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MGSVと去勢とラカンの言語活動の開始

MGSV:TPPは構造では文句が言えないようになっていて、一年半経ったことだし、それを言語化しておこうと思う。ちゃんとまとまるとは思わないが……とりあえず、MGSVがそうであるように、断片を記述する。(ネタバレを含む)

 MGSVはプロローグのGZと本編のTPPに分割されているが、これはそのままMGS2のタンカー編とプラント編に相当する。GZでは前作PWで描かれた『伝説の傭兵』の直後が描かれる。TPPでは、容姿と言動、そして声が酷似した影武者を操作することとなる。
 ここで重要なのは、「主人公が影武者である」という事はエピソード46のクリアまで伏せられているという事。そしてエピソード46のクリアと同時に、『真実の記録』と呼ばれるカセットテープ群(音声ファイル)がプレイヤーに提供される。

 MGSV:TPPはプレイヤーを去勢するゲームだ。ラカンの言う去勢とは、「寸断された身体のイメージを、鏡像段階(幼児がいずれ、鏡像の中の自分を自己だと認識すること)を経て、父の名を受け入れ=自らの不完全性・全能感の欠如を認めること」と言える(はず)。
 『去勢』について、声帯虫の治療シークエンスも関わってくる。声帯虫に侵されたDD部隊をボルバキア治療するが、「これは宿主に影響を及ぼし、子を残せなくなる」ということになっている。これはすなわち断種であり去勢だ。そして、この去勢以降から、ヴェノム・スネークはビッグボスとしての意識を獲得するようなプロットになっている(意識的にボスとして振る舞うように演出されている)。

 そしてこれらは、そのままTPPの主人公、左腕を欠損したヴェノム・スネークのデザインであり、またエピソード46のラストシーンだ。彼は幻肢痛を持ち<寸断された身体イメージ>、鏡に向かい、録音された本物のビッグボス<父>の言葉を聞いて、欠如を認め<自分は本物でないと知ること>、そして鏡を破壊する<自我の獲得>。TPPが未完成なのはこの為で、これは、結末が欠如していなくては成立しない物語なのだ。
 それはカットされたエピソード『蠅の王国』に代表される。その他の不満の残る要素も当てはまる。ゲームだから、バグだとか細かいゲームプレイ上の不満もそうなってくるだろう。だがそれらも根本的な結末ではなく、プレイヤーが本当に求める結末は「本物のビッグボスの活躍」なのだが、それについては一切触れられない。(それは、本物のビッグボスの活躍は、きっと部隊の経営だとか兵士の訓練が主だろうし、もはやステルスアクションゲームではなくなるだろうから)

 TPPは二章構成だが、MGSVという全体としてはGZ、プロローグ『覚醒』、一章『報復』、二章『種』という事になっている。
 このうちGZはPWと本編を繋ぐプロローグ(本物のビッグボスの最後の活劇)、プロローグ『覚醒』はオープニングとエンディングを兼ね、一章は部隊を編成し言わば『獲得』していく物語、そして二章は『喪失』していく物語という形になっている。実際、二章には取り返しのつかない要素が多い。(パス関連や、クワイエット、イーライなどの離脱といったカットシーンは、一度きりしか見られない。それは一章でも例えば寄生虫感染辺りのシークエンスとして存在していて、二章ではそれが強調された形になる。)
 一章は、スカルフェイスを殺すまで部隊を成長させる物語。二章は、その部隊が自己崩壊(それは放射性物質の比喩かもしれない)するところを、ビッグボスという幻想が留める話。それでもイーライや少年兵、クワイエット、サヘラントロプス、ヒューイなどといった娘核種はDDから分離していく。
 エピソード46を終えると、プレイヤーは基本的には達成率を100%にするまで過去のミッションを繰り返したり、オンラインのFOB潜入をしたりする。それは『ありふれた戦いの或る日』そのものでしかない。そして、FOB潜入は他プレイヤーや他プレイヤーのDDプラットフォームを『あんたの真似事』『偽物の、ビッグボス気取り』と規定し続ける。プレイヤーは自分の正統性を証明する為に、他プレイヤーのFOBを相対化し、真正性を貶める。(だが実際は、自分自身も同じように「あんたは偽物だ」と相対化されている事に気付けないのだ。自分の顔を鏡無しに見ることの出来る人間は存在しない)

