【異世界ファンタジー】壊れた月、繋がる絆
マスターボヌール
第1話:沈黙の代償
月明かりが、磨き上げられた廊下に青白い影を落としていた。
リーラ・ハートは、手にした燭台の炎が揺れないよう、息を殺して歩いた。白月領カルディス家の屋敷に奉公して3週間。深夜の見回りは、見習いメイドに与えられる数少ない「1人の仕事」だった。
17歳。
農村の貧しい家に生まれ、弟と妹を食べさせるために、この屋敷に来た。
月給の半分は実家に送っている。残りの半分で、自分は生きていく。それだけのことだ。それだけのことを、ただ続ければいい。
「……っ」
西棟の廊下を曲がった瞬間、リーラの足が止まった。
何かがおかしい。
燭台の炎が、風もないのに横に傾いた。まるで、見えない力に引っ張られるように。
廊下の奥——客間に続く扉の前。
そこに、黒い靄のようなものが漂っていた。
リーラは目を疑った。こすってみた。でも、それは消えなかった。
靄は、扉の隙間から染み出すように広がり、廊下の絨毯の上を這っていた。月明かりが当たっているのに、その部分だけが、光を吸い込むように暗い。
「……魔法?」
この世界には、2つの月がある。
白月と黒月。
白月は秩序と理性の象徴であり、白月領の貴族たちは、その加護を受けて魔法を使う。黒月は混沌と狂気の象徴であり、黒月派の術師たちは、その力で世界を「解放」しようとしている——らしい。
らしい、というのは、リーラが魔法についてほとんど何も知らないからだ。
農村の娘に、魔法の知識など与えられない。
ただ、1つだけ知っていることがある。
黒い靄は、黒月の魔法の痕跡だということ。
幼い頃、村の長老が語っていた。「黒い靄を見たら、逃げろ。それは呪いの前触れだ」と。
リーラは、燭台を握りしめた。
逃げるべきだ。
でも、その客間には——
「……エレン」
今夜、客間の暖炉の火を管理しているのは、同期のメイド、エレン・マーシュだった。
リーラより1つ年下。明るい茶色の髪と、そばかすの浮いた頬。初日に迷子になったリーラに、厨房への道を教えてくれた。
「大丈夫だよ、リーラ。私も最初は何も分からなかった。一緒に覚えていこう」
その言葉が、リーラの孤独を少しだけ溶かしてくれた。
彼女が、あの部屋にいる。
リーラは、扉に近づいた。
靄が、彼女の足元に触れた。
瞬間——
頭の中に、何かが流れ込んできた。
---
暗い。
冷たい。
誰かが、泣いている。
「お願い……助けて……」
女の声だ。若い。怯えている。
「誰か……誰か、気づいて……」
---
「——っ!」
リーラは後ろに飛び退いた。燭台が手から滑り落ち、床に転がった。炎が消えた。
暗闇の中で、リーラは荒い息をついていた。
今のは、何だ。
幻聴? いや、違う。あれは——
誰かの声が、聞こえた。
靄の中から。
リーラは、自分の両手を見た。震えていた。
私に、何が起きてる。
分からない。分からないが、1つだけ確かなことがある。
あの客間には、何かがいる。
そして、エレンが危ない。
---
リーラは、走った。
メイド長のグレイス・ホーンの部屋に向かって。
深夜に先輩の部屋を訪ねるなど、本来なら許されない。だが、これは緊急事態だ。そう自分に言い聞かせた。
グレイスの部屋の前で、リーラは3度、扉を叩いた。
「……誰だ」
低い声が返ってきた。
「リーラ・ハートです。見習いメイドの。あの、緊急のご報告が——」
扉が開いた。
グレイス・ホーンは、40代半ばの女性だった。灰色の髪を厳格に結い上げ、寝間着の上にガウンを羽織っている。その目は、深夜に叩き起こされた苛立ちで冷たく光っていた。
「見習いが、この時間に何の用だ」
「西棟の客間です。黒い靄が——」
「靄?」
「はい。廊下に、黒い靄が漂っていて。それで、声が——誰かの声が聞こえて——」
リーラは、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
グレイスの目が、さらに冷たくなった。
「お前、酒でも飲んだのか」
「いいえ! 本当に見たんです。黒月の魔法かもしれません。エレンが——エレンが、あの部屋にいるんです」
「……」
グレイスは、長い沈黙の後、溜息をついた。
「いいか、新人。お前がここに来て何日だ」
「3週間です」
「3週間。それで、この屋敷の何が分かる?」
「分かりません。でも——」
「お前のような小娘が、魔法の気配を感じられるわけがない」
グレイスの声は、断定的だった。
「カルディス家は、白月領でも有数の名家だ。屋敷には、白月の加護が張り巡らされている。黒月の魔法など、入り込む余地がない」
「でも、私は確かに——」
「聞こえたつもりになっただけだ」
グレイスは、扉を閉めようとした。
「深夜の見回りは、新人にとって怖いものだ。暗がりで、ありもしないものを見る者は多い。だが、それを騒ぎ立てるのは、屋敷の秩序を乱す行為だ」
