【異世界ファンタジー】壊れた月、繋がる絆

マスターボヌール

第1話:沈黙の代償

 月明かりが、磨き上げられた廊下に青白い影を落としていた。


 リーラ・ハートは、手にした燭台の炎が揺れないよう、息を殺して歩いた。白月領カルディス家の屋敷に奉公して3週間。深夜の見回りは、見習いメイドに与えられる数少ない「1人の仕事」だった。


 17歳。


 農村の貧しい家に生まれ、弟と妹を食べさせるために、この屋敷に来た。


 月給の半分は実家に送っている。残りの半分で、自分は生きていく。それだけのことだ。それだけのことを、ただ続ければいい。


「……っ」


 西棟の廊下を曲がった瞬間、リーラの足が止まった。


 何かがおかしい。


 燭台の炎が、風もないのに横に傾いた。まるで、見えない力に引っ張られるように。


 廊下の奥——客間に続く扉の前。


 そこに、黒い靄のようなものが漂っていた。


 リーラは目を疑った。こすってみた。でも、それは消えなかった。


 靄は、扉の隙間から染み出すように広がり、廊下の絨毯の上を這っていた。月明かりが当たっているのに、その部分だけが、光を吸い込むように暗い。


「……魔法?」


 この世界には、2つの月がある。


 白月と黒月。


 白月は秩序と理性の象徴であり、白月領の貴族たちは、その加護を受けて魔法を使う。黒月は混沌と狂気の象徴であり、黒月派の術師たちは、その力で世界を「解放」しようとしている——らしい。


 らしい、というのは、リーラが魔法についてほとんど何も知らないからだ。


 農村の娘に、魔法の知識など与えられない。


 ただ、1つだけ知っていることがある。


 黒い靄は、黒月の魔法の痕跡だということ。


 幼い頃、村の長老が語っていた。「黒い靄を見たら、逃げろ。それは呪いの前触れだ」と。


 リーラは、燭台を握りしめた。


 逃げるべきだ。


 でも、その客間には——


「……エレン」


 今夜、客間の暖炉の火を管理しているのは、同期のメイド、エレン・マーシュだった。


 リーラより1つ年下。明るい茶色の髪と、そばかすの浮いた頬。初日に迷子になったリーラに、厨房への道を教えてくれた。


「大丈夫だよ、リーラ。私も最初は何も分からなかった。一緒に覚えていこう」


 その言葉が、リーラの孤独を少しだけ溶かしてくれた。


 彼女が、あの部屋にいる。


 リーラは、扉に近づいた。


 靄が、彼女の足元に触れた。


 瞬間——


 頭の中に、何かが流れ込んできた。


---


 暗い。


 冷たい。


 誰かが、泣いている。


「お願い……助けて……」


 女の声だ。若い。怯えている。


「誰か……誰か、気づいて……」


---


「——っ!」


 リーラは後ろに飛び退いた。燭台が手から滑り落ち、床に転がった。炎が消えた。


 暗闇の中で、リーラは荒い息をついていた。


 今のは、何だ。


 幻聴? いや、違う。あれは——


 誰かの声が、聞こえた。


 靄の中から。


 リーラは、自分の両手を見た。震えていた。


 私に、何が起きてる。


 分からない。分からないが、1つだけ確かなことがある。


 あの客間には、何かがいる。


 そして、エレンが危ない。


---


 リーラは、走った。


 メイド長のグレイス・ホーンの部屋に向かって。


 深夜に先輩の部屋を訪ねるなど、本来なら許されない。だが、これは緊急事態だ。そう自分に言い聞かせた。


 グレイスの部屋の前で、リーラは3度、扉を叩いた。


「……誰だ」


 低い声が返ってきた。


「リーラ・ハートです。見習いメイドの。あの、緊急のご報告が——」


 扉が開いた。


 グレイス・ホーンは、40代半ばの女性だった。灰色の髪を厳格に結い上げ、寝間着の上にガウンを羽織っている。その目は、深夜に叩き起こされた苛立ちで冷たく光っていた。


「見習いが、この時間に何の用だ」


「西棟の客間です。黒い靄が——」


「靄?」


「はい。廊下に、黒い靄が漂っていて。それで、声が——誰かの声が聞こえて——」


 リーラは、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。


 グレイスの目が、さらに冷たくなった。


「お前、酒でも飲んだのか」


「いいえ! 本当に見たんです。黒月の魔法かもしれません。エレンが——エレンが、あの部屋にいるんです」


「……」


 グレイスは、長い沈黙の後、溜息をついた。


「いいか、新人。お前がここに来て何日だ」


「3週間です」


「3週間。それで、この屋敷の何が分かる?」


「分かりません。でも——」


「お前のような小娘が、魔法の気配を感じられるわけがない」


 グレイスの声は、断定的だった。


「カルディス家は、白月領でも有数の名家だ。屋敷には、白月の加護が張り巡らされている。黒月の魔法など、入り込む余地がない」


「でも、私は確かに——」


「聞こえたつもりになっただけだ」


 グレイスは、扉を閉めようとした。


「深夜の見回りは、新人にとって怖いものだ。暗がりで、ありもしないものを見る者は多い。だが、それを騒ぎ立てるのは、屋敷の秩序を乱す行為だ」


「メイド長——」


「2度目はない。分かったな」


 扉が、リーラの目の前で閉じた。


---


 リーラは、廊下に立ち尽くした。


 信じてもらえなかった。


 分かっていた。見習いの自分が言っても、信じてもらえないと。でも、それでも——


 エレンが危ない。


 リーラは、再び走り出した。今度は、執事のアルバート・クロウの部屋に向かって。


 アルバートは、屋敷の使用人全体を統括する男だった。60代。白髪を短く刈り込み、常に隙のない身なりをしている。メイド長よりも上の立場であり、当主に次ぐ権限を持っている。


