【短編小説1話完結】選択の輪郭
マスターボヌール
第1話
午前1時の札幌駅地下街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
シャッターの降りた店舗が並ぶ通路を、淳はモップを押しながら歩いていた。蛍光灯の白い光が、磨き上げた床に反射している。靴音だけが、やけに大きく響く。
32歳。派遣清掃員。
履歴書の職歴欄には、もう書ききれないほどの会社名が並んでいる。どれも1年と持たなかった。営業、事務、倉庫作業、コンビニ、警備員。どの仕事でも、淳は同じことを繰り返した。判断を先延ばしにし、決断を避け、気がつけば居場所を失っている。
この清掃の仕事は、その点で都合が良かった。誰とも話さなくていい。何も決めなくていい。モップを押し、床を磨き、ゴミを集める。それだけでいい。
通路の角を曲がったとき、淳は足を止めた。
20メートルほど先に、人影がある。
午前1時。地下街は閉鎖されているはずだ。警備員か、あるいは同じ清掃員か。
淳は目を凝らした。
違う。
その人影は、**透けていた**。
輪郭はあるが、向こう側の壁がうっすらと見える。男だろうか。スーツを着ているように見える。年齢は40代か50代か。顔は判然としない。
淳は息を吐いた。また、か。
視線を落とす。
男の足元に、時計の文字盤が浮かんでいる。青白い光を放つ、アナログ式の時計。ただし、針は動いていない。代わりに、数字が表示されている。
04:32:17
4時間32分17秒。
淳はその数字の意味を知っている。
この男は、あと4時間半で死ぬ。
---
最初にこの「視える」体質に気づいたのは、5年前だった。
当時、淳は警備員をしていた。深夜のオフィスビルを巡回中、廊下の端に透けた人影を見た。最初は幽霊かと思った。だが、その人影は翌朝、同じビルのエレベーターで心臓発作を起こして死んだ。
偶然だと思った。
だが、それから何度も同じことが起きた。透けた人影を見る。足元に時計がある。その時計がゼロになると、その人間は死ぬ。
淳は最初、自分が狂ったのだと思った。病院にも行った。だが、医者は何も見つけられなかった。MRIも脳波も異常なし。「ストレスでしょう」と言われ、睡眠薬を処方された。
やがて淳は理解した。
これは病気ではない。
自分には、死に近い人間が視える。
そして、足元の時計は、その人間が死ぬまでの残り時間を示している。
---
廊下の端で、透明な男がゆっくりと歩いている。
淳はモップを握ったまま、その場に立ち尽くしていた。
4時間半。この男は、あと4時間半で死ぬ。心臓発作か。交通事故か。それとも別の何かか。淳には分からない。分かるのは、時計がゼロになったとき、この男が死ぬということだけだ。
淳は視線を逸らした。
関係ない。
自分には関係ない。
この男が誰で、どこに住んでいて、どんな人生を送ってきたか、淳は知らない。知る必要もない。ただ、今夜の巡回中に、たまたま視界に入っただけだ。
淳はモップを押し、歩き始めた。
透明な男の横を通り過ぎる。男は淳に気づいていない。淳も、気づかないふりをする。
これでいい。
これが、淳のやり方だ。
---
休憩室で缶コーヒーを飲みながら、淳は窓の外を見ていた。
地上への階段が見える。その向こうに、夜の空が広がっている。雪は降っていない。1月の札幌にしては珍しく、乾いた夜だった。
淳は目を閉じた。
---
中学2年の冬。
あの日も、雪は降っていなかった。
放課後、淳は堀田と一緒に下校していた。堀田は同じクラスの友人で、よく一緒に帰った。その日も、いつもと同じように、くだらない話をしながら歩いていた。
「なあ、今度の日曜、ゲーセン行かね?」
堀田がそう言った。淳は「いいよ」と答えた。
交差点に差しかかったとき、堀田が「こっち、近道」と言って車道の方へ歩き出した。
その瞬間、淳は何かを感じた。
視界の端で、何かが動いた。
車だった。
路面が凍結していた。車はスリップし、制御を失っていた。
淳は声を出そうとした。だが、喉が詰まって、何も言えなかった。
堀田が振り向いた。
その顔が、ヘッドライトの光に照らされた。
次の瞬間、堀田の体が宙に浮いた。
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側溝。
黒い水。
雪の縁。
堀田の手が、その縁を掴んでいた。
「おい」
堀田の声が聞こえた。
「おい、手」
淳は立ち尽くしていた。
飛び込むべきか。
走って助けを呼ぶべきか。
大人を探すべきか。
この水深で、自分も溺れるのではないか。
選択肢が頭の中をぐるぐると回っていた。どれを選べばいい。どれが正しい。どれが――
堀田の指が、雪から滑り落ちた。
水音が聞こえた。
それから、静寂。
淳は1歩も動いていなかった。