補足1:日本人的には、吉本隆明の共同幻想論も関わって来る(カセットテープで「共同幻想の亡霊、マルクス的にいえば上部構造にあたる」と言及されている)。共同幻想論や岸田秀の唯幻論では、「個人は亡霊としてしか存在できない」。また、国家や神、集団、家族や友人というのもまた幻想に過ぎない、となる。つまり約束事・ルール・取り決めを皆がすっかり信じ・疑わず・振る舞うことで、それらが成立する(貨幣経済もそうだ)。ビッグボスという幻想もまた、劇中のようにビッグボス本人を含め、ミラーやオセロット、DDスタッフら皆がそうだと言う事で『ビッグボス』は成立する。名前を定めることで、みながそれをそう呼び、それは存在する。神が言語によって名前を定めたので人は存在を認識できるようになったのと同じ。無神論者なら、デリダの構造主義的に言うと、「人間は差異によって事物の違いを理解する」。言語によって意味の示す範囲(価値)が異なるとかそういう話。

補足2:『真実の記録』の中で、オセロットが「彼もそれ(ビッグボスの影武者として振る舞う事)を望んでいるはず」と言うが、それは幾ばくかの金を払ってゲームを購入し、ビッグボスを演じる(プレイする)事を選択したプレイヤー自身の選択を言っているので、プレイヤーは「おれはこんなこと(ビッグボスをプレイすること)を望んでいない」と言う事すら出来ないようになっている。そんでその発言を聞いたときには、既にエピソード46までクリアしている=進んでビッグボスの役割を遂行してきたわけだし。(逆にいえば、そこまでプレイして「おれはビッグボスの役割を望んでいなかった」というプレイヤーは、自分の過去の行動を否定している 皆が嫌いなヒューイみたいにね)「おれが望んだビッグボスはこんなはずじゃなかった」は言えるかもしれないけど。

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 そして、『父の名』(ビッグボスの名)を受け入れ去勢が完了したエピソード46以降、プレイヤーはこの不完全性の、不在を埋めようと『真実の記録』を始めとするテープを聞いたり、過去のミッションを再度プレイしたり、小説版を読んだり(未読)、アートブックを眺めたり、『蠅の王国』の特典映像を見たりして、解釈=言語活動を開始する。これが主題歌である『父の罪』であって、製作者(神)によって分かたれた言語を与えられたという事でもある。で、引用されたニーチェが言うように「真実など存在しない、あるのは解釈だけだ」となるし、解釈によって宗派が分かれて、時には口論・議論=戦争になる。そういう意味でもMGSVは戦争ゲームをやっているのかもしれない。

 更に言えば、ルソー的には言語とは想像力そのものでもあり、想像力の結晶が言わばゲームや小説といった創作物だ。だから、我々は我々の期待した「本物のビッグボスの活躍」「キャラクターのその後」などを、言語=想像によって補完するしかありえない、ということにもなってくる。それがオープンワールドとしてのMGSVであり、断片によって語られる余白だらけの物語であり、言語を巡る争いの物語ということになっている。
 メタルギアというシリーズは、製作者が与えてきたものと、プレイヤーが想像してきたものによって紡がれてきたシリーズである、という結末となる。だから我々自身がソリッド・スネークであり、そしてビッグボスであった。