 リーラは、彼の部屋の扉を叩いた。


「執事様。リーラ・ハートです。緊急のご報告があります」


 扉が開いた。


 アルバートは、グレイスよりも冷静な目でリーラを見た。


「報告とは」


「西棟の客間に、黒い靄が出ています。黒月の魔法の痕跡かもしれません」


「……ほう」


 アルバートは、眉を上げた。


「お前は、魔法の知識があるのか」


「いいえ。ただ、村の長老から聞いたことがあって——」


「村の長老」


 アルバートの声に、かすかな軽蔑が混じった。


「農村の迷信か」


「迷信じゃありません。私は確かに見ました。それに、声が——」


「声?」


「靄に触れたら、誰かの声が聞こえたんです。助けを求める声が」


 アルバートは、長い沈黙の後、静かに言った。


「リーラ・ハート。お前は、この屋敷に何をしに来た」


「……働くためです」


「ならば、働け」


 アルバートの声は、氷のように冷たかった。


「根拠のない話を触れ回るのは、使用人の仕事ではない。屋敷の秩序を乱す者は、この家には不要だ」


「でも——」


「もう1度だけ言う。2度と、この手の話をするな」


 リーラは、自分の心臓が凍りつくのを感じた。


「明日の朝、メイド長に報告する。お前の処遇は、その後で決める」


 扉が閉じた。


---


 リーラは、暗い廊下に1人、立っていた。


 処遇。


 それが何を意味するか、分からないほど愚かではなかった。


 クビだ。


 クビになったら、実家に帰るしかない。でも、実家には、弟と妹がいる。リーラの仕送りがなければ、あの子たちは——


 でも、エレンが——


 リーラは、目を閉じた。


 あの声が、まだ頭の中で響いていた。


「お願い……助けて……」


 あれは、本当に幻聴だったのか?


 本当に、私が見たものは、存在しなかったのか?