「メイド長——」
「2度目はない。分かったな」
扉が、リーラの目の前で閉じた。
---
リーラは、廊下に立ち尽くした。
信じてもらえなかった。
分かっていた。見習いの自分が言っても、信じてもらえないと。でも、それでも——
エレンが危ない。
リーラは、再び走り出した。今度は、執事のアルバート・クロウの部屋に向かって。
アルバートは、屋敷の使用人全体を統括する男だった。60代。白髪を短く刈り込み、常に隙のない身なりをしている。メイド長よりも上の立場であり、当主に次ぐ権限を持っている。
リーラは、彼の部屋の扉を叩いた。
「執事様。リーラ・ハートです。緊急のご報告があります」
扉が開いた。
アルバートは、グレイスよりも冷静な目でリーラを見た。
「報告とは」
「西棟の客間に、黒い靄が出ています。黒月の魔法の痕跡かもしれません」
「……ほう」
アルバートは、眉を上げた。
「お前は、魔法の知識があるのか」
「いいえ。ただ、村の長老から聞いたことがあって——」
「村の長老」
アルバートの声に、かすかな軽蔑が混じった。
「農村の迷信か」
「迷信じゃありません。私は確かに見ました。それに、声が——」
「声?」
「靄に触れたら、誰かの声が聞こえたんです。助けを求める声が」
アルバートは、長い沈黙の後、静かに言った。
「リーラ・ハート。お前は、この屋敷に何をしに来た」
「……働くためです」
「ならば、働け」
アルバートの声は、氷のように冷たかった。
「根拠のない話を触れ回るのは、使用人の仕事ではない。屋敷の秩序を乱す者は、この家には不要だ」
「でも——」
「もう1度だけ言う。2度と、この手の話をするな」
リーラは、自分の心臓が凍りつくのを感じた。
「明日の朝、メイド長に報告する。お前の処遇は、その後で決める」
扉が閉じた。
---
リーラは、暗い廊下に1人、立っていた。
処遇。
それが何を意味するか、分からないほど愚かではなかった。
クビだ。
クビになったら、実家に帰るしかない。でも、実家には、弟と妹がいる。リーラの仕送りがなければ、あの子たちは——
でも、エレンが——
リーラは、目を閉じた。
あの声が、まだ頭の中で響いていた。
「お願い……助けて……」
あれは、本当に幻聴だったのか?
本当に、私が見たものは、存在しなかったのか?
分からない。
自分が正しいのか、間違っているのか、分からない。
ただ、1つだけ分かることがある。
誰も、私の話を聞いてくれない。
---
リーラは、最後の賭けに出た。
当主、エドワード・カルディス卿。
白月領の名門貴族であり、この屋敷の主。見習いメイドが直接話しかけることなど、本来なら許されない。だが、もう他に方法がなかった。
当主の書斎は、屋敷の東棟にあった。
深夜でも、カルディス卿は時折、書斎で仕事をしていると聞いたことがある。
リーラは、書斎の扉の前に立った。
中から、かすかな灯りが漏れていた。誰かがいる。
リーラは、息を整えた。
そして、扉を叩いた。
「……誰だ」
低い、威厳のある声が返ってきた。
「見習いメイドのリーラ・ハートです。緊急のご報告があります」
長い沈黙があった。
「入れ」
扉を開けると、広い書斎があった。壁一面に本が並び、奥の机で、1人の男が書類を読んでいた。
エドワード・カルディス卿。
50代。銀髪を後ろに撫でつけ、鋭い青い目をしている。白月領の貴族にふさわしい、冷たく、気高い顔立ちだった。
彼は、リーラを一瞥した。
「見習いメイドが、この時間に書斎に来るとは。よほどの用があるのだろうな」
「はい、旦那様。西棟の客間に、黒い靄が——」
「靄?」
カルディス卿の眉が、かすかに動いた。
「黒月の魔法の痕跡かもしれません。それに、靄に触れたとき、声が——助けを求める声が聞こえました」
リーラは、必死で言葉を続けた。
「今夜、客間の火の管理をしているのは、同期のエレンです。彼女が危ないかもしれません。どうか、確認していただけませんか」
カルディス卿は、しばらくリーラを見つめていた。
そして、静かに言った。
「お前は、魔法の訓練を受けたことがあるか」
「いいえ」
「魔法の理論を学んだことは」
「いいえ」
「では、お前が魔法の気配を感じられると、なぜ思う」
「……」
リーラは、答えられなかった。
カルディス卿は、ゆっくりと立ち上がった。
彼はリーラの前に歩み寄り、見下ろした。
「いいか、小娘。魔法の気配を感知するには、白月の加護を受けていなければならない。それは、貴族の血筋に生まれ、幼少期から訓練を受けた者だけに許される能力だ」
彼の声は、諭すようでありながら、どこか冷たかった。
「貴様のような下賤の者が、魔法の気配など感じられるわけがない」
下賤の者。
その言葉が、リーラの胸を刺した。
「分かったら、下がれ。そして、2度とこのような戯言を口にするな」
カルディス卿は、机に戻った。
