洗い場に立つのは、アライグマでした
SeptArc
第1話 人が消える洗い場
国道沿いの、どこにでもあるイタリアンがある。
大きな駐車場。ガラス張りの入口。昼は家族連れ、夜は学生と会社員が混ざる店。安くて、早くて、量が多い。メニューが多いぶん、皿の種類も妙に多い。
店名は「トラットリア・リーヴァ」。
しゃれた名前のわりに、店の中身は徹底して現場主義だった。
回転。補充。仕込み。片付け。
毎日、同じリズムで回っているように見える。
けれど、その回転の中心に、誰も見たくない穴がひとつ空いていた。
洗い場。
バックヤードのいちばん奥。厨房からもホールからも一歩引いた場所にある、銀色の流し台と食洗機の部屋。そこだけ湿度が違う。音も違う。空気が重い。床はいつも濡れていて、油と洗剤の匂いが混ざって鼻の奥に残る。
そして、そこだけ――人が定着しない。
店長の佐伯(さえき)は、シフト表を見ながら小さく笑う癖がついた。
笑っていないと、手が震えそうだったからだ。
「来週の洗い場、誰入れたんですか?」
ホールのリーダー、千夏(ちなつ)が、指先で紙をトントン叩く。
鋭い眼鏡越しの視線が、そこだけ空欄の一週間を刺していた。
「……まだ」
「“まだ”って、もう明後日金曜ですよ」
「わかってる」
「わかってないですよ。金曜、洗い場が詰まったら厨房が止まります」
千夏は怒っているというより、危機管理の顔をしていた。
怒る体力は、現場で使い果たしている。
厨房から、フライパンの金属音が聞こえる。
オーブンのファンが唸る。
注文を打つ端末の電子音が、やけに甲高い。
佐伯はシフト表の端を指で揉んだ。紙が少し湿っている。バックヤードの湿気のせいか、汗のせいか、もう区別がつかない。
「求人、出してる。面接も入れてる。……ただ」
「ただ?」
「洗い場って言った瞬間に、返事が薄くなる」
「当たり前じゃないですか」
千夏はさらっと言った。
その“当たり前”が、いちばんきつかった。
洗い場の仕事は、単純だ。
皿を受け取って、仕分けて、流して、入れて、出して、拭いて、積む。
誰でもできる。
――誰でもできるはずなのに、誰も続かない。
それには理由があった。
ピークタイムになると、洗い場は世界の終わりみたいになる。
ドリア皿、パスタ皿、サラダボウル、グラス、カトラリー、木のボード、鉄板。
ソースの色も、油の質も、焦げの付き方も違う。
混ざれば落ちにくくなるから分ける。
分けている間にも、次が来る。
次が来る間にも、厨房は「鍋返して!」と叫ぶ。
ホールは「グラス足りない!」と声を飛ばす。
洗い場だけ、時間の流れが速い。
速いのに、終わりは見えない。
「すみませーん、洗い場、今日誰でしたっけ?」
新人の大学生が、厨房の入口から顔を出した。
制服がまだ新しい。声もまだ軽い。
千夏が首を横に振る。
「……いない」
大学生は一瞬、状況が理解できない顔をした。
そして次の瞬間、ゆっくりと笑った。冗談だと思ったのだ。
「え、いないって……じゃあ、誰が……」
「今日だけ、みんなで回す」
佐伯が言うと、大学生の笑みが固まった。
その顔を見てしまうと、佐伯は胸の奥がぎゅっと縮む。
今日だけ。
この言葉は、現場で何度も使われる。
そして、だいたい嘘になる。
夜七時。
客席はほぼ埋まっていた。
家族連れのテーブルでは子どもがフォークを落とし、学生の集団はドリンクバーに群れ、スーツ姿の二人組は静かに赤いワインを回す。
ホールは明るい。音楽も軽快だ。
バックヤードは違う。
厨房の熱気は、壁一枚で別の生き物みたいにうねっていた。
オーブンの前では汗が乾かない。
フライパンの柄はすぐ熱くなる。
油は跳ね、ソースはこぼれ、床にはいつの間にか水が溜まる。
洗い場は、その全部の受け皿だった。
「下げまーす!」
ホールから皿の山が来る。
千夏が運ぶ。
田口が運ぶ。
新人の大学生も運ぶ。
洗い場の流し台に、皿が積み上がる。
積む。
積む。
積む。
最初は誰もが丁寧だった。
「よし、やるぞ」という気持ちがある。
しかし、十分で変わる。
二十分で崩れ始める。
三十分で、誰かが無言になる。
泡をつけた手で皿を掴むと、滑る。
滑ると割れる。
割れると音が響く。
音が響くと、心が縮む。
「すみません!」
大学生が声を上げた。
小さな皿が一枚、欠けていた。
佐伯はそれを見て、怒鳴れなかった。怒鳴るべきことではないからだ。
でも、欠けた皿が増えると補充が追いつかない。
追いつかないと、提供が遅れる。
遅れると、クレームが来る。
だから、怒鳴れないのに、胃が痛くなる。