 分からない。


 自分が正しいのか、間違っているのか、分からない。


 ただ、1つだけ分かることがある。


 誰も、私の話を聞いてくれない。


---


 リーラは、最後の賭けに出た。


 当主、エドワード・カルディス卿。


 白月領の名門貴族であり、この屋敷の主。見習いメイドが直接話しかけることなど、本来なら許されない。だが、もう他に方法がなかった。


 当主の書斎は、屋敷の東棟にあった。


 深夜でも、カルディス卿は時折、書斎で仕事をしていると聞いたことがある。


 リーラは、書斎の扉の前に立った。


 中から、かすかな灯りが漏れていた。誰かがいる。


 リーラは、息を整えた。


 そして、扉を叩いた。


「……誰だ」


 低い、威厳のある声が返ってきた。


「見習いメイドのリーラ・ハートです。緊急のご報告があります」


 長い沈黙があった。


「入れ」


 扉を開けると、広い書斎があった。壁一面に本が並び、奥の机で、1人の男が書類を読んでいた。


 エドワード・カルディス卿。


 50代。銀髪を後ろに撫でつけ、鋭い青い目をしている。白月領の貴族にふさわしい、冷たく、気高い顔立ちだった。


 彼は、リーラを一瞥した。


「見習いメイドが、この時間に書斎に来るとは。よほどの用があるのだろうな」


「はい、旦那様。西棟の客間に、黒い靄が——」


「靄?」


 カルディス卿の眉が、かすかに動いた。


「黒月の魔法の痕跡かもしれません。それに、靄に触れたとき、声が——助けを求める声が聞こえました」


 リーラは、必死で言葉を続けた。


「今夜、客間の火の管理をしているのは、同期のエレンです。彼女が危ないかもしれません。どうか、確認していただけませんか」


 カルディス卿は、しばらくリーラを見つめていた。


 そして、静かに言った。


「お前は、魔法の訓練を受けたことがあるか」


「いいえ」


「魔法の理論を学んだことは」


「いいえ」


「では、お前が魔法の気配を感じられると、なぜ思う」


「……」


 リーラは、答えられなかった。


 カルディス卿は、ゆっくりと立ち上がった。


 彼はリーラの前に歩み寄り、見下ろした。


「いいか、小娘。魔法の気配を感知するには、白月の加護を受けていなければならない。それは、貴族の血筋に生まれ、幼少期から訓練を受けた者だけに許される能力だ」


 彼の声は、諭すようでありながら、どこか冷たかった。


「貴様のような下賤の者が、魔法の気配など感じられるわけがない」


 下賤の者。


 その言葉が、リーラの胸を刺した。


「分かったら、下がれ。そして、2度とこのような戯言を口にするな」


 カルディス卿は、机に戻った。


「明朝、執事に命じて、お前の処遇を決めさせる。今夜は部屋に戻れ」


 リーラは、何も言えなかった。


 足が動かなかった。


 エレンが——


「聞こえなかったのか。下がれ」


 カルディス卿の声が、鞭のように響いた。


 リーラの体が、反射的に動いた。一礼して、書斎を出た。


 扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。


---


 廊下に出たリーラは、壁に背をつけて、そのまま崩れ落ちた。


 誰も、聞いてくれなかった。


 メイド長も。執事も。当主も。


 3人に報告して、3人に拒絶された。


「迷信だ」「秩序を乱すな」「下賤の者に魔法は分からない」


 全員が、同じことを言った。


 お前の話は、聞く価値がない。


 リーラは、自分の手を見た。


 まだ震えていた。


 私は、間違っているのか。


 あの靄は、幻覚だったのか。あの声は、幻聴だったのか。


 3人もの人間に否定されたら、もう自分を信じられない。


 でも——


 リーラは、目を閉じた。


 あの声が、まだ耳の奥で響いていた。


「お願い……助けて……」


 あれが幻聴だったとしても。


 あの声は、本物の恐怖に満ちていた。


 誰かが、助けを求めていた。


 私に。


 リーラは、立ち上がろうとした。


 だが、足が動かなかった。


 もし、また報告して、また拒絶されたら——


 明日、クビになる。


 そうしたら、実家に帰るしかない。弟のトム、妹のメグ。2人とも、まだ10歳と8歳だ。リーラの仕送りがなければ、あの子たちは——


 冬を越せない。


 リーラは、自分の胸に手を当てた。


 心臓が、痛いほど速く打っていた。


 どうすればいい。


 エレンを助けに行くべきか。


 でも、もし本当に何もなかったら——


 いや、何かあったとしても、見習いの自分に何ができる?


 魔法の知識もない。戦う術もない。あの靄に触れたら、今度は自分が呪われるかもしれない。


 怖い。


 リーラは、自分の弱さを認めた。


 怖い。何もかもが怖い。


 クビになるのが怖い。家族を見捨てることになるのが怖い。自分が無力なのが怖い。


 そして——


 誰にも信じてもらえないのが、一番怖い。


---


 リーラは、その場に座り込んだまま、動けなかった。


 どれくらいの時間が経っただろう。


 窓から差し込む月明かりが、少しだけ角度を変えていた。


 白月。


 今夜は、白月が満ちている夜だった。


 白月の光は、青白く、冷たい。秩序と理性の象徴。この屋敷を、この領地を、この世界を支配する光。


 リーラは、その光を見上げた。


 秩序。


 カルディス卿は言った。「下賤の者に魔法は分からない」と。


 メイド長は言った。「屋敷の秩序を乱すな」と。


 執事は言った。「使用人の仕事は、働くことだ」と。


 それが、秩序だ。


 貴族は上に立ち、平民は下で従う。魔法を使える者と、使えない者。声を聞いてもらえる者と、聞いてもらえない者。


 リーラは、下の側にいる。


 声を聞いてもらえない側に。


 だから、黙るしかない。


 リーラは、自分にそう言い聞かせた。


 黙っていれば、明日、何事もなかったように朝が来る。エレンも無事かもしれない。あの靄は、本当にただの幻覚だったのかもしれない。


 そうだ。きっと、そうだ。


 私が見たものは、存在しなかった。


 リーラは、立ち上がった。


 自分の部屋に戻ろう。寝よう。忘れよう。


 明日の朝、また働こう。


 それが、秩序を守ることだ。


 リーラは、西棟とは反対の方向に歩き始めた。


---


 翌朝。


 リーラは、騒ぎで目を覚ました。


「エレンが——!」


「医者を呼べ!」


「何があったんだ——」


 廊下が、騒然としていた。


 リーラは、飛び起きた。心臓が、嫌な予感に締めつけられていた。


 部屋を出ると、メイドたちが西棟に向かって走っていた。


 リーラも走った。


 西棟の客間の前には、人だかりができていた。


 リーラは、人垣をかき分けて、中を覗いた。


 そして——


 息が、止まった。


---


 エレンが、床に倒れていた。


 目を開いたまま。


 だが、その目は、何も映していなかった。


 瞳孔が開ききり、虹彩が灰色に濁っている。まるで、魂だけが抜き取られたような——


「呪いだ」


 誰かが、震える声で言った。


「黒月の呪いだ。こんな症状、見たことがある。10年前のヴェルミリオンの災厄のときと同じだ」


 リーラは、膝から崩れ落ちた。


 エレン。


 昨夜、あの部屋にいたエレン。


「大丈夫だよ、リーラ。一緒に覚えていこう」と言ってくれたエレン。


 彼女が、呪われた。


---


「下がれ! 下がれ!」


 執事のアルバートが、人垣を押しのけてやってきた。


 彼は、エレンの状態を一目見て、顔色を変えた。


「……黒月の呪詛か。なぜ、この屋敷に——」


 彼は、周囲を見回した。


「誰か、昨夜この廊下で異常を見た者はいないか」


 沈黙。


 誰も、答えなかった。


 リーラは、口を開こうとした。


 私は見た。


 黒い靄を見た。


 報告しようとした。


 でも、あなたが——


「……」


 リーラは、口を閉じた。


 言えなかった。


 今さら言って、何になる?