「明朝、執事に命じて、お前の処遇を決めさせる。今夜は部屋に戻れ」
リーラは、何も言えなかった。
足が動かなかった。
エレンが——
「聞こえなかったのか。下がれ」
カルディス卿の声が、鞭のように響いた。
リーラの体が、反射的に動いた。一礼して、書斎を出た。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
---
廊下に出たリーラは、壁に背をつけて、そのまま崩れ落ちた。
誰も、聞いてくれなかった。
メイド長も。執事も。当主も。
3人に報告して、3人に拒絶された。
「迷信だ」「秩序を乱すな」「下賤の者に魔法は分からない」
全員が、同じことを言った。
お前の話は、聞く価値がない。
リーラは、自分の手を見た。
まだ震えていた。
私は、間違っているのか。
あの靄は、幻覚だったのか。あの声は、幻聴だったのか。
3人もの人間に否定されたら、もう自分を信じられない。
でも——
リーラは、目を閉じた。
あの声が、まだ耳の奥で響いていた。
「お願い……助けて……」
あれが幻聴だったとしても。
あの声は、本物の恐怖に満ちていた。
誰かが、助けを求めていた。
私に。
リーラは、立ち上がろうとした。
だが、足が動かなかった。
もし、また報告して、また拒絶されたら——
明日、クビになる。
そうしたら、実家に帰るしかない。弟のトム、妹のメグ。2人とも、まだ10歳と8歳だ。リーラの仕送りがなければ、あの子たちは——
冬を越せない。
リーラは、自分の胸に手を当てた。
心臓が、痛いほど速く打っていた。
どうすればいい。
エレンを助けに行くべきか。
でも、もし本当に何もなかったら——
いや、何かあったとしても、見習いの自分に何ができる?
魔法の知識もない。戦う術もない。あの靄に触れたら、今度は自分が呪われるかもしれない。
怖い。
リーラは、自分の弱さを認めた。
怖い。何もかもが怖い。
クビになるのが怖い。家族を見捨てることになるのが怖い。自分が無力なのが怖い。
そして——
誰にも信じてもらえないのが、一番怖い。
---
リーラは、その場に座り込んだまま、動けなかった。
どれくらいの時間が経っただろう。
窓から差し込む月明かりが、少しだけ角度を変えていた。
白月。
今夜は、白月が満ちている夜だった。
白月の光は、青白く、冷たい。秩序と理性の象徴。この屋敷を、この領地を、この世界を支配する光。
リーラは、その光を見上げた。
秩序。
カルディス卿は言った。「下賤の者に魔法は分からない」と。
メイド長は言った。「屋敷の秩序を乱すな」と。
執事は言った。「使用人の仕事は、働くことだ」と。
それが、秩序だ。
貴族は上に立ち、平民は下で従う。魔法を使える者と、使えない者。声を聞いてもらえる者と、聞いてもらえない者。
リーラは、下の側にいる。
声を聞いてもらえない側に。
だから、黙るしかない。
リーラは、自分にそう言い聞かせた。
黙っていれば、明日、何事もなかったように朝が来る。エレンも無事かもしれない。あの靄は、本当にただの幻覚だったのかもしれない。
そうだ。きっと、そうだ。
私が見たものは、存在しなかった。
リーラは、立ち上がった。
自分の部屋に戻ろう。寝よう。忘れよう。
明日の朝、また働こう。
それが、秩序を守ることだ。
リーラは、西棟とは反対の方向に歩き始めた。
---
翌朝。
リーラは、騒ぎで目を覚ました。
「エレンが——!」
「医者を呼べ!」
「何があったんだ——」
廊下が、騒然としていた。
リーラは、飛び起きた。心臓が、嫌な予感に締めつけられていた。
部屋を出ると、メイドたちが西棟に向かって走っていた。
リーラも走った。
西棟の客間の前には、人だかりができていた。
リーラは、人垣をかき分けて、中を覗いた。
そして——
息が、止まった。
---
エレンが、床に倒れていた。
目を開いたまま。
だが、その目は、何も映していなかった。
瞳孔が開ききり、虹彩が灰色に濁っている。まるで、魂だけが抜き取られたような——
「呪いだ」
誰かが、震える声で言った。
「黒月の呪いだ。こんな症状、見たことがある。10年前のヴェルミリオンの災厄のときと同じだ」
リーラは、膝から崩れ落ちた。
エレン。
昨夜、あの部屋にいたエレン。
「大丈夫だよ、リーラ。一緒に覚えていこう」と言ってくれたエレン。
彼女が、呪われた。
---
「下がれ! 下がれ!」
執事のアルバートが、人垣を押しのけてやってきた。
彼は、エレンの状態を一目見て、顔色を変えた。
「……黒月の呪詛か。なぜ、この屋敷に——」
彼は、周囲を見回した。
「誰か、昨夜この廊下で異常を見た者はいないか」
沈黙。
誰も、答えなかった。
リーラは、口を開こうとした。
私は見た。
黒い靄を見た。
報告しようとした。
でも、あなたが——
「……」
リーラは、口を閉じた。
言えなかった。
今さら言って、何になる?
