書いていない。
書けていない。
そういう時もある……先々月に、二十年間暮らした邸宅を離れてマンション暮らしとなり、部屋も一通り片が付き、されど日常は帰還せず。
引っ越しは理由がどうであれ人間に対する大きなストレスになるという話がある。うつ病・不眠症との付き合いが長い私は、それ故にストレス源についてそれなりに知識があるわけだが、ストレス源とは基本的に避けようのないもので、現実にそうしたものと相対した時の対処法を調べると、やれ「お風呂に入ってリラックス」「音楽を聴いてリラックス」というのが出てくる。一時は暴食でこれをカバーしていたが最近は駄目だと言われて(出費も馬鹿にならない)酒は薬と相性が良くないのでこれもなし、するとカフェインぐらいしか楽しみがない……。
否、楽しみはある。読書……それも思想書を読むのが私にとっては特別楽しみである。というより、小説を読んでいても最近は全く心が休まらない。小説を読むということは、同業他者の自分より上手く行っている奴か、過去の偉大な作家の小説を読むということになり、必然何かをそこから読み取ろうとする……文体、内容、作者が執筆にあたって考えていたこと、主題、展開……とてもじゃないが休まらない。昔私がIT企業で働いていた時(私のうつ病の原因になった企業である)に、開いたホームページがどのような仕組みで動いているのかが気になってたまらず、サイトを開く度にソースコードを読んでいた時期がある(だからうつ病になるんだ!)が、それに非常に近い。
すると物語という形式を取るもの全てにこの基準は適用される。
映画も物語である。ゲームも物語である。物語のないコンテンツが欲しい……ゲームならばSTG、では本ならば? これが私にとっては思想書になる。
思想書の目的とは先人が到達した思想の解題にあるため、その物語性を摂取する必要がない。思想の要項さえ掴めれば全部読む必要なんて全くないし、最後まで思想の解説をしている本はとても読み応えがある。
そのため、私にとって娯楽としての読書は基本的に思想書を読むことである。
思想書を読むのはあまりに楽で、自分でも楽をしているというのが良く理解出来るので、出来たなら小説を読むべきなのだが……。
私が小説を書いているのは、世界が狭いと感じるからだ。
世界の殆どが自分の認識の下に存在していて、外側にはなにもない。その何もない感じ。世界が手の内に収まってしまっている感覚……この窮屈感を解消するために私は小説を書いている。
しかし最近は、他人が読んでどうなのか、審査員が読んでどうなのか… を考えることが多い上に、どうも日常生活のリズム自体が崩れていく一方であるため、楽のための読書として思想書を読んでいる。
しかし、思想書を読んでそれを理解すればするほど、世界には”私の知らないこと”が減っていく。すると世界はどんどん、どんどん狭くなっていく。見知らぬ余白が減り、見知った土地が増え、旅に出てもその街に「どこかで見たような気持ちに」なってしまう。
結局、私が私の思う世界の狭さと戦って、世界を広げていくのは自分で自分のために小説を書くしかない。
そのため、書いていない時の私は、その世界の窮屈さに藻掻く、羽化していない蛹のような状態になる……それも、恐らくは羽化に失敗し、一生繭を破って出ることのない蛹のような状態。それを一時的にでも緩和するには、小説を書く以外にないのだ。