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17/4/30追記
 FOBの開発や部隊の発展もほとんど終わって、Sランクを取得し武器・装備品の開発もだいぶ終えたところで、敵の収集が目的でなくなったため、すると普段使わない殺傷武器が活きてくることに気付いた。このゲームは敵を回収する為に初期装備でもある麻酔銃を多用することになるのだが、上記の段階を経てこれがなくなると、フリーで車を走らせながら、各拠点の敵を倒したり、高ランクの兵士を見つけたら麻酔を使わずに苦労して回収することがゲームとしてかなり楽しいと思った。制限されたマップ内でのストーリーでなく、そこから解放されたオープンワールドとしてのゲームプレイがそこにあったということだ。
 つまりこのゲームは、オープニングがエンディングを兼ねていることが重要かと思われた。始まっていると同時に終わっている。終わりがスタートラインであって、それ以降は全て自由である。「あなたを広い世界に出す前に~」は、メインミッション(物語と、その制約)をすべて終えたプレイヤーがフリーでサイドオプスなどを攻略していく事への言及であり、またこのゲームが自由度の高いオープンワールドである必然性である。
 このゲームの核は、広がるオープンなマップを自由に探索・攻略することで、ストーリーやそれに伴うミッションはすべてその下準備・練習・演習・ビッグボスとしての役割の人格形成――チュートリアルでしかない。(だからメインミッションは領域が制限される。FOBは旧来のアクションに近く、リニアである)部隊を編成したり、それに伴って砲撃やヘリの支援を強化したり、バディを増やしていくのも、実際のゲームプレイ――フリーなオープンワールドのアクションゲームの選択肢を増やしていくことである。
 MGSVとMGS2の構造やメッセージはよく似ているが、大きく異なるのは、ゲームをクリアしたあとにもゲームは続いていく、ということである(GZのスカルフェイス曰く、「だが私は最期の瞬間を迎えても死ななかった」)
 エンディングから始まるゲームであり、また継ぎ接ぎだらけのシリーズの話を象徴する、フランケンシュタインの怪物たるヴェノム・スネークを主人公に据えた、あくまで制限のないフリーミッションを楽しませるオープンワールドのゲームとして作られたのだろう、と考える。そのスタートラインに立たせる為に作られたストーリー(ビッグボス=スネークとしての役割を追体験させる物語、更にはそれを演じる/プレイすること)でもある。

2件のコメント

  • まあぶっちゃけ色々ごたごたはあっただろうけど、与えられたテクストとしてのMGSVを肯定する方向だとこうなる(自分の中ではもう、そういう事になった)
  • あとなんかいわゆる『解釈』あるいは妄想を付け加えておくと、
    ・クワイエットは「中東で行方不明になった本物のナオミ・ハンターの戸籍の持ち主」で、あのあとイラク方面に行ってクルドのスナイパー・ウルフの狙撃の師匠になったと思う(オリジナルだと師匠はグルカという事になっているけど)
    ・コードトーカーのナバホ族はバルカン・レイブンのアサバスカン族と同族なので関係ありそう
    ・イーライ(リキッド)は『蠅の王国』のあと911を起こした(リキッドはアラビア語に堪能で、湾岸戦争でイラクに捕虜となり、またタリバンやアルカイダと接触する機会もあり、WTCやマンハッタンを攻撃する動機も充分にある;ゼロの住居はマンハッタンで、WTCに程近く、『愛国者達』の経済の中心でもあるから、『報復』のグラウンドゼロとして最適である)(『蠅の王国』の最後にWTCが映るし、『蠅の王国』が作られなかったのはこれが発売前に言われていた『タブー』だったからというのもありそう)
    ・チコはグレイフォックスだったかもしれないけど、自分はやっぱりヌルが居たと思う(MPOはある程度正史と思われ、チコは『影武者』『紛い物』を想起させるフックになっていたかもしれない)
    ・仮にチコがフォックスだったら、情報は「死んだ」ということにされて隠蔽され、既に本物のビッグボスに合流してるかもね(だったらそれこそヌルでも成立するけど)
    ・『真実の記録』はオセロット辺りが盗聴してたって事で良いんじゃないですか
    というのがあると思います
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