「見ました」と言っても、「なぜ止めなかった」と責められるだけだ。
いや、それ以前に——
信じてもらえるわけがない。
昨夜、3人に否定された。今さら「本当だった」と言っても、「後から言うな」と言われるだけだ。
リーラは、黙っていた。
床に倒れたエレンを見つめながら。
何も、言えなかった。
---
3日後。
エレンは、目を覚まさなかった。
医者が来た。白月派の魔術師も来た。だが、誰も、彼女を救えなかった。
「呪詛が深すぎる」
魔術師は、そう言った。
「魂の半分が、黒月に引きずり込まれている。このままでは、1か月以内に……」
死ぬ。
その言葉は、最後まで言われなかった。だが、全員が理解していた。
エレンは、もう助からない。
---
リーラは、エレンの病室の前に立っていた。
中に入る勇気がなかった。
扉の隙間から、ベッドに横たわるエレンが見えた。
目を閉じて、静かに呼吸している。だが、その呼吸は浅く、弱々しい。
私が——
私が、昨夜、あの部屋に行っていれば——
リーラは、壁に額をつけた。
違う。
私は、行こうとした。
報告しようとした。
でも、誰も聞いてくれなかった。
だから——
だから、黙った。
黙るしかなかった。
---
それは、言い訳だった。
リーラは、分かっていた。
誰も聞いてくれなかったのは、事実だ。だが、それでも——
あの部屋に、行くことはできた。
報告が無駄だと分かった後でも、自分の足で、あの客間に行くことはできた。
エレンを連れ出すことはできた。
少なくとも、試すことはできた。
なのに、リーラは——
怖くて、逃げた。
自分の部屋に戻って、目を閉じて、忘れようとした。
これが、私の選択だ。
リーラは、自分の手を見た。
震えていた。今度は、恐怖ではなく、後悔で。
---
「……リーラ」
声がした。
振り返ると、メイド長のグレイスが立っていた。
「執事様がお呼びだ。ついてこい」
グレイスの声は、いつもより硬かった。
リーラは、黙ってついていった。
---
執事の部屋。
アルバートは、机の前に立っていた。その隣に、カルディス卿がいた。
2人とも、リーラを見ていた。
「座れ」
アルバートが言った。
リーラは、椅子に座った。
「単刀直入に聞く」
アルバートは、リーラの目を見た。
「お前は、事件の夜、西棟で何かを見たな?」
リーラの心臓が、跳ねた。
「……」
「黙っていても無駄だ。廊下の燭台が、西棟で落ちていた。お前が見回りをしていた時間帯だ」
リーラは、唇を噛んだ。
逃げられない。
「……見ました」
リーラは、答えた。
「黒い靄を。客間の前で」
「なぜ、報告しなかった」
「しました」
リーラの声が、自分でも驚くほど強く響いた。
「メイド長に報告しました。執事様にも報告しました。旦那様にも報告しました。3人に報告して、3人に拒絶されました」
部屋の空気が、凍った。
グレイスの顔が、強張った。
アルバートの目が、かすかに揺れた。
カルディス卿は——無表情だった。
「迷信だと言われました」
リーラは、続けた。
「秩序を乱すなと言われました。下賤の者に魔法は分からないと言われました」
リーラは、カルディス卿を見た。
「だから、黙りました。誰も聞いてくれないなら、黙るしかないと思いました」
沈黙が、部屋を満たした。
カルディス卿が、口を開いた。
「……お前は、我々を責めているのか」
「いいえ」
リーラは、首を横に振った。
「私は、自分を責めています」
「……何?」
「報告して拒絶された後、私は自分の部屋に戻りました。あの客間に行かなかった。エレンを助けに行かなかった。怖かったから。クビになるのが怖かったから」
リーラの目から、涙がこぼれた。
「皆様が私の話を聞いてくださらなかったのは、事実です。でも、それでも、私にはできることがありました。なのに、私は逃げました」
リーラは、頭を下げた。
「エレンを救えなかったのは、私の罪です。どうか、私を罰してください」
---
長い沈黙があった。
カルディス卿が、静かに言った。
「……顔を上げろ」
リーラは、顔を上げた。
カルディス卿の目は、複雑な色をしていた。怒りでも、軽蔑でもない。何か、別の——
「お前は、あの靄に触れたとき、声が聞こえたと言ったな」
「はい」
「どんな声だった」
「……助けを求める声でした。女の声。若い。怯えていて——」
リーラは、言葉を止めた。
あの声。
今、思い返すと——
「……エレンの声だったのかもしれません」
リーラは、自分の言葉に気づいて、震えた。
あの声は、エレンの声だったのかもしれない。
呪いに囚われたエレンの魂が、必死に外に向けて叫んでいた声だったのかもしれない。
そして、その声を聞けたのは——
私だけだった。