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あの日から、淳は「選ばない」人間になった。
選ばなければ、間違えない。
選ばなければ、後悔しない。
選ばなければ、誰も殺さない。
その理屈が正しいかどうか、淳には分からない。ただ、あの日以来、淳は何も選ばないことで、自分を守ってきた。
仕事も。人間関係も。住む場所も。
全て、流されるままに。
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午前3時。
淳は地下街の巡回を終え、清掃用具を片付けていた。
ロッカーに手を伸ばしたとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
メッセージが1件。
差出人は、知らない番号だった。
本文を開く。
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「兄さん、札幌にいるって聞いた。今度会えない?」
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淳は画面を見つめたまま、動けなかった。
兄さん。
その言葉を使う人間は、1人しかいない。
淳は目を閉じた。
真希の笑い声が聞こえた気がした。
小学生の頃、2人で雪だるまを作った日。庭に積もった雪を丸めて、淳が胴体を作り、真希が頭を作った。出来上がった雪だるまは、頭が大きすぎてバランスが悪かった。真希は「兄さんの作る雪だるま、下手くそ」と笑っていた。淳も笑った。
中学生の頃、真希の授業参観に行った日。両親が仕事で来られなくて、淳が代わりに行った。真希は教室の入り口で淳を見つけると、「来なくていいのに」と言った。だが、その目は笑っていた。帰り道、真希は「ありがとう」と小さく言った。
両親の葬儀の日。火葬場の待合室で、真希は泣いていた。声を殺して、肩を震わせて、泣いていた。淳は何か言うべきだと思った。だが、何も言えなかった。言葉が見つからなかった。だから、ただ隣に座っていた。
それから、7年。
淳は真希から逃げ続けてきた。
連絡しなかったのは、忙しかったからではない。
自分が関わると、ろくなことにならない。堀田の件で、それは証明されていた。だから淳は、真希から距離を置いた。連絡を取らなかった。会おうとしなかった。
「いつか話しかけよう」と思いながら、ずっと先延ばしにしていた。
だが、本当は――
淳はスマートフォンをポケットに戻した。
今夜は返さなくていい。
明日考えればいい。
それが、淳のやり方だ。
---
妹の真希は、今年で24歳になるはずだった。
最後に会ったのは、7年前。両親の葬儀のときだ。
交通事故だった。両親は即死。淳は25歳、真希は17歳だった。
葬儀の手続きは淳がやった。役所への届け出、火葬場の手配、遺品の整理。全て淳が1人でやった。
真希には何もさせなかった。
させたくなかったのではない。
ただ、関わりたくなかった。
淳は自分のことを知っている。自分が関わると、ろくなことにならない。堀田の件で、それは証明されていた。
だから淳は、葬儀が終わるとすぐに真希から距離を置いた。
真希は東京の大学に進学した。淳は札幌に残った。年賀状も、電話も、メールも、何もなかった。淳が望んだとおりだった。
---
だが、今年の春、淳は真希が札幌に戻ってきたことを知った。
共通の知人から聞いた。真希は東京の会社を辞め、札幌の企業に転職したらしい。
同じ街にいる。
淳はそれを知っていた。
だが、連絡はしなかった。
「いつか話しかけよう」と思いながら、ずっと先延ばしにしていた。
いつか。
落ち着いたら。
時間ができたら。
そう言い訳をしながら、8ヶ月が過ぎた。
---
翌日の夜。
淳は再び地下街で清掃をしていた。
午後9時。まだ閉店前で、人通りがある。買い物客、サラリーマン、学生。様々な人間が通路を行き交っている。
淳はモップを押しながら、人混みの中を歩いていた。
そのとき、視界の端で何かが光った。
淳は足を止めた。
通路の向こう、20メートルほど先。
人混みの中に、透明な人影が見える。
若い女。コートを着ている。髪は肩まで。顔は――
淳は息を呑んだ。
見覚えがある。
いや、見覚えどころではない。
その顔は、真希だった。
---
淳は目を疑った。
真希が透けて見えている。
それは、真希が死に近いということだ。
視線を落とす。
真希の足元に、時計が浮かんでいる。
00:03:47
3分47秒。
淳の心臓が跳ねた。
3分。たった3分で、真希が死ぬ。
---
真希はスマートフォンを見ながら歩いている。
画面に集中していて、周囲を見ていない。
エスカレーターの方へ向かっている。
下りのエスカレーター。地下2階へ続く長いエスカレーター。
