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MGSシリーズにおける続編の作り方

 それは差異だ。およそ二作ごとに、前作と同じ事をプレイヤーに繰り返させ、新要素を含みつつ、そして何が違うかを意識させる。以下シリーズ全体のネタバレを含みます。

【MGS1とMGS2】
 一番の違いは麻酔銃と主観攻撃の存在だ。MGS1では実弾系の銃器しかなく、一部の敵兵やボスは全て殺す必要があった。その為に終盤、リキッド・スネークから「殺戮を楽しんでいるのだよ、貴様は」と指摘されるに至った。
 対してMGS2では、麻酔銃の存在で敵を一時的に眠らせることが可能になった。麻酔銃の存在と共に重要な要素として、プレイヤーキャラクターの視点で武器を扱える『主観攻撃』がある。これは、それまで攻撃は基本的に俯瞰視点のみだったシリーズにおいて大きな導入だった。(狙撃銃やミサイルなど、一部の武器は主観視点からのみ撃つシステムだったが、これが拡張された)
 この『麻酔銃』と『主観攻撃』がMGS1と2を決定的に差異付ける。MGS2序盤シークエンスの「爆弾の一時的な凍結処理」に比喩されるが、MGS2ではボス敵すら一人も殺さずにクリアすることが出来る。それは一見、人道的だが、しかし敵は民間人を殺害しているテロリストでもある。そこで敵を殺さない雷電(そしてプレイヤー)の選択にプロットの重点がある。麻酔銃と主観攻撃は有用な手段で、俯瞰からの攻撃よりも、そして実弾による殺害よりも容易・有効になるようバランス調整されている。
 それが、終盤のAIの「君だけが自分の過去から目をそらしていたからだ」「傷つけたくなかったから? 嘘! あなたは自分が傷付きたくなかったのよ 『優しさ』をアリバイにして逃げていただけ」といった発言に繋がる。誰かの殺害は誰かの生命を決定づけるが、非決断的なプレイヤー(そして雷電)は、遅延行為としての麻酔銃を多用する。それはあくまで『客観』でなく『主観』による攻撃で、作中で雷電が『大衆のモデルケース』と言われるように、彼(プレイヤー)は安全な位置から、データによらず主観で、他者を攻撃するインターネットの批評家たちでもある。
 ところで、データやデジタル(数値化)によって客観しているのは、『愛国者達』のAIという事になる。スネークもまた『主観』のひとつである。

【MGS3とMGS4】
 MGS3でもMGS2のような非決断志向は存在する。麻酔銃は依然有用であって、スコア上はボス敵を含め一人も殺害せずにクリア可能である。最後の敵ザ・ボスを除いて。彼女の抹殺が任務だが、ボス戦後、実弾を使ったか麻酔弾や打撃を使ったか(ライフゲージを削ったかスタミナゲージを削ったか)に関わらず、その後のカットシーンで、プレイヤーは攻撃ボタンを押して彼女を殺さなくてはならない。また、スタミナゲージを回復させる為に、生き物を殺して捕食しなくてはならない。MGS3のコンセプトがサバイバルであるように、生き延びる為には何かを殺さなくてはならないという決断主義志向が顕在化している。
 MGS4はシリーズの結末であり、集大成なので、ゲームの流れはあまりMGS3とは似ていないが、諸要素がMGS3を拡張・強化・脱構築した形だと分かる。例えば、MGS3で言われた『時代によって敵味方は変わる』という主題は、MGS4における『愛国者達』の正体――それはMGS3の味方たちだった、というものである。また、ザ・ボスのような「悲劇のヒロイン」を再生産しているのが、BB部隊の(まるで後から取って付けたような)悲劇話でもある。MGS4は基本的に『作り物・紛い物』たちの話であって、それはサイボーグ忍者である雷電もそうだし、ビッグボスのクローンであるオールド・スネークも、自己暗示(と降霊?)によるリキッド・スネークの精神的複製のリキッド・オセロットもそうだ。MGS2で語られた言葉の欺瞞性(そしてフィクション作品であること)が、MGS4では強化されており、そこでは何もかもが嘘臭く、突拍子もない。しかし我々は、その嘘によって語り継いでいくしかないというジレンマを抱えており、何が本当か見極めなくてはならない(MGS2における「信じる物は自分で探せ」)という事にもなっている。
 例えば、BB部隊の悲劇の過去は伝聞でしか明らかにならない。登場人物たちが全て本当の事を言っているとは限らない。人は言葉によって繋がったり伝達(コミュニケーション)したりするが、その何処までが真実なのか? を解釈するのは、結局は言葉に拠る。MGS4では実に多くの事が語られ、明らかになるが、何を真実だと規定し、また何を嘘だと思うかは、プレイヤーに委ねられているわけだ。それは劇中で言われる「ザ・ボスの意志の解釈の違い」に比喩され、それはそのまま聖典によって語られる言葉の解釈の違いを争う現代の宗教戦争の事でもある。(ゆえにMGS4の舞台は戦場である)