カルディス卿は、長い間、リーラを見つめていた。
その目に、何か計算するような光が浮かんでいた。
「……面白い」
卿は、静かに言った。
「下賤の者に魔法は分からない、と私は言った。だが——」
彼は、リーラの前に歩み寄った。
「お前は、確かに何かを感じ取った。黒月の呪詛の痕跡を。それも、白月派の術師ですら気づかなかったものを」
リーラは、意味が分からなかった。
「旦那様……?」
「事件の後、私は白月派の術師を呼んで屋敷を調べさせた。彼らは、客間に残留していた呪詛の痕跡を検出した。だが、それはお前が見た夜の翌朝のことだ」
カルディス卿の目が、鋭くなった。
「つまり、お前は、術師たちよりも早く、呪詛の気配を察知していた。訓練も受けていない農村の小娘が」
リーラは、何も答えられなかった。
「それは、あり得ないことだ。少なくとも、通常では」
カルディス卿は、顎に手を当てた。
「だが、あり得ないことが起きた。ならば、答えは1つしかない」
彼は、リーラの目を覗き込んだ。
「お前の中には、何かがある」
---
その夜。
リーラは、自分の部屋で眠れずにいた。
カルディス卿との会話の後、彼女は「処分は保留する」と告げられた。
クビにはならなかった。だが、それが良いことなのか悪いことなのか、リーラには分からなかった。
カルディス卿の最後の言葉が、頭から離れなかった。
「お前の中には、何かがある」
何か。
それは、何だ。
リーラは、自分の手を見た。
あの夜、靄に触れた手。
あの瞬間、確かに何かが流れ込んできた。エレンの声。恐怖。冷たさ。
それを感じ取れたのは——
なぜ、私だったんだ。
答えは、出なかった。
---
窓の外で、月が輝いていた。
白月。
昨夜よりも少し欠けている。
リーラは、何気なく窓に近づいた。
月を見上げた。
青白い光が、彼女の顔を照らした。
その瞬間——
また、何かが見えた。
「——っ!」
リーラは、目を見開いた。
月の光の中に、何かが浮かんでいた。
一瞬だけ。瞬きをしたら消えてしまうほど、かすかな——
影。
白月の表面に、小さな影が横切った。
まるで、月の前を何かが通り過ぎたような——
「……何だ、今の」
リーラは、目をこすった。
もう1度、月を見上げた。
何もなかった。白月は、いつもと同じように輝いていた。
気のせいか。
そう思おうとした。
だが、胸の奥で、何かがざわついていた。
あの影。
あれは、何だったんだ。
---
翌日。
リーラは、いつも通り見習いの仕事をこなした。
だが、心ここにあらずだった。
昨夜見た影のことが、頭から離れなかった。
そして——エレンのことも。
エレンは、まだ目を覚まさない。
呪詛は、彼女の魂を少しずつ蝕んでいる。
あと1か月。
それが、彼女に残された時間だった。
---
夕方。
リーラは、掃除の途中で、ある場所に立ち寄った。
屋敷の図書室。
見習いメイドが立ち入ることは、本来禁じられている。だが、今日は誰もいなかった。
リーラは、そっと中に入った。
広い部屋だった。壁一面に本が並び、高い天井にはシャンデリアが輝いている。
リーラは、本棚の間を歩いた。
何を探しているのか、自分でも分からなかった。
ただ、何か——答えを探していた。
自分の中にある何かについての答えを。
---
本棚の奥で、リーラは足を止めた。
1冊の本が、目に留まった。
古い革表紙の本。背表紙の文字は擦れて、ほとんど読めない。
だが、1つの単語だけが、かすかに残っていた。
「
三月。
リーラは、その言葉に引っかかりを覚えた。
この世界には、月が2つしかない。白月と黒月。
なのに、三月?
彼女は、本を手に取った。
開いてみた。
---
ページは黄ばみ、インクは薄れていた。だが、文字は読めた。
≪かつて、この世界には3つの月があった≫
リーラは、息を呑んだ。
≪白月、黒月、そして名もなき第3の月≫
≪ 白月は秩序を司り、黒月は混沌を司る。だが、第3の月は、そのどちらでもなかった≫
≪第3の月は、境界を司る月であった。白と黒の狭間、光と闇の境目、生と死の際——あらゆる境界に立ち、均衡を保つ者≫
リーラは、ページをめくった。
≪ 第3の月は、白月と黒月の争いを止める力を持っていた。だが、ある大戦の終わりに、第3の月は空から消えた≫
≪ある者は、第3の月は破壊されたと言う。ある者は、封印されたと言う。だが、真実を知る者は、もういない≫
≪ ただ、古い伝承にはこう記されている——≫
≪第3の月の欠片は、今も世界のどこかに眠っている。そして、いつか、境界に立つ者がその欠片を見出すだろう≫
リーラは、そこで手を止めた。
第3の月。
境界を司る月。
その欠片が、世界のどこかに眠っている。
これは——何を意味しているんだ?