淳は真希を見つめたまま、動けなかった。
足元の時計が減っていく。
00:03:30
00:03:15
---
淳は知っている。
この時計がゼロになったとき、真希は死ぬ。
どうやって死ぬのかは分からない。エスカレーターで転落するのか。急病で倒れるのか。誰かに巻き込まれるのか。それは分からない。
だが、死ぬことだけは確実だ。
5年間、何度も見てきた。
時計がゼロになった人間は、例外なく死ぬ。
---
淳には、もう1つ知っていることがある。
止められる。
死に近い人間に触れることで、その運命を変えられる。
5年前、最初にこの力に気づいたとき、淳は何度か試したことがある。
透明な人影――初老の男――がビルの階段を降りていた。足元の時計は残り2分を切っていた。淳は咄嗟にその男の肩を掴んだ。
男は振り向いて、怪訝な顔をした。
そして、何事もなく階段を降りていった。
時計は消えていた。
その男は死ななかった。
---
だが、ある時から誰にも触れていない。
理由は2つある。
1つは、代償。
あの日、初老の男を救った直後、淳は自分の足元に時計が現れていることに気づいた。他人の時計ではない。自分の時計だ。
その時計は、救う前よりも短くなっていた。
どれだけ短くなったのか、正確には分からない。だが、淳は確信した。誰かを救うたびに、自分の寿命が削られる。
もう1つは、帳尻。
あの初老の男を救った翌日、ニュースで事故の報道を見た。
同じビルで、別の男が階段から転落死した。初老の男が降りるはずだった、あの階段で。
偶然だと思おうとした。
だが、その後も同じことが起きた。
淳が誰かを救うたびに、近くで別の誰かが死んだ。
心臓発作から助けた女性の代わりに、隣の部屋の老人が心臓発作で死んだ。交通事故から救った少年の代わりに、同じ交差点で別の少年が車に跳ねられた。
世界は、帳尻を合わせようとしている。
誰かを救えば、別の誰かが死ぬ。
それが、この力の代償だった。
---
だから淳は、誰も救わなくなった。
見えても、触れない。
知っていても、関わらない。
それが、淳のやり方だった。
5年間、それで通してきた。
---
だが、今、目の前にいるのは真希だ。
妹だ。
唯一の血縁だ。
淳は真希を見つめていた。
真希はスマートフォンを見ながら、エスカレーターに近づいている。
足元の時計が減っていく。
00:02:45
00:02:30
---
淳の頭の中で、声がした。
見なかったことにしろ。
ここで関わらなければ、自分は何も失わない。寿命も削られない。誰かが代わりに死ぬこともない。
真希が死ぬ。それだけだ。
どうせ7年間、会っていなかった。連絡もしていなかった。昨日のメッセージにも返信しなかった。
真希がいなくなっても、淳の生活は何も変わらない。
見なかったことにしろ。
---
00:02:00
真希がエスカレーターの手前で立ち止まった。
スマートフォンを操作している。誰かにメッセージを送っているのかもしれない。
淳は真希の横顔を見た。
7年前より大人になっている。当たり前だ。17歳だった少女が、24歳の女になっている。
だが、面影は残っていた。
母に似た目元。父に似た口元。
そして、淳に似た、どこか不安げな表情。
---
00:01:30
真希がスマートフォンをポケットにしまった。
エスカレーターに足を踏み出そうとしている。
淳は見ていた。
動けなかった。
---
これは、あの日と同じだ。
堀田が側溝に落ちたとき、淳は立ち尽くしていた。
飛び込むべきか。助けを呼ぶべきか。何が正しいのか。
考えているうちに、堀田は死んだ。
今、同じことが起きようとしている。
真希を救うべきか。
見なかったことにするべきか。
救えば、自分の寿命が削られる。誰かが代わりに死ぬ。
救わなければ、真希が死ぬ。
どちらが正しい。どちらを選べばいい。どちらが――
---
00:01:00
真希がエスカレーターに乗った。
下りのエスカレーター。長い。地下2階まで続いている。
真希は手すりに軽く手を置いて、降りていく。
淳は見ていた。
手すりが、わずかに揺れた。
古い手すりだ。ネジが緩んでいるのかもしれない。真希は気づいていない。
00:00:45
淳は息を吸った。
息が震えていた。
---
選べ。
選ばないのか。
また、見ているだけか。
また、「選ばなかった」と言い訳するのか。
---
00:00:30
淳の足が動いた。
走っていた。
人混みを押しのけて、エスカレーターに向かっていた。
誰かがぶつかって、舌打ちした。関係ない。
淳は走った。
00:00:20
エスカレーターの上部に着いた。
真希は10段ほど下にいる。手すりに手を置いている。
その手すりが、また揺れた。
00:00:15
淳はエスカレーターに飛び乗った。
段を駆け下りる。2段飛ばし。3段飛ばし。
危ない。転びそうになる。関係ない。