【MGS:PWとMGSV】
 PWとMGSVの関係性はMGS1とMGS2によく似ている。PWは『伝説の傭兵たるビッグボスの寓話』である。だからグラフィックスもデフォルメされ、物語も分かりやすくされている。その直接の続編として、MGSVが存在する。そして、そのゲームプレイも『部隊を集め、編成する』というかなり似通ったものだ。
 違いは、リニアかオープンワールドか、という点だ。リニアな物語であるPWは、盛り上がりやクライマックスがあり、きちんと収束されている。オープンワールドであるMGSVでは、物語は断片によってのみ語られる。そして決定的な結末が存在しない。本来人間の結末とは、死でしかない。MGS4では最終作を想定されていた為に、「散る。」というキャッチコピーが使われ、スネークの自殺ないし処刑で終わるはずだったが、スタッフによって「延命」された。そのシリーズの「延命」の結果が、フランケンシュタイン博士の名前のない怪物のように、継ぎ接ぎだらけのパッチワーク、左腕を喪失したヴェノム・スネークというキャラクターのデザインとなっている。

 現実の世界は冗長で、退屈である。それを面白くする為に、物語という形で想像力が使われる。想像力とは、すなわち言葉である。
 PWとMGSVは何が異なるか。それはリアリティのレベル(ディテール)だ。PWではハードの制約もあって、デフォルメされたグラフィックスに部隊経営のシステム、ある程度単純化された物語が与えられる。PWでは武器装備の開発で使った資金は返ってきたが、Vでは当然のように消費されるだけだ。そして消費されたリソースは、何処からか奪わなくてはならない。それが『敵』と規定する存在であり、サイファーやスカルフェイスであり、ソ連兵やPFたちであり、他プレイヤーのFOBだ。
 暴力も再定義されている。PWより、麻酔銃やゴム弾は味方を集める為に敵を殺さないという名目を与えたが、MGSVの少年兵たちは、殺す事は出来なくても麻酔銃やゴム弾、それに打撃攻撃によって暴力行為を与えることが出来る。それは、殺さない程度の暴力を肯定している(もちろん、向こうは銃で撃ってくるので、自衛だと言い張ることも出来るが)。そして、少年兵たちは回収できても、部隊の一員としては加わらない。慈善活動の名のもとに、子供に暴力を与え拉致することが可能となっている。

 PWとVは非常によく似通っている。彼らが編成する部隊は無法者の武装集団だ。だがPWでは『正義の物語』が与えられ、自分たちを正義の側であると錯覚させる。それが言葉や物語のもたらす欺瞞性であり、シリーズ全体を通しての主題でもある。
 「自分の行動は何に加担しているか?」を意識しなければ、プレイヤーは製作者(それは物語で言うところの黒幕に位置する)の操り人形のままである。シリーズの主人公は、全て黒幕の操り人形であった。ゆえに、MGSV:TPPは本人であるビッグボスが主人公ではありえない。ギリシア神話では、人間たちの戦争は神々の代理戦争となっている。MGSVでは言葉を巡り争うが、それはMGS4同様、宗教戦争のように、解釈を巡る争いを繰り広げる。
 MGSVでは、物語の多くはテープによって「語られる」。そして、断片によってのみ語られる物語の空白は、メタ的にもシリーズ全体の解釈を巡る争いとなる。「シリーズの円環を繋ぐミッシング・リンク」「悪に堕ちる」とは、プレイヤー自身の想像力によってもたらされるものである。

 メタルギアシリーズはゲーム作品であって、それはコードによって動くプログラムである。コードは言語によって叙述されるもので、それは被造物だ。ゆえにプレイヤーキャラクターたちも何らかの形で被造物であり、言葉や解釈を巡り争い、そして「ありふれた戦いの或る日」を繰り返す。それがシリーズの根幹で、そして前作の諸要素を反転させる。そこに新たな発見や、面白さ、視点の違いを見出させるようになっていると思う。

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