やる気が出ない。
正確には、先月末ぐらいまではやる気を維持していた。
幾つかの短編は仕上げたし、それ以外の文章についてもある程度の進捗は出せたのじゃないかと思う。
まあ、だからと言って……
だからと言って今月やる気を消失していいというわけではない。
やる気を維持するのが仕事(まだ仕事になっとらんが)なのであって、書くことそのものが仕事(以下省略ス)ではないというのは大事な視点で、人事を尽くして天命を待つという言い回しが世間には存在するが、世の中の大半の人間はそもそも人事を尽くすということが出来ないわけだから、この言い回しは
「何をやったって満足、十全にできる物事なんぞない」
ということの証明でしかない。
私は何とか人事を尽くそうとしているが、人事を尽くすその前に寿命ろうの方が先に尽きてしまうのではないかと常日頃から考える。
そうした生煮えな考えは行動にも反映されるらしく、自炊に際し不注意で両手首周辺に火傷を負ってしまった。
具体的には、熱された油に勢いよく鶏肉を着地させてしまったことに端を発するこの行いによって両手首周辺には明らかに異質な色味の赤い火傷痕が残った。
ところで、不思議なもので私は何故かこの火傷痕が愛おしく感じ取れてしまったのである。
世の中にありふれている苦痛とかいう物どもは結構な割合で根本的には自身の責任ではなかったり、或いは自身の責任だったとしても自身の悪因みたいなものを自覚出来ないことが多く、本当にこれ謝らなきゃいけないのか? みたいな自問自答が生ずることしばしばであるが、火傷というのは悪因がハッキリしていて損害を被るのも自分だけで、そうした経緯がハッキリしており反省も容易である。
この単純明快さ!
現代においては奇妙なことに傷跡とは威圧的なニュアンスを伴うもので、例えば顔に一文字の傷跡があれば真っ当な、カタギの人間とは思って貰えないことがある。それは一般には建前上偏見とか呼ばれて然るべきものであるが、建前としてはそうであっても現実としてそうは捉えられない場面がある。
そうした考えの下、この赤い火傷痕について考察をすると、料理のために火傷を負ったというのは社会的にもそれなりに通じの良い『間の抜けた』原因であり、少なくとも顔面に一文字の大きな傷跡があるというような、刃傷沙汰を思わせるような傷跡ではないし、理由を説明しても信用される可能性の方が高い。
言ってしまえばこの火傷痕は”合法的な傷跡”なのであって、非合法の色味を思わせるようなものではない。
そうした明快さ。
「自身の痛み」というもの以外に何の問題も生じ得ないこの傷跡、火傷痕にはある種の愛おしさを感じることが可能なのである。
さて、そういうわけでソルジャーズ・レビューは今のパートを今月中に終わらせたい。
他の文章は……取り敢えず、今月は充電期間なのだといって誤魔化すことにする。