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あらゆる創作物には「続き」が構想される可能性がある

自作の「悲しむ機械とのお別れ式」を久々に読んでもらえて、好意的なコメントもいただけた。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054883650842

これは2017年に書いたので、もう3年も前のことになる。

それで少し細部を忘れかけた頭で客観的に読み直してみると、これは続きを書けるのではないかと思った。

世には様々な創作物があって、それなりに完結しているものだが、そのほとんどは何らかの形で「続き」が書けるものなのではないだろうか。

作者自身が「続きを書くのは100%無理!」「ありえない!」と宣言していたとしても、別の人なら書ける可能性がある。もし主要な登場人物がほとんど死に絶えたような結末だったとしても、子孫や脇役のその後は書けるのだ。

スピンオフ物のように、時間的に並行した話も書けるし「その後」だか「その前」だか、分からないような書き方も可能である。そう考えると創作とはずいぶんと自由なものであると、あらためて思う。

自分でも何がどうなっているのか分からないような、入り組んでいるようないないような、悲しいのか楽しいのか、過去なのか未来なのか分からない話を書いてみたい。

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