行よむのに1秒かかんないわけで、さして深く考えもせずに大量の文章を読んで、結局内容は覚えてないんですけど、あーおもしろかった、みたいな最終行の内容だけはなんとなく思い出せる、

    それでいうと上の文字のかたまりは(文字タワーっていうんですかね最近だと)単語一個ずつ視線を横に動かしてまじめに読む人にはさすがに→→→→→→→→→→→→→→↓
    →→→→→→→→→→→→→→↓
    →→→→→→→→→→→→→→↓
    となって
    目が追いついてゆかないのではないかなと思うんですよね。目玉を右に動かさないで一行をひとかたまりの画像として読むと、さーーーっと読めるんで、そういう人には読めると。そのへんが文字が単語として読めるか象形文字として読めるかで違うのかなと思ったりしましたが結局

    読む人を選ぶ文、ではなくて
    読む人が読むか読まないかを選ぶ文である(実に普通)
    と思いました。
  •  あーーうーーんなるほど、俺は質的に何か違いがあるのか、それはなんだろうみたいなことを思ってたんですけど、単純明快ですね。量か。そうか。それはそうかもしれません。量をこなせる人向き。はーんなるほど。めちゃくちゃ得心しました。
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