「割れた分は俺が処理する。手、切ってないか?」
「だ、大丈夫です」
大学生は、目を合わせない。
その視線が、佐伯には怖かった。
――この子も、辞める。
そう思ってしまうのが、いちばん嫌だった。
厨房から声が飛んだ。
「店長! フライパン返ってこない!」
田口だ。声が焦っている。
洗い場が詰まると、厨房の動きが止まる。止まれば、提供が止まる。
止まれば、ホールが荒れる。荒れれば、客席が荒れる。
佐伯は洗い場に入り、腕まくりをした。
エプロンが濡れる。
靴の中がすぐ湿る。
手を動かす。
動かす。
動かす。
が、追いつかない。
水は落ちる。
皿は増える。
音は増える。
呼吸が浅くなる。
そして、午後八時半。
新人の大学生が、洗い場の端で立ち尽くした。
「……すみません、ちょっと、息が」
千夏が「水飲んで」と言う。
佐伯も「外、出てもいい」と言う。
大学生は頷いて、バックヤードの扉を開けた。
そのまま、戻ってこなかった。
閉店後。
客席が静かになり、照明が落ち、音楽が消えると、疲れだけが残る。
皿はまだ山のまま。
泡は冷たくなり、指先がじんじん痛む。
佐伯はゴミ置き場に出て、夜風を吸った。
冬の冷たい空気が、肺の奥に刺さる。
勝手口の前で、千夏が腕を組んで立っていた。
髪が少し乱れている。
普段は乱れない人だ。
「……辞めましたね」
千夏は、淡々と言った。
責めている口調ではない。事実を確認しているだけ。
「……多分」
「多分じゃないです。連絡きました。“自分には無理でした”って」
佐伯は、笑ってしまいそうになった。
無理。
その言葉は正しい。
でも、それを正しいまま放置すると店が終わる。
「店長」
千夏が言う。
その声は、少しだけ柔らかかった。
「私たち、悪い人じゃないじゃないですか」
「……うん」
「ちゃんと教えるし、ちゃんとフォローもするし、無理なシフトも押し付けない。なのに、辞める」
佐伯は答えられなかった。
悪い人じゃない。
だから辞めない、ではない。
環境が削ってくるとき、人の善意は簡単にすり減る。
千夏は少し目を伏せ、息を吐いた。
「洗い場だけ、異常なんですよ」
佐伯はその言葉を、胸の中で何度も反芻した。
異常。
正常。
どこからが異常で、どこまでが正常なのか。
洗い場は、誰かに押し付ければ回る。
回るから、見過ごせる。
見過ごせるから、ずっと同じままになる。
けれど、その“ずっと同じ”が、人を消していく。
佐伯は、勝手口のドアに手を置いた。
ドアノブが冷たい。
その冷たさが、今夜の現実そのものみたいだった。
「……明日」
「はい」
「明日、面接来る。洗い場希望じゃないと思うけど、頼む」
「また“今日だけ”ですか」
千夏は小さく笑った。
それは優しい笑いではなく、諦めと冗談の境目の笑いだった。
佐伯は、喉の奥が苦くなった。
バックヤードに戻ると、まだ洗い物が残っている。
田口が無言で手を動かしていた。
皿を洗って、拭いて、積む。
拭いて、積む。
拭いて、積む。
佐伯も隣に立ち、手を動かした。
そうしないと、終わらないからだ。
水音が店内に響く。
それだけが、店がまだ生きている証拠だった。
ふと、佐伯は思った。
――洗い場が回るなら、何でもいい。
その考えに、自分でも薄くゾッとした。
“何でも”の中には、本来入れてはいけないものが混ざる。
でも、もう限界が近い。
最後の皿を積み終えた頃には、日付が変わりかけていた。
店の灯りを落とし、鍵を閉め、外に出る。
駐車場は空っぽで、遠くの道路を走る車の音だけが聞こえる。
ゴミ置き場の袋を縛りながら、佐伯はまた息を吐いた。
「……もう、誰でもいい」
口に出した瞬間。
勝手口の向こう、暗がりで、ゴソゴソと音がした。
袋が揺れた。
何かが、そこにいる。
佐伯がそっと覗くと――
灰色の毛に覆われた、小さな影が、器用な手でゴミ袋を漁っていた。
顔を上げる。
黒いマスクみたいな模様の目が、佐伯を見た。
逃げない。
その目は、不思議なくらい落ち着いていた。
佐伯は疲れきった頭で、信じられないことを思った。
――こいつ、手がある。
――しかも、指がよく動く。
そして、疲れと現実逃避が混ざった声で、佐伯は言ってしまった。
「……皿洗い、できるか?」
アライグマは、首を傾げた。
それから、まるで当然みたいに、両手を小さく動かし、洗い場の方向を指した。
佐伯の背中に、冷たい汗がすっと流れた。
その汗は、恐怖なのか、希望なのか。
佐伯自身にも、まだわからなかった。
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