00:00:10
真希のすぐ後ろまで来た。
真希が振り向いた。
「え――」
淳は真希の腕を掴んだ。
00:00:05
00:00:04
00:00:03
00:00:02
00:00:01
---
手すりが外れた。
真希の体が傾いた。エスカレーターの外側へ。落ちれば、地下2階の床まで5メートル以上ある。
だが、淳の手が真希の腕を掴んでいた。
真希は落ちなかった。
体が傾いたまま、淳の手に支えられていた。
時計が消えた。
---
同時に、淳の頭の中で何かが弾けた。
痛みではない。
喪失だ。
何かが、淳の中から流れ出していく。
記憶だ。
真希の記憶だ。
---
ああ、そういうことか。
薄れゆく意識の中で、淳は理解した。
他人を救うときは、誰かの命が代償になる。
だが、身内を救うときは――
自分の中のその人が、代償になる。
世界は、そうやって帳尻を合わせる。
命には命で。
血には記憶で。
---
子供の頃、真希と一緒に雪だるまを作った記憶が、溶けていく。
頭が大きすぎる雪だるま。「兄さんの作る雪だるま、下手くそ」という笑い声。その声が、遠ざかっていく。
中学生の頃、真希の授業参観に行った記憶が、薄れていく。
教室の入り口で「来なくていいのに」と言った顔。帰り道の「ありがとう」という声。その声が、聞こえなくなっていく。
両親の葬儀で、真希の泣き顔を見た記憶が、消えていく。
待合室で肩を震わせていた姿。隣に座っていた自分。その場面が、白く塗りつぶされていく。
昨日、真希からのメッセージを見た記憶が、霞んでいく。
「兄さん、札幌にいるって聞いた」という文字。その文字が、意味を失っていく。
真希という名前が、意味を失っていく。
---
淳は叫ぼうとした。
だが、何を叫べばいいのか分からなかった。
目の前にいるのは、見知らぬ女だった。
若い女。コートを着ている。髪は肩まで。
この女は誰だ。
なぜ自分は、この女の腕を掴んでいる。
---
世界が動き出した。
音が戻ってきた。エスカレーターの駆動音。人々のざわめき。誰かの悲鳴。
目の前の女が、淳を見ている。体勢を立て直しながら、驚いた顔で淳を見ている。
「あの――」
女がそう言った。
「あなた、助けて……」
淳は女の腕を離した。
「あ――ああ」
淳はそれだけ言った。
女は怪訝そうな顔をして、淳を見つめていた。手すりが外れたエスカレーターの縁を見て、それから淳を見て。
「あの、どこかでお会いしました?」
淳は首を振った。
「いや。いや、知らない」
女は「そうですか……ありがとうございました」と言って、エスカレーターを降りていった。
淳はその背中を見送った。
---
女が見えなくなった後、淳はその場に立ち尽くしていた。
何かがおかしい。
何かが、決定的におかしい。
だが、何がおかしいのか分からない。
頭の中に、空白がある。
何かがあったはずだ。何か大事なものが。
だが、それが何か、思い出せない。
淳は立ち尽くしたまま、動けなかった。
---
その夜、淳はアパートに帰った。
6畳1間。風呂なし。トイレ共同。
布団を敷いて、横になった。
目を閉じても、眠れなかった。
頭の中で、何かが引っかかっている。
空白。
何かが、そこにあったはずだ。
淳は目を開けて、天井を見つめた。
天井には何もない。
淳の記憶にも、何もない。
---
3日が過ぎた。
淳は相変わらず地下街で清掃をしていた。
透明な人影は、見えなくなっていた。
5年間、毎日のように見ていた人影が、ぱたりと見えなくなった。
異能が消えたのか。
それとも、たまたま死に近い人間がいないのか。
淳には分からなかった。
---
4日目の朝。
淳は地下街の改札近くで、床を拭いていた。
始発の電車が動き始め、人がまばらに通り過ぎていく。
そのとき、視界の端で誰かがよろめいた。
女子高生だった。制服を着ている。鞄が重いのか、バランスを崩したらしい。
淳は反射的に手を伸ばした。
女子高生の肩を支えた。
「あ――ありがとうございます」
女子高生がそう言った。
「いえ」
淳は手を離した。
女子高生は頭を下げて、改札の方へ歩いていった。
---
淳はその背中を見送った。
何かを思い出しかけた。
誰かの名前。
誰かの笑い声。
だが、それは言葉にならないまま、消えた。
---
淳はモップを持ち直した。
手のひらを見る。
何も残っていない。
だが、この手は確かに誰かを掴んだ。
誰だったのか、もう思い出せない。
名前も。顔も。声も。
何も思い出せない。
だが、掴んだという事実だけは、手のひらに残っている。
淳は立ち上がった。
歩き始めた。
今度は、止まらなかった。
---
【了】
【短編小説1話完結】選択の輪郭 マスターボヌール @bonuruoboro
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