リーラは、本を閉じようとした。
その瞬間——
≪ 第3の月の欠片を宿す者は、白月の光にも黒月の闇にも染まらぬ。彼らは呪詛を感じ、祝福を見抜き、境界を越えて声を聞く≫
リーラの手が、止まった。
呪詛を感じる。
境界を越えて声を聞く。
それは——
私のことじゃないのか。
---
「誰だ」
声がした。
リーラは、飛び上がった。
振り返ると、図書室の入り口に、1人の男が立っていた。
若い男だった。20代半ば。黒髪を短く刈り込み、鋭い目をしている。
使用人の服ではない。だが、貴族の服でもない。
「見習いメイドが、図書室で何をしている」
男は、リーラに近づいてきた。
「その本を、どこで見つけた」
リーラは、本を胸に抱いた。
「……棚にありました」
「三月記か」
男の目が、本の背表紙を見て、細められた。
「その本を読めたのか?」
「……はい」
「どこまで読んだ」
リーラは、答えなかった。
男は、しばらくリーラを見つめていた。
そして、静かに言った。
「お前、名前は」
「……リーラ・ハートです」
「リーラ・ハート」
男は、その名前を反芻するように呟いた。
「西棟の事件の夜、黒月の呪詛を感じ取ったメイドだな」
リーラの心臓が、跳ねた。
「なぜ、それを——」
「カルディス卿から聞いた」
男は、リーラの前に立った。
「俺はセオドア・ヴェイン。白月派の術師だ」
---
セオドア・ヴェイン。
その名前を、リーラは聞いたことがあった。
白月領でも有数の術師の家系、ヴェイン家の次男。若くして才能を認められ、白月派の中でも将来を嘱望されている——という噂を。
「お前に、いくつか聞きたいことがある」
セオドアは、図書室の椅子を引いて、座った。
「座れ」
リーラは、恐る恐る向かいの椅子に座った。
「事件の夜、お前は何を見た」
「黒い靄です。客間の前に、漂っていて——」
「それだけか?」
「……声も、聞こえました。靄に触れたとき、助けを求める声が」
セオドアは、顎に手を当てた。
「呪詛に囚われた者の声を聞いた。訓練なしで」
「……はい」
「普通は、ありえない」
セオドアの目が、リーラを射抜いた。
「黒月の呪詛を感知するには、白月の加護を受け、何年もの訓練を積まなければならない。お前のような——失礼だが——農村の娘に、できることじゃない」
リーラは、黙っていた。
「だが、カルディス卿は言った。お前は確かに感じ取っていた、と。翌朝、俺たちが屋敷を調べたとき、客間に残留呪詛を検出した。お前の報告と、完全に一致していた」
セオドアは、身を乗り出した。
「説明してくれ。お前は、何者だ」
---
リーラは、首を横に振った。
「分かりません。私自身、何が起きているのか——」
「三月記を読んでいたな」
セオドアの声が、鋭くなった。
「何が書いてあった」
「……第3の月のことです。かつてこの世界には3つの月があった、と」
「それで?」
「第3の月の欠片を宿す者は、呪詛を感じ、境界を越えて声を聞く——と」
セオドアは、長い沈黙の後、椅子の背にもたれた。
「……やはりか」
「やはり?」
「俺も、その可能性を考えていた」
セオドアは、天井を見上げた。
「白月と黒月の魔法は、どちらも源を持っている。白月派は白月の加護を受け、黒月派は黒月の闇を宿す。だが、ごく稀に、どちらでもない力を持つ者が現れる」
彼は、リーラを見た。
「第3の月の欠片を宿す者。境界の民と呼ばれている」
リーラは、息を呑んだ。
「境界の民……」
「白月にも黒月にも属さない。どちらの魔法も使えないが、どちらの魔法も感じ取れる。呪詛を見抜き、祝福を感知し、魂の声を聞く」
セオドアは、立ち上がった。
「お前は、その力に目覚めかけている。おそらく、あの夜の靄に触れたことが、きっかけになった」
---
リーラは、自分の手を見た。
境界の民。
第3の月の欠片を宿す者。
それが、私なのか。
「……その力で、エレンを救えますか」
リーラは、顔を上げた。
「同期のメイドです。呪いに囚われて、目を覚まさない。あと1か月で——」
「知っている」
セオドアは、頷いた。
「だが、今のお前には無理だ」
「なぜ——」
「力に目覚めかけていると言っただろう。まだ完全じゃない。今のお前は、感じ取ることはできても、干渉することはできない」
リーラは、拳を握りしめた。
「じゃあ、どうすれば——」
「訓練がいる。時間がいる。だが——」
セオドアは、窓の外を見た。
「時間は、あまりない」
「……どういう意味ですか」
リーラは、セオドアの横顔を見つめた。
彼は、窓の外の月を見たまま、答えた。
「エレンを呪ったのは、黒月派だ。それも、ただの末端じゃない。かなり高位の術師の仕業だ」
「黒月派……」
「奴らが、なぜこの屋敷を狙ったのか。なぜ、1人のメイドを呪ったのか。まだ分からない」
セオドアは、振り返った。
「だが、1つだけ確かなことがある。奴らは、また来る」
リーラの背筋が、凍った。
「また……?」
「エレンへの呪詛は、試し撃ちだった可能性がある。屋敷の防御を探るための。本命は、これからだ」
セオドアは、リーラの前に立った。
「お前は、黒月の呪詛を感じ取れた。白月派の術師よりも早く。それは、俺たちにとって使える能力だ」
リーラは、その言葉に引っかかりを覚えた。
使える。
まるで、道具のように——
「誤解するな」
セオドアは、リーラの表情を見て、小さく笑った。
「お前を利用しようとしてるわけじゃない。ただ、選択肢を与えようとしてる」
「選択肢?」
「お前は、2つの道を選べる」
セオドアは、指を2本立てた。
「1つ。このまま見習いメイドとして働き続ける。力のことは忘れて、普通の人生を生きる。エレンのことも、黒月派のことも、誰か他の人間に任せる」
リーラは、黙っていた。
「2つ。俺と一緒に来い。力の使い方を学べ。エレンを救う方法を、自分で探せ」
セオドアは、リーラの目を見た。
「どちらを選ぶかは、お前次第だ」
---
リーラは、自分の部屋に戻った。
セオドアには、「考えさせてください」とだけ答えた。
彼は、「明日の夜まで待つ」と言って、去っていった。
---
窓の外では、白月が輝いていた。
昨夜よりも、さらに少し欠けている。
リーラは、月を見上げた。
第3の月。
境界を司る月。
その欠片が、私の中にある。
信じられなかった。
農村の貧しい家に生まれた、ただの娘。弟と妹を食べさせるために、屋敷に奉公に来た、ただのメイド。
そんな自分の中に、伝説の月の欠片があるなんて。
でも——
リーラは、自分の手を見た。
あの夜、確かに何かを感じた。
黒い靄の中から、エレンの声が聞こえた。
それは、現実だった。
---
「1つ。このまま見習いメイドとして働き続ける」
セオドアの言葉が、頭の中で響いた。
それが、普通の選択だ。
リーラには、家族がいる。弟のトム、妹のメグ。2人とも、リーラの仕送りを待っている。
もし、セオドアについていったら——
仕送りはどうなる?
