ビジネスオカルト

 世帯を持つために、まじめに社会人を始めてから、いろんな「セミナー」を受けた。

 どのセミナーにも共通していえるのは、語り手はじつに魅力的な語り方、ロジックの重ね方が出来るということ。

 そして、受講している私にいえることは、その説明された論理を魅力的には感じても、語り手の語り口は、ついぞまねることが出来ないということ。

 語り口をまねられないということは、どういうことか。

 それはつまり、いつも通りのしどろもどろの説明をすることになり、相手から切り替えされても、それに反論することも出来ず「そうですねー」と苦笑いをするだけだということ。

 そして日が暮れていく。

 鳥の目、虫の目に、サカナの目、が加わった時はなんて新しい見方だろうと思った。

 今では、おできの一種程度にしか思わない。

 ナラティブなんて言葉もそうだ、結局、どこからか、目垢のついていない理論を持ち込んで語る人は、もともと語れる人なのだ。

 語れる人が、そもそも語れて、その、語りを補強する都合のいい素材を見つけた時に、その素材を使って、地頭として持っている語りを披露しているに過ぎない。

 あるいは、語れる人は新しい概念が現れても、上手に自分の語りの中にその概念「らしき、なにか」を組み込んで「語る」。

 私にはその才はない。

 どんな新しい概念を勉強しても、語る時はしどろもどろだ。

 しどろもどろの説明はどんなありがたい考え方も、すべてうさんくさくさせる。

 相手は、私のいうことに肯んじないぞ、と身構える。

 そうなってしまえばもう終わりだ。

 「おまえ、偉そうになんか語ろうとしてるけど、おまえ自身の言葉になってないんだよ。
 黙って俺に従え。
 効率よく、短時間で成果を出してさっさと帰れ」

 と、追いやられるだけだ。

 語り口の旨い子が居た。

 十個下の彼は私の上司だった。

 気さくなところもあり、私も彼を上司として扱った。

 毎年、新事業に数億の売上計画を当てて期初に承認され、期末には大きな未達を出していた。

 それでも、彼は管理職で、私は平社員だ。

 結局、成果、成績すら評価にはつながらない。

 評価につながるのは「説得力」を持った「語り口」の「上手な使い方」だ。

 三つとも持たない私は、いつ、幾つになっても、地べたを這いずるのだろう。

 毎シーズンのように訪れる、新しいビジネス概念こと、ビジネス・オカルトの海の中を、泳ぎ渡る能力の無く、ただ波間に揺れるプランクトンのように。

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