愚の真骨頂、愚の真骨頂、と何度も目にすると、そちらが正解に見られる不思議。
よそ様の作品を捕まえて「面白くない」「詰まらない」「嫌い」と言うほど愚かしいことはない。
なぜなら「好き」という偏りを抱く中で「嫌い」という偏りも当然に生まれ、ところが趣味趣向感性の異なる人は、僕が「嫌い」といった作品を好きな人もいるからだ。
万人に愛されることはできないが、拒否されることを避けようと努力することはできる。
それはわかっている。
けれども、ほとんど憎悪に近いほど気に入らない脚本家はいるし、良作を、たったワンピースで駄作に見せてくれる要素がある。
それをここでいうのは正しく愚の真骨頂だといえるが、あえて語る。
主人公が「不殺」の縛りを持っているだけで、そのほかの設定がすべて嘘で、「所詮お芝居」と興ざめさせてくれる。
不殺の主人公はたくさんいるので、人気の理由になるか、少なくとも不人気の理由にはならないのだろう。
けれども、不殺でラスボスとの戦いがだらだら続いたりするのは、ほんとに作ってる方がばかなんじゃないかとイライラする。
そして「どうせ主人公補正で勝つんだろ」と、どんな作品でも共通する「主人公補正」すらイライラしてくる。
☆★☆★ここからネタバレを含みます★☆★☆
リコリス・リコイルは、主人公たちもかわいいし、何より主人公の特技が、「相手の手指の動きを読んで、拳銃弾の射線を見通し、ことごとくかわしてみせる」というのも好感が持てた。
殺伐とした戦いのあとのほのぼので幕引きを迎えるところや、主人公の身体的制限も引き込ませてくれた。
だけにいつまでも「不殺」でだらだらしているのがばかばかしかった。
サイコ・パスの主人公は、親友の生命の危機を見せつけられても、まともに銃を撃てなかった。
結果は同じ様でも、ものすごい葛藤の上での、精神的ほろよわさを見せてくれる美しい演出だった。
リコリコはぼのぼのが混じる分、敵とイチャイチャしてるようにすら見えて、なんだかもう、痛々しさすら感じた。
僕はこれからも、不殺の主人公だけはかかないと思う。
そしてまた一歩、売り物から遠ざかる作品を作るのだろう。