家族は、どうなる?
私が抜けたら、あの子たちは冬を越せない。
それに、力の訓練なんて、危険に決まっている。黒月派と戦うことになるかもしれない。死ぬかもしれない。
普通に生きる方が、ずっと安全だ。
---
だが——
リーラは、目を閉じた。
エレンの顔が浮かんだ。
ベッドに横たわり、目を閉じて、浅い呼吸を繰り返す彼女の姿。
「大丈夫だよ、リーラ。一緒に覚えていこう」
あの笑顔が、もう見られないかもしれない。
あと1か月。
何もしなければ、エレンは死ぬ。
そして、私は——
また、黙って見ているだけなのか。
---
リーラは、あの夜のことを思い出した。
西棟の廊下で、黒い靄を見た夜。
報告しようとして、3人に拒絶された夜。
そして——
怖くて、自分の部屋に逃げ帰った夜。
あのとき、私は黙った。
誰も聞いてくれないから。怖いから。クビになりたくないから。
全部、正当な理由だった。
でも、結果として——
エレンが呪われた。
私が黙ったから。私が逃げたから。
私が、何もしなかったから。
---
リーラは、拳を握りしめた。
もう、同じ過ちは繰り返さない。
声が出た。小さく、震えていた。でも、確かに——
「……私は、行く」
誰もいない部屋で、リーラは宣言した。
「セオドアさんについていく。力の使い方を学ぶ。エレンを——」
声が、詰まった。
「エレンを、今度こそ救う」
---
だが、その瞬間——
別の考えが、頭をよぎった。
家族は、どうする?
トムとメグ。
あの子たちを、見捨てるのか?
リーラは、唇を噛んだ。
答えは、出なかった。
---
翌朝。
リーラは、執事のアルバートを訪ねた。
「……何の用だ」
アルバートは、警戒した目でリーラを見た。
あの夜の報告のことを、まだ根に持っているのかもしれない。
「お願いがあります」
リーラは、頭を下げた。
「私の給金の全額を、実家に送金していただけませんか」
アルバートは、眉を上げた。
「全額? お前の生活費は、どうするつもりだ」
「……しばらく、屋敷を離れることになるかもしれません」
「離れる?」
アルバートの目が、鋭くなった。
「どういう意味だ」
「セオドア・ヴェイン様に、ついていきます。力の——その、訓練を受けることになりました」
リーラは、詳しいことは言わなかった。境界の民のことも、第3の月のことも。
アルバートは、長い間、リーラを見つめていた。
「……ヴェイン殿が、お前を?」
「はい」
「カルディス卿は、ご存知なのか」
「……分かりません。でも、セオドア様が話してくださると——」
「勝手なことを」
アルバートの声が、冷たくなった。
「見習いメイドが、主人の許可なく屋敷を離れるなど——」
「アルバート」
声がした。
振り返ると、部屋の入り口に、カルディス卿が立っていた。
---
「卿……」
アルバートが、頭を下げた。
カルディス卿は、リーラを見た。
「ヴェイン殿から話は聞いた。お前を連れていきたい、と」
リーラは、息を呑んだ。
「彼が言うには、お前には特殊な才能があるそうだな」
「……はい」
カルディス卿は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「行くがいい」
リーラは、耳を疑った。
「え——」
「ヴェイン殿が必要だと言うなら、それだけの価値があるのだろう。お前の能力は、この屋敷にとっても——いや、白月領にとっても使える」
カルディス卿は、リーラの前に歩み寄った。
「給金の送金は、私が手配する。これは投資だ。お前が役に立てば、回収する。役に立たなければ——」
彼は、冷たく笑った。
「——その時は、お前の家族に請求する」
リーラの心臓が、凍りついた。
「……分かり、ました」
声が震えた。
カルディス卿は、もう興味を失ったように、背を向けた。
「行け。そして、結果を出せ」
---
その日の夜。
リーラは、机の前に座った。
引き出しから、紙とペンを取り出す。
インク壺を開けて、ペン先を浸す。
手が、震えていた。
手紙を書かなきゃ。
弟のトムに。妹のメグに。
でも、何を書けばいい?
