人は死のうと思うと筆を執るらしい。小説を書くのはある程度人生経験を積んだ者たちだけだ。だから「小説家になる」だなんて、若いうちに考えるようなことではない。
私は昔、そんなことを言われたことがあります。そんな風なことを書かれた書物を読んだことがあります。
改めまして、こんにちは。九JACKです。はじめましての方ははじめまして。一月の末にカクヨムに登録したカクヨムユーザーとしては新参者でございますが、これまでは「小説家になろう」で活動しておりました。まだ年齢が一桁だったときから小説を書き続けて、なんと今年で20年になります。節目の年ということで、新しいことを始めてみようと、カクヨムに登録した次第です。
居心地は?と言われると、まだ一週間ほどしかいないのでなんとも言えませんが、以前好きだった作品がなろうからカクヨムに移行していて、懐かしいな、と思いながら、読んでいます。
新連載「塩留アンデッド」は私が中学生の頃に考えた世界観を今の私なりに言葉にまとめていく作品です。「MEMENTO MORI」は高校の卒業間近、自動車学校に通いながら書いていたものをなろうに挙げ、なろうに挙げたものを加筆修正しつつ、掲載していきます。
「Traeumerei~第14楽章~」はなろうの公式企画の一つ、冬の童話祭にて連載していたものを転載しているところです。こちらも少しだけ加筆しております。
さて、冒頭の言葉についてですが、人は何故か、死のうと思ったとき、死を覚悟したとき、死という選択肢が自分の人生の選択肢として現れたときに、小説を書こうとする、という話は確かにあります。有名なところだと、太宰治でしょうか。
私の知り合いの物書きさんでも、死を考えたとき、書き始めてみたという方がちらほらいます。
では私は何故、年齢が一桁のうちから、小説を書こうなんて思ったんでしょう。
──それは、たぶんおそらく当時から、死という概念を幼心に意識していたからでしょう。あの頃は言葉にしなかっただけで、私はずっと死にたかった。死ぬ方法がわからないから、文字を書き、生きてきた。そうしたら、物語を紡ぐことが楽しくて、書き続けて、気がついたら、20年経とうとしていました。
私の年齢で20年続けていることがあるというのは、周りからも驚かれました。スポーツ選手みたいだ、と言われました。確かに名を馳せた彼らの多くは、幼少よりその競技に取り組んで、それこそ20年くらい続けた頃に引退を迎えます。
私は、アスリートと呼ばれる彼らと並べ立てるのも烏滸がましいですが、小説に対して、20年、真摯に向き合ってきました。その中でテーマにすることが多かったのが「死」です。
昔の作品、それこそ小学生の頃から書いていた作品も、人が死んで、その死と主人公が向き合うようなものばかりでした。
それはたぶん、小学校入学前に赤ん坊だった弟を亡くしたからだと思います。弟が死んだことを一度、親に「お前のせいだ」と言われて、それを抱えて、ずっと生きています。
私のせいで誰かを死なせたくないという思いと、自分が死ぬときは誰のせいにもせず、自分の意志で死にたいという思いが私の礎になってしまったのだと思います。小学校入学前の学校体験で描いた絵も死んだ弟の姿を描いていました。私はひどく傷ついていたのだと思います。その傷口からは、きっと今も血が流れているんだと思います。
流れた血をインク代わりに、私は小説を書いている。
きっと、「死にたい」という気持ちを何かに昇華しないと、私は生きていけないのだと思います。
私は長子であるという尊厳を20年以上も前に、よりによって親から否定されました。だから親の迷惑にならないように、人並みの勉強くらいはできるようになろうと努力をしました。弟を大事にしました。妹を大事にしました。自分を大事にしようとは思いませんでした。
そんな私が唯一すがれた一掴みの葦が、小説だったんです。
いつか私は死ぬでしょう。それは人として当たり前のことです。生き物である以上は死にます。それが早いか遅いかくらいの違いしか、現実には現れません。
でも、小説を書いている限り、私は死ぬのが怖くないんです。生きていることも、怖くなくなるんです。
だって、小説を書くことは私の人生そのものですから。
一つの書物に「別な道を探しなさい」と言われても、私はやめませんでした。諦めなかったから、20年目を迎えられる。小説を書くことをこんなに自分の人生に重く織り込んでいるのは、私の知る限り、私しかいないと思っています。
そんな私が書くのですから、重たい物語かもしれませんが、どうか、私の描いた彼らを見守ってください。
私にただ一つ残された爪が遺す痕を見届けてください。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。