「見ました」と言っても、「なぜ止めなかった」と責められるだけだ。


 いや、それ以前に——


 信じてもらえるわけがない。


 昨夜、3人に否定された。今さら「本当だった」と言っても、「後から言うな」と言われるだけだ。


 リーラは、黙っていた。


 床に倒れたエレンを見つめながら。


 何も、言えなかった。


---


 3日後。


 エレンは、目を覚まさなかった。


 医者が来た。白月派の魔術師も来た。だが、誰も、彼女を救えなかった。


「呪詛が深すぎる」


 魔術師は、そう言った。


「魂の半分が、黒月に引きずり込まれている。このままでは、1か月以内に……」


 死ぬ。


 その言葉は、最後まで言われなかった。だが、全員が理解していた。


 エレンは、もう助からない。


---


 リーラは、エレンの病室の前に立っていた。


 中に入る勇気がなかった。


 扉の隙間から、ベッドに横たわるエレンが見えた。


 目を閉じて、静かに呼吸している。だが、その呼吸は浅く、弱々しい。


 私が——


 私が、昨夜、あの部屋に行っていれば——


 リーラは、壁に額をつけた。


 違う。


 私は、行こうとした。


 報告しようとした。


 でも、誰も聞いてくれなかった。


 だから——


 だから、黙った。


 黙るしかなかった。


---


 それは、言い訳だった。


 リーラは、分かっていた。


 誰も聞いてくれなかったのは、事実だ。だが、それでも——


 あの部屋に、行くことはできた。


 報告が無駄だと分かった後でも、自分の足で、あの客間に行くことはできた。


 エレンを連れ出すことはできた。


 少なくとも、試すことはできた。


 なのに、リーラは——


 怖くて、逃げた。


 自分の部屋に戻って、目を閉じて、忘れようとした。


 これが、私の選択だ。


 リーラは、自分の手を見た。


 震えていた。今度は、恐怖ではなく、後悔で。


---


「……リーラ」


 声がした。


 振り返ると、メイド長のグレイスが立っていた。


「執事様がお呼びだ。ついてこい」


 グレイスの声は、いつもより硬かった。


 リーラは、黙ってついていった。


---


 執事の部屋。


 アルバートは、机の前に立っていた。その隣に、カルディス卿がいた。


 2人とも、リーラを見ていた。


「座れ」


 アルバートが言った。


 リーラは、椅子に座った。


「単刀直入に聞く」


 アルバートは、リーラの目を見た。


「お前は、事件の夜、西棟で何かを見たな?」


 リーラの心臓が、跳ねた。


「……」


「黙っていても無駄だ。廊下の燭台が、西棟で落ちていた。お前が見回りをしていた時間帯だ」


 リーラは、唇を噛んだ。


 逃げられない。


「……見ました」


 リーラは、答えた。


「黒い靄を。客間の前で」


「なぜ、報告しなかった」


「しました」


 リーラの声が、自分でも驚くほど強く響いた。


「メイド長に報告しました。執事様にも報告しました。旦那様にも報告しました。3人に報告して、3人に拒絶されました」


 部屋の空気が、凍った。


 グレイスの顔が、強張った。


 アルバートの目が、かすかに揺れた。


 カルディス卿は——無表情だった。


「迷信だと言われました」


 リーラは、続けた。


「秩序を乱すなと言われました。下賤の者に魔法は分からないと言われました」


 リーラは、カルディス卿を見た。


「だから、黙りました。誰も聞いてくれないなら、黙るしかないと思いました」


 沈黙が、部屋を満たした。


 カルディス卿が、口を開いた。


「……お前は、我々を責めているのか」


「いいえ」


 リーラは、首を横に振った。


「私は、自分を責めています」


「……何?」


「報告して拒絶された後、私は自分の部屋に戻りました。あの客間に行かなかった。エレンを助けに行かなかった。怖かったから。クビになるのが怖かったから」


 リーラの目から、涙がこぼれた。


「皆様が私の話を聞いてくださらなかったのは、事実です。でも、それでも、私にはできることがありました。なのに、私は逃げました」


 リーラは、頭を下げた。


「エレンを救えなかったのは、私の罪です。どうか、私を罰してください」


---


 長い沈黙があった。


 カルディス卿が、静かに言った。


「……顔を上げろ」


 リーラは、顔を上げた。


 カルディス卿の目は、複雑な色をしていた。怒りでも、軽蔑でもない。何か、別の——


「お前は、あの靄に触れたとき、声が聞こえたと言ったな」


「はい」


「どんな声だった」


「……助けを求める声でした。女の声。若い。怯えていて——」


 リーラは、言葉を止めた。


 あの声。


 今、思い返すと——


「……エレンの声だったのかもしれません」


 リーラは、自分の言葉に気づいて、震えた。


 あの声は、エレンの声だったのかもしれない。


 呪いに囚われたエレンの魂が、必死に外に向けて叫んでいた声だったのかもしれない。


 そして、その声を聞けたのは——


 私だけだった。