「ごめんね、しばらく帰れない」?
「お姉ちゃんは、危険なことをしに行く」?
「もしかしたら、もう会えないかもしれない」?
——書けない。
リーラは、ペンを置いた。
頭の中に、2人の顔が浮かんだ。
トム。10歳。やんちゃで、いつも泥だらけで帰ってくる。でも、妹のことは誰よりも大切にしてる。
メグ。8歳。おとなしくて、本を読むのが好き。「お姉ちゃん、いつ帰ってくるの?」と、いつも聞いてくる。
あの子たちを、置いていくのか。
リーラは、目を閉じた。
私がいなくなったら、あの子たちは——
カルディス卿が言っていた。
「給金の送金は手配してやる」と。
でも、それは投資だと。
「役に立たなければ、お前の家族に請求する」と。
つまり——
私が失敗したら、あの子たちが——
リーラの手が、震えた。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
でも——
エレンを見捨てるのは、もっと怖い。
リーラは、再びペンを取った。
震える手で、文字を綴った。
---
『 トムへ、メグへ。
お姉ちゃんは、しばらく帰れなくなりました。
でも、心配しないで。お金は送るから。
トム、メグのこと、よろしくね。
メグ、トムの言うこと、ちゃんと聞くんだよ。
お姉ちゃんは、大事な人を助けに行きます。
だから——』
---
リーラの手が、止まった。
だから、何だ。
許してね?
待っててね?
忘れないでね?
——どれも、嘘だ。
本当は、こう書きたい。
ごめんね。お姉ちゃんは、弱くて、怖くて、でも、逃げられなかった。
だから、あなたたちを置いていく。
これが、私の選択。私の罪。
許してくれなくていい。ただ、生きてて。
——でも、書けない。
こんなこと、8歳と10歳の弟妹に書けるわけがない。
リーラは、涙を拭った。
そして、手紙の続きを書いた。
---
『だから、待っててね。
必ず、帰るから。
お姉ちゃんより。』
---
嘘だ。
必ず帰れるなんて、分からない。
でも、それでも——
この嘘を、本当にするために、私は行く。
リーラは、手紙を折りたたんで、封筒に入れた。
明日、送る。
そして、私は——
もう、戻れない道を歩き始める。
---
その夜。
リーラは、エレンの病室を訪ねた。
エレンは、相変わらずベッドに横たわっていた。目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。
顔色は、前よりも悪くなっていた。唇が青白く、頬がこけている。
呪詛が、少しずつ彼女を蝕んでいる。
リーラは、ベッドの横に座った。
「エレン」
返事はなかった。
「私、明日から出かけることになったの。力の使い方を学びに」
沈黙。
「あなたを救う方法を、見つけに行く」
リーラは、エレンの手を握った。
冷たかった。
「待っててね。必ず、戻ってくるから」
エレンの瞼が、かすかに震えた。
——気のせいかもしれない。
でも、リーラは信じることにした。
エレンには、まだ意識がある。どこかで、聞いている。
「あの夜、私はあなたを助けられなかった」
リーラの声が、震えた。
「怖くて、逃げた。それが、私の罪」
涙が、頬を伝った。
「でも、もう逃げない。もう、黙らない」
リーラは、エレンの手を握りしめた。
「だから——」
「——待ってて」
---
部屋を出たとき、廊下にセオドアが立っていた。
「決心は、ついたようだな」
「はい」
リーラは、頷いた。
「行きます。あなたと一緒に」
セオドアは、小さく笑った。
「覚悟はいいな。楽な道じゃないぞ」
「分かっています」
「後戻りは、できないぞ」
「分かっています」
リーラの声は、もう震えていなかった。
セオドアは、頷いた。
「いい目だ。——行くぞ」
彼は、歩き出した。
リーラは、その背中を追った。
---
屋敷の門を出る前に、リーラは1度だけ振り返った。
白い壁。高い塔。月明かりに照らされた、カルディス家の屋敷。
3週間前、ここに来たときは、ただ生き延びることだけを考えていた。
家族に仕送りをして、自分は静かに働いて、それだけでよかった。
でも、今は——
守りたいものが、できた。
エレン。
呪いに囚われた、たった1人の友人。
彼女を救うために、私は——
「リーラ」
セオドアの声がした。
「何をしている?置いていくぞ」
「……はい」
リーラは、前を向いた。
そして、歩き出した。
---
夜空には、白月が輝いていた。
だが、リーラの目には、別のものが見えていた。
白月の傍らに、かすかな影。
あの夜から、ずっと見えている影。
第3の月の残像。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
でも、いつか——
きっと、分かる日が来る。
リーラは、そう信じることにした。
---
(続く)
【異世界ファンタジー】壊れた月、繋がる絆 マスターボヌール @bonuruoboro
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