疲れたので、降りました。

福嶋莉佳

第1話

婚約破棄の理由は、あまりにも些細だった。


「リュシエンヌ。君は、いつも不機嫌そうだ。眉間に皺を寄せてばかりで、場が和まない」


ユリウス王太子は困ったように笑い、彼女の肩を抱き寄せた。


「もっと、可愛く笑ってくれればな。彼女のように」


リュシエンヌは瞬きをして、横に立つ令嬢を見る。

ふわふわのドレスに、砂糖菓子みたいな笑顔のマルティナ伯爵令嬢。


「嬉しいです……わたしを選んでくださるなんて…!」


「ほら、こういう明るさだよ――もっと努力してくれればよかったのに」

ユリウスは満足そうに頷いた。


その光景を見せつけられてもなお、

怒りも悲しみも、湧いてこない。

浮かんだのは、ただ一つ。


(……疲れた)


――それが、長年の婚約の終わりだった。





王宮の廊下を、ふらふらと歩く。

すると背後から、足音が近づいてきた。


王太子の近衛、アデル・グレンフォード。

平民出身で数々の功績により、

数年前に男爵位を与えられた人物だ。


政務の調整や社交の裏方を、

リュシエンヌと分担し、王太子を支え続けてきた。


彼は深く頭を下げる。


「……失礼いたします」


リュシエンヌは足を止めた。


「アデル。……殿下は、あの方と……いつから?」


アデルは一瞬、言葉を探した。


「……昨年の、冬のはじめ頃からです」


淡々とした声だったが、どこか申し訳なさが滲んでいる。


「リュシエンヌ様が……お忙しかった時期です。

 政務も式典も増え、社交の調整に追われていた頃……」


「私が……忙しくしていた時に……?」


「殿下は、慰めを求めておられたのだと思います。

 簡単に笑い、甘い言葉を返してくれる相手を」


「そう……」


「……これまで殿下がお務めを果たせたのは、

 あなたが裏で整えていたからです。

 人間関係も、揉め事も……」


「……」


窓に映った自分を見る。

目の下の隈。

張りつめた表情。


(誰のせいでこうなったと思ってるのよ)


今さら怒りが込み上げるが、顔には出さない。

妃候補として、感情を隠す癖だけは身についていた。


「こんな時にも、学んだことが離れないのね」


アデルが何か言いかけた、その前に。


「もういいの」


リュシエンヌは静かに首を振った。

それだけ告げて、彼の前を去った。





数日後、リュシエンヌは夜会に招かれた。

欠席すれば、あらぬ憶測を呼ぶ。

何を言われるかわからない――だからこそ、行かないわけにはいかなかった。


会場に入ると、すぐにアデルが近づいてくる。


「……あなたがいなかったから、準備は大変でした」


「そう……まあ、想像通りね」


「無理をなさらないでください。

 周りは、思っている以上に無神経ですから」


「……ありがとう」


そのとき、場を裂くように明るい声が飛んできた。


「リュシエンヌ! 来てくれたんだね」


ユリウス王太子が、新しい連れ――マルティナを伴い、にこにこと近づいてくる。


「君がいなくなって、ほんとうに大変だったよ」


ユリウスは周囲に同意を求めた。

貴族たちは笑って頷く。


マルティナは首を傾げ、甘い声でつけ足す。


「リュシエンヌ様がいらっしゃらなくなってから、

 皆さん少し、困っているみたいなんです」


王太子はうんうんと相槌を打った後、

思いついたように口を開いた。


「いっそのこと、君がアデルと結婚したらどうだ?

君の家は公爵家なんだし、

後継ぎにアデルを立てればいいだろう?」


リュシエンヌは、思考が追いつかないまま立ち尽くした。

何を言っているの、この人は。

怒りより先に、眩暈がした。


「え、あの近衛って元平民でしょう?」

「釣り合わないわ」

「公爵家? 冗談でしょう……」


周囲から囁き声が飛び交う。


どの声も、リュシエンヌを削っていった。


味方はいない。

誰も、助けてくれない。


リュシエンヌは、目の端でアデルを見た。

彼は固まったまま、視線で訴えていた。 


――断ってください。


「アデル……」


その目を見て、はじめて気づいた。


私を気遣い、

私の心を支えてくれたのは、

この人だけだった。


リュシエンヌは、ゆっくりと息を吸った。


「……お受けします」


ざわめきが走る。

アデルの目が見開かれた。


「よかった!」

ユリウスは満足そうに笑う。


リュシエンヌは、にっこりして続けた。


「ただし、わたくしが嫁ぎます」


「……え?」


間の抜けた声が、いくつも重なった。

周りの人々は、笑顔を浮かべたまま沈黙した。


アデルは言葉を失い、彼女を見つめた。


「本気ですか……?」


「本気よ。……あなたは、嫌?」


一瞬の沈黙のあと、アデルは答えた。


「……いいえ。

 私には、過ぎた話です。

 それでも――あなたが望むなら」


リュシエンヌは目を細めた。


差し出された彼の手を取り、

その場に残された人々を後にした。





それから彼女は、王都を離れた。


実家のことは、すでに片がついていた。

後継は王命で定められているから、心配はない。


アデルの家に嫁ぎ、地方の小さな領地で暮らす。

華やかさはない。


「それがいいのよ」


紅茶を飲みながら、リュシエンヌは笑った。


「夜会ばっかりで、正直しんどかったもの。もうこりごり」


隣には、アデルがいる。

アデルは近衛を退き、迷うことなく一緒に領地へ来てくれた。


机の端には新聞が置かれていた。

王都から届いたものだ。


見出しには、

『王太子ユリウス失脚』と書かれている。

回らなくなった公務。

噴き出した不正と失策等々……。


リュシエンヌは新聞を畳んだ。


アデルが、こちらを見る。


「……後悔は、ありませんか」


「あるわけないでしょう」