 カルディス卿は、長い間、リーラを見つめていた。


 その目に、何か計算するような光が浮かんでいた。


「……面白い」


 卿は、静かに言った。


「下賤の者に魔法は分からない、と私は言った。だが——」


 彼は、リーラの前に歩み寄った。


「お前は、確かに何かを感じ取った。黒月の呪詛の痕跡を。それも、白月派の術師ですら気づかなかったものを」


 リーラは、意味が分からなかった。


「旦那様……?」


「事件の後、私は白月派の術師を呼んで屋敷を調べさせた。彼らは、客間に残留していた呪詛の痕跡を検出した。だが、それはお前が見た夜の翌朝のことだ」


 カルディス卿の目が、鋭くなった。


「つまり、お前は、術師たちよりも早く、呪詛の気配を察知していた。訓練も受けていない農村の小娘が」


 リーラは、何も答えられなかった。


「それは、あり得ないことだ。少なくとも、通常では」


 カルディス卿は、顎に手を当てた。


「だが、あり得ないことが起きた。ならば、答えは1つしかない」


 彼は、リーラの目を覗き込んだ。


「お前の中には、何かがある」


---


 その夜。


 リーラは、自分の部屋で眠れずにいた。


 カルディス卿との会話の後、彼女は「処分は保留する」と告げられた。


 クビにはならなかった。だが、それが良いことなのか悪いことなのか、リーラには分からなかった。


 カルディス卿の最後の言葉が、頭から離れなかった。


「お前の中には、何かがある」


 何か。


 それは、何だ。


 リーラは、自分の手を見た。


 あの夜、靄に触れた手。


 あの瞬間、確かに何かが流れ込んできた。エレンの声。恐怖。冷たさ。


 それを感じ取れたのは——


 なぜ、私だったんだ。


 答えは、出なかった。


---


 窓の外で、月が輝いていた。


 白月。


 昨夜よりも少し欠けている。


 リーラは、何気なく窓に近づいた。


 月を見上げた。


 青白い光が、彼女の顔を照らした。


 その瞬間——


 また、何かが見えた。


「——っ!」


 リーラは、目を見開いた。


 月の光の中に、何かが浮かんでいた。


 一瞬だけ。瞬きをしたら消えてしまうほど、かすかな——


 影。


 白月の表面に、小さな影が横切った。


 まるで、月の前を何かが通り過ぎたような——


「……何だ、今の」


 リーラは、目をこすった。


 もう1度、月を見上げた。


 何もなかった。白月は、いつもと同じように輝いていた。


 気のせいか。


 そう思おうとした。


 だが、胸の奥で、何かがざわついていた。


 あの影。


 あれは、何だったんだ。


---


 翌日。


 リーラは、いつも通り見習いの仕事をこなした。


 だが、心ここにあらずだった。


 昨夜見た影のことが、頭から離れなかった。


 そして——エレンのことも。


 エレンは、まだ目を覚まさない。


 呪詛は、彼女の魂を少しずつ蝕んでいる。


 あと1か月。


 それが、彼女に残された時間だった。


---


 夕方。


 リーラは、掃除の途中で、ある場所に立ち寄った。


 屋敷の図書室。


 見習いメイドが立ち入ることは、本来禁じられている。だが、今日は誰もいなかった。


 リーラは、そっと中に入った。


 広い部屋だった。壁一面に本が並び、高い天井にはシャンデリアが輝いている。


 リーラは、本棚の間を歩いた。


 何を探しているのか、自分でも分からなかった。


 ただ、何か——答えを探していた。


 自分の中にある何かについての答えを。


---


 本棚の奥で、リーラは足を止めた。


 1冊の本が、目に留まった。


 古い革表紙の本。背表紙の文字は擦れて、ほとんど読めない。


 だが、1つの単語だけが、かすかに残っていた。


三月記トライ・ルナ・クロニクル


 三月。


 リーラは、その言葉に引っかかりを覚えた。


 この世界には、月が2つしかない。白月と黒月。


 なのに、三月?


 彼女は、本を手に取った。


 開いてみた。


---


 ページは黄ばみ、インクは薄れていた。だが、文字は読めた。


≪かつて、この世界には3つの月があった≫


 リーラは、息を呑んだ。


≪白月、黒月、そして名もなき第3の月≫


≪ 白月は秩序を司り、黒月は混沌を司る。だが、第3の月は、そのどちらでもなかった≫


≪第3の月は、境界を司る月であった。白と黒の狭間、光と闇の境目、生と死の際——あらゆる境界に立ち、均衡を保つ者≫


 リーラは、ページをめくった。


≪ 第3の月は、白月と黒月の争いを止める力を持っていた。だが、ある大戦の終わりに、第3の月は空から消えた≫


≪ある者は、第3の月は破壊されたと言う。ある者は、封印されたと言う。だが、真実を知る者は、もういない≫


≪ ただ、古い伝承にはこう記されている——≫


≪第3の月の欠片は、今も世界のどこかに眠っている。そして、いつか、境界に立つ者がその欠片を見出すだろう≫


 リーラは、そこで手を止めた。


 第3の月。


 境界を司る月。


 その欠片が、世界のどこかに眠っている。


 これは——何を意味しているんだ?


