として、外国語を使っている。でもわざわざ外国語でやんなくても、専門用語でも良いんだが、つまり受け手が理解できない事を前提にして書いている。理解できなくても物語は進行するし、その決着がエンタメしてればそれでいいみたいなところがある。
人間の話す言語なんて伝達しきれないし、つうか、基本的には誤読だろうと思っているところがあって、その辺が信用されない理由だと思うんだが、直しようがないのかもしれない。早く脳味噌を直接接続して言語を介在しない伝達手段が出来りゃ楽なのに、と思うが、要はその意味で、小説を軽く見ている。伝達や交流はそもそも不可能だと見ている。
何故かというと、例えば小説を読んでくれて面白い! って言ってくれる人が居たとして、それはその読んだ側の人間の想像したものが面白いんであって、自分の書いたものそれ自体は別に面白くない。ただその想像力を想起させる神経伝達物質として作用するのみである。問題は、その物質の純度を高めることにあって、その為に実験体が必要である。で誰も協力してくれないので、自分が被験体となるしかない。言い方を日常語に変えれば自分の中の他人が読んで面白いと思わなくてはならない。
読んで内容を理解することってそんなに重要か? と感じるところが強くて、言葉の音声の面白みとか韻の踏み方のが大事のような気もする。その辺が詩作に憧れるやつなのかな。コーランもとにかく読むことが大事で、それは読経になってくる。アラビア語ではサジュウ体という韻の踏み方があって、韻を踏む単語の繰り返しの部分で意味を強調するそうだ。
スティーヴン・フォスターの詩とかマザーグースとか、歌ってるだけで面白いとこがあるし、押韻もキッチリしていてよい。訳詞はまた問題があるけど。散文がこれだけ流行ってる中で、音よりも内容が重視されてるのは本当なんかな、と思うところがややもするとある。外道祭文キチガイ地獄を読みなよ。