• エッセイ・ノンフィクション
  • 現代ドラマ

「泥棒は宇宙人に振り回されている。」登場人物紹介に寄せて

 カレー・ファンダメンタリストの知人曰く、カレーの定義には「おいしい」が含まれており、つまり不味いカレーというのは存在し得ないという。
 
 そんなことあるかい。
 俺の知る限り、「カレー」という名称を持ち、対価を取っているにも関わらず、納得いかない味わいの食物は存在し、それは「不味いカレー」と呼んでしかるべきであると思う。

 が、知人に言わせればそれは好みの問題であるという。

 たとえば。100人中90人が「うまい」「完全」と評価するエビカレーがあったとしよう。これはまあ問題なくカレーであると言って良い。
 ところが100人中5人くらいは甲殻類アレルギーでそれを食べられないであろうし、残り5人くらいは甘党で、「辛くて食えない、だからまずい」と評価をするかもしれない。アムリタであるところのカレーを受け入れられない人間というのも一定数存在する。
 しかし、そのような免疫不全の人間によって、このカレーの評価が変動するべきかと言えばそうではない。このカレーは「おいしい」と評価するのが普通なのであって、だから逆に言えばこの食べ物は「おいしい」のでカレーと認めるべきである。あるカレーを「おいしくない」と呼ぶ人間が存在することは、そのカレーがカレーでないことを認めるものではないと言う。

 いやいや。それで言うならば、逆のケースはどうなのだと、(君と同じように)俺だって疑問を持った。
 100人中90人が「まずい」「なにこれ」と評価するカレーだってこの世にはあろう。このとき、残り5人が「まあ食える」さらに5人のカレー偏愛主義者が「とにかくカレーという名前がついているのだからうまいはず、だからこれはうまい」という訳の分からないことを言い出したからと言って、このカレー的な食物が「おいしい」という評価にはならないのであって、だとしたらそれは、「おいしい」をカレーの定義に含む以上はカレーではない、ということになる。でもカレーはカレーだろう。違うか。

 ようするに、不味いカレーというものが存在することを認めるべきだ、と詰め寄った訳だ。ところが彼はどうしてもそのことを認めない。
 後者に関してだって、うまいと思う人間はいる訳だろう、と表情を変えずに平然としている。前者のケースと論理展開の方向性が違うだろうが、と詰め寄るが、それでもその食べ物を「おいしい」と感じる人間がいる限り、すべてのカレーは「おいしい」もので、不味いカレーというのは存在しない。あるカレーを不味いと感じるのは、その人間の修行が足りないからであるということを力説するのであった。

 で実際、彼のカレーに関する造詣は異常に深く、たとえばちょっとした何かで市内の普段行かないところに行ったとする。昼食を取りたいが、あまりピンとくる店もない、というときに、彼に「このあたりにいるが、カレー屋はないか」と尋ねると、まあ(彼が起きて携帯に触れられる状況でさえあれば)1分以内に候補が送られてくる。ちょっとしたカレーbot並みのスピードである(カレーbotというものが実在するかは知らない。現在地の住所を呟くと近くのカレー屋情報を呟き返すbotを想定している)

 最近新しい店が出来たよね、という話をして、まだ行っていないということがない。彼は今遙か南の地に行ってしまったが、そこにオープンした札幌に本店があったスープカレー屋を訪ねたところ、店員が彼を知っていた(札幌で良く来てくれましたよね?)という逸話もあり、映画かなんかかよ、運命の出会いすぎるだろと思うが、彼に言わせれば市内のカレー屋は大体常連であるから、むしろ知られていなかった方がショックだと言うのである。

 で、つまり、何が言いたいかというと、ここまでのカレーマンになってしまうと、カレーというものに対する認識が常人とは違うのであるなあということである。しかし、俺が言いたいのは、そこまで常軌を逸した認識を持ってしまうと、もう日常会話もなりたたなくなってしまうよということなのである。カレーの定義に「おいしい」が含まれるとか言い出しちゃうよ、ということなのである。

 という訳で、俺自身、自分の良く知っていることを雑に小説作品内で扱われるとちょっとカチンと来たり、そらあ違うよと思ったりすることもあるけれど、そういう偏屈さが存在することは認めたうえで、やっぱりそこまで言ってしまうとそれは結果的にディスコミュニケーションを産むということも伝えておきたいのである。
 いや、それが気になる、鼻につくから読まないというのは全然結構なことである。しょうがない。そういうものだ。俺だってそうする。
 ただ、その発想は、件のカレー・ファンダメンタリストのような異常なものになっていないか? 行きつくところまで行ってしまってはいないか? ということについては警鐘だけは鳴らしておきたいということである。


 そういう訳で、理系の大学院がどうなっているかとか、あと『蜘蛛』が表記の手順で作れるか、実際サムターンを回せるかとかは全然知りませんし、たぶん無理なんじゃあないかなという気もすごくするんですが、これはだからそういう「ファンタジー」(ここではない異世界の話)なのだということで納得いただければと思っています。そんなことあるかい、と怒らないでほしいという言い訳である。
 それでもなおどうしても文句があればこちらに寄せていただければと存じます。そこまで熱烈な読者がいるとは思っていないが、念のため。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する