 リーラは、本を閉じようとした。


 その瞬間——


≪ 第3の月の欠片を宿す者は、白月の光にも黒月の闇にも染まらぬ。彼らは呪詛を感じ、祝福を見抜き、境界を越えて声を聞く≫


 リーラの手が、止まった。


 呪詛を感じる。


 境界を越えて声を聞く。


 それは——


 私のことじゃないのか。


---


「誰だ」


 声がした。


 リーラは、飛び上がった。


 振り返ると、図書室の入り口に、1人の男が立っていた。


 若い男だった。20代半ば。黒髪を短く刈り込み、鋭い目をしている。


 使用人の服ではない。だが、貴族の服でもない。


「見習いメイドが、図書室で何をしている」


 男は、リーラに近づいてきた。


「その本を、どこで見つけた」


 リーラは、本を胸に抱いた。


「……棚にありました」


「三月記か」


 男の目が、本の背表紙を見て、細められた。


「その本を読めたのか?」


「……はい」


「どこまで読んだ」


 リーラは、答えなかった。


 男は、しばらくリーラを見つめていた。


 そして、静かに言った。


「お前、名前は」


「……リーラ・ハートです」


「リーラ・ハート」


 男は、その名前を反芻するように呟いた。


「西棟の事件の夜、黒月の呪詛を感じ取ったメイドだな」


 リーラの心臓が、跳ねた。


「なぜ、それを——」


「カルディス卿から聞いた」


 男は、リーラの前に立った。


「俺はセオドア・ヴェイン。白月派の術師だ」


---


 セオドア・ヴェイン。


 その名前を、リーラは聞いたことがあった。


 白月領でも有数の術師の家系、ヴェイン家の次男。若くして才能を認められ、白月派の中でも将来を嘱望されている——という噂を。


「お前に、いくつか聞きたいことがある」


 セオドアは、図書室の椅子を引いて、座った。


「座れ」


 リーラは、恐る恐る向かいの椅子に座った。


「事件の夜、お前は何を見た」


「黒い靄です。客間の前に、漂っていて——」


「それだけか?」


「……声も、聞こえました。靄に触れたとき、助けを求める声が」


 セオドアは、顎に手を当てた。


「呪詛に囚われた者の声を聞いた。訓練なしで」


「……はい」


「普通は、ありえない」


 セオドアの目が、リーラを射抜いた。


「黒月の呪詛を感知するには、白月の加護を受け、何年もの訓練を積まなければならない。お前のような——失礼だが——農村の娘に、できることじゃない」


 リーラは、黙っていた。


「だが、カルディス卿は言った。お前は確かに感じ取っていた、と。翌朝、俺たちが屋敷を調べたとき、客間に残留呪詛を検出した。お前の報告と、完全に一致していた」


 セオドアは、身を乗り出した。


「説明してくれ。お前は、何者だ」


---


 リーラは、首を横に振った。


「分かりません。私自身、何が起きているのか——」


「三月記を読んでいたな」


 セオドアの声が、鋭くなった。


「何が書いてあった」


「……第3の月のことです。かつてこの世界には3つの月があった、と」


「それで?」


「第3の月の欠片を宿す者は、呪詛を感じ、境界を越えて声を聞く——と」


 セオドアは、長い沈黙の後、椅子の背にもたれた。


「……やはりか」


「やはり?」


「俺も、その可能性を考えていた」


 セオドアは、天井を見上げた。


「白月と黒月の魔法は、どちらも源を持っている。白月派は白月の加護を受け、黒月派は黒月の闇を宿す。だが、ごく稀に、どちらでもない力を持つ者が現れる」


 彼は、リーラを見た。


「第3の月の欠片を宿す者。境界の民と呼ばれている」


 リーラは、息を呑んだ。


「境界の民……」


「白月にも黒月にも属さない。どちらの魔法も使えないが、どちらの魔法も感じ取れる。呪詛を見抜き、祝福を感知し、魂の声を聞く」


 セオドアは、立ち上がった。


「お前は、その力に目覚めかけている。おそらく、あの夜の靄に触れたことが、きっかけになった」


---


 リーラは、自分の手を見た。


 境界の民。


 第3の月の欠片を宿す者。


 それが、私なのか。


「……その力で、エレンを救えますか」


 リーラは、顔を上げた。


「同期のメイドです。呪いに囚われて、目を覚まさない。あと1か月で——」


「知っている」


 セオドアは、頷いた。


「だが、今のお前には無理だ」


「なぜ——」


「力に目覚めかけていると言っただろう。まだ完全じゃない。今のお前は、感じ取ることはできても、干渉することはできない」


 リーラは、拳を握りしめた。


「じゃあ、どうすれば——」


「訓練がいる。時間がいる。だが——」


 セオドアは、窓の外を見た。


「時間は、あまりない」


「……どういう意味ですか」


 リーラは、セオドアの横顔を見つめた。


 彼は、窓の外の月を見たまま、答えた。


「エレンを呪ったのは、黒月派だ。それも、ただの末端じゃない。かなり高位の術師の仕業だ」


「黒月派……」


「奴らが、なぜこの屋敷を狙ったのか。なぜ、1人のメイドを呪ったのか。まだ分からない」


 セオドアは、振り返った。


「だが、1つだけ確かなことがある。奴らは、また来る」


 リーラの背筋が、凍った。


「また……?」


「エレンへの呪詛は、試し撃ちだった可能性がある。屋敷の防御を探るための。本命は、これからだ」


 セオドアは、リーラの前に立った。


「お前は、黒月の呪詛を感じ取れた。白月派の術師よりも早く。それは、俺たちにとって使える能力だ」


 リーラは、その言葉に引っかかりを覚えた。


 使える。


 まるで、道具のように——


「誤解するな」


 セオドアは、リーラの表情を見て、小さく笑った。


「お前を利用しようとしてるわけじゃない。ただ、選択肢を与えようとしてる」


「選択肢?」


「お前は、2つの道を選べる」


 セオドアは、指を2本立てた。


「1つ。このまま見習いメイドとして働き続ける。力のことは忘れて、普通の人生を生きる。エレンのことも、黒月派のことも、誰か他の人間に任せる」


 リーラは、黙っていた。


「2つ。俺と一緒に来い。力の使い方を学べ。エレンを救う方法を、自分で探せ」


 セオドアは、リーラの目を見た。


「どちらを選ぶかは、お前次第だ」


---


 リーラは、自分の部屋に戻った。


 セオドアには、「考えさせてください」とだけ答えた。


 彼は、「明日の夜まで待つ」と言って、去っていった。


---


 窓の外では、白月が輝いていた。


 昨夜よりも、さらに少し欠けている。


 リーラは、月を見上げた。


 第3の月。


 境界を司る月。


 その欠片が、私の中にある。


 信じられなかった。


 農村の貧しい家に生まれた、ただの娘。弟と妹を食べさせるために、屋敷に奉公に来た、ただのメイド。


 そんな自分の中に、伝説の月の欠片があるなんて。


 でも——


 リーラは、自分の手を見た。


 あの夜、確かに何かを感じた。


 黒い靄の中から、エレンの声が聞こえた。


 それは、現実だった。


---


「1つ。このまま見習いメイドとして働き続ける」


 セオドアの言葉が、頭の中で響いた。


 それが、普通の選択だ。


 リーラには、家族がいる。弟のトム、妹のメグ。2人とも、リーラの仕送りを待っている。


 もし、セオドアについていったら——


 仕送りはどうなる?


 家族は、どうなる?


 私が抜けたら、あの子たちは冬を越せない。


 それに、力の訓練なんて、危険に決まっている。黒月派と戦うことになるかもしれない。死ぬかもしれない。


 普通に生きる方が、ずっと安全だ。


---


 だが——


 リーラは、目を閉じた。


 エレンの顔が浮かんだ。


 ベッドに横たわり、目を閉じて、浅い呼吸を繰り返す彼女の姿。


「大丈夫だよ、リーラ。一緒に覚えていこう」


 あの笑顔が、もう見られないかもしれない。


 あと1か月。


 何もしなければ、エレンは死ぬ。


 そして、私は——


 また、黙って見ているだけなのか。


---


 リーラは、あの夜のことを思い出した。


 西棟の廊下で、黒い靄を見た夜。


 報告しようとして、3人に拒絶された夜。


 そして——


 怖くて、自分の部屋に逃げ帰った夜。


 あのとき、私は黙った。


 誰も聞いてくれないから。怖いから。クビになりたくないから。


 全部、正当な理由だった。


 でも、結果として——


 エレンが呪われた。


 私が黙ったから。私が逃げたから。


 私が、何もしなかったから。


---


 リーラは、拳を握りしめた。


 もう、同じ過ちは繰り返さない。


 声が出た。小さく、震えていた。でも、確かに——


「……私は、行く」


 誰もいない部屋で、リーラは宣言した。


「セオドアさんについていく。力の使い方を学ぶ。エレンを——」


 声が、詰まった。


「エレンを、今度こそ救う」


---


 だが、その瞬間——


 別の考えが、頭をよぎった。


 家族は、どうする?


 トムとメグ。


 あの子たちを、見捨てるのか?


 リーラは、唇を噛んだ。


 答えは、出なかった。


---


 翌朝。


 リーラは、執事のアルバートを訪ねた。


「……何の用だ」


 アルバートは、警戒した目でリーラを見た。


 あの夜の報告のことを、まだ根に持っているのかもしれない。


「お願いがあります」


 リーラは、頭を下げた。


「私の給金の全額を、実家に送金していただけませんか」


 アルバートは、眉を上げた。


「全額? お前の生活費は、どうするつもりだ」


「……しばらく、屋敷を離れることになるかもしれません」


「離れる?」


 アルバートの目が、鋭くなった。


「どういう意味だ」


「セオドア・ヴェイン様に、ついていきます。力の——その、訓練を受けることになりました」


 リーラは、詳しいことは言わなかった。境界の民のことも、第3の月のことも。


 アルバートは、長い間、リーラを見つめていた。


「……ヴェイン殿が、お前を?」


「はい」


「カルディス卿は、ご存知なのか」


「……分かりません。でも、セオドア様が話してくださると——」


「勝手なことを」


 アルバートの声が、冷たくなった。


「見習いメイドが、主人の許可なく屋敷を離れるなど——」


「アルバート」


 声がした。


 振り返ると、部屋の入り口に、カルディス卿が立っていた。


---


「卿……」


 アルバートが、頭を下げた。


 カルディス卿は、リーラを見た。


「ヴェイン殿から話は聞いた。お前を連れていきたい、と」


 リーラは、息を呑んだ。


「彼が言うには、お前には特殊な才能があるそうだな」


「……はい」


 カルディス卿は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「行くがいい」


 リーラは、耳を疑った。


「え——」


「ヴェイン殿が必要だと言うなら、それだけの価値があるのだろう。お前の能力は、この屋敷にとっても——いや、白月領にとっても使える」


 カルディス卿は、リーラの前に歩み寄った。


「給金の送金は、私が手配する。これは投資だ。お前が役に立てば、回収する。役に立たなければ——」


 彼は、冷たく笑った。


「——その時は、お前の家族に請求する」


 リーラの心臓が、凍りついた。


「……分かり、ました」


 声が震えた。


 カルディス卿は、もう興味を失ったように、背を向けた。


「行け。そして、結果を出せ」


---


 その日の夜。


 リーラは、机の前に座った。


 引き出しから、紙とペンを取り出す。


 インク壺を開けて、ペン先を浸す。


 手が、震えていた。


 手紙を書かなきゃ。


 弟のトムに。妹のメグに。


 でも、何を書けばいい?


「ごめんね、しばらく帰れない」?


「お姉ちゃんは、危険なことをしに行く」?


「もしかしたら、もう会えないかもしれない」?


——書けない。


 リーラは、ペンを置いた。


 頭の中に、2人の顔が浮かんだ。


 トム。10歳。やんちゃで、いつも泥だらけで帰ってくる。でも、妹のことは誰よりも大切にしてる。


 メグ。8歳。おとなしくて、本を読むのが好き。「お姉ちゃん、いつ帰ってくるの?」と、いつも聞いてくる。


 あの子たちを、置いていくのか。


 リーラは、目を閉じた。


 私がいなくなったら、あの子たちは——


 カルディス卿が言っていた。


「給金の送金は手配してやる」と。


 でも、それは投資だと。


「役に立たなければ、お前の家族に請求する」と。


 つまり——


 私が失敗したら、あの子たちが——


 リーラの手が、震えた。


 怖い。


 怖い、怖い、怖い。


 でも——


 エレンを見捨てるのは、もっと怖い。


 リーラは、再びペンを取った。


 震える手で、文字を綴った。


---


『 トムへ、メグへ。


お姉ちゃんは、しばらく帰れなくなりました。


でも、心配しないで。お金は送るから。


トム、メグのこと、よろしくね。


メグ、トムの言うこと、ちゃんと聞くんだよ。


お姉ちゃんは、大事な人を助けに行きます。


だから——』


---


 リーラの手が、止まった。


 だから、何だ。


 許してね?


 待っててね?


 忘れないでね?


——どれも、嘘だ。


 本当は、こう書きたい。


 ごめんね。お姉ちゃんは、弱くて、怖くて、でも、逃げられなかった。


 だから、あなたたちを置いていく。


 これが、私の選択。私の罪。


 許してくれなくていい。ただ、生きてて。


——でも、書けない。


 こんなこと、8歳と10歳の弟妹に書けるわけがない。


 リーラは、涙を拭った。


 そして、手紙の続きを書いた。


---


『だから、待っててね。


必ず、帰るから。


お姉ちゃんより。』


---


 嘘だ。


 必ず帰れるなんて、分からない。


 でも、それでも——


 この嘘を、本当にするために、私は行く。


 リーラは、手紙を折りたたんで、封筒に入れた。


 明日、送る。


 そして、私は——


 もう、戻れない道を歩き始める。


---


 その夜。


 リーラは、エレンの病室を訪ねた。


 エレンは、相変わらずベッドに横たわっていた。目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。


 顔色は、前よりも悪くなっていた。唇が青白く、頬がこけている。


 呪詛が、少しずつ彼女を蝕んでいる。


 リーラは、ベッドの横に座った。


「エレン」


 返事はなかった。


「私、明日から出かけることになったの。力の使い方を学びに」


 沈黙。


「あなたを救う方法を、見つけに行く」


 リーラは、エレンの手を握った。


 冷たかった。


「待っててね。必ず、戻ってくるから」


 エレンの瞼が、かすかに震えた。


——気のせいかもしれない。


 でも、リーラは信じることにした。


 エレンには、まだ意識がある。どこかで、聞いている。


「あの夜、私はあなたを助けられなかった」


 リーラの声が、震えた。


「怖くて、逃げた。それが、私の罪」


 涙が、頬を伝った。


「でも、もう逃げない。もう、黙らない」


 リーラは、エレンの手を握りしめた。


「だから——」


「——待ってて」


---


 部屋を出たとき、廊下にセオドアが立っていた。


「決心は、ついたようだな」


「はい」


 リーラは、頷いた。


「行きます。あなたと一緒に」


 セオドアは、小さく笑った。


「覚悟はいいな。楽な道じゃないぞ」


「分かっています」


「後戻りは、できないぞ」


「分かっています」


 リーラの声は、もう震えていなかった。


 セオドアは、頷いた。


「いい目だ。——行くぞ」


 彼は、歩き出した。


 リーラは、その背中を追った。


---


 屋敷の門を出る前に、リーラは1度だけ振り返った。


 白い壁。高い塔。月明かりに照らされた、カルディス家の屋敷。


 3週間前、ここに来たときは、ただ生き延びることだけを考えていた。


 家族に仕送りをして、自分は静かに働いて、それだけでよかった。


 でも、今は——


 守りたいものが、できた。


 エレン。


 呪いに囚われた、たった1人の友人。


 彼女を救うために、私は——


「リーラ」


 セオドアの声がした。


「何をしている?置いていくぞ」


「……はい」


 リーラは、前を向いた。


 そして、歩き出した。


---


 夜空には、白月が輝いていた。


 だが、リーラの目には、別のものが見えていた。


 白月の傍らに、かすかな影。


 あの夜から、ずっと見えている影。


 第3の月の残像。


 それが何を意味するのか、まだ分からない。


 でも、いつか——


 きっと、分かる日が来る。


 リーラは、そう信じることにした。


---


(続く)


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【異世界ファンタジー】壊れた月、繋がる絆 マスターボヌール @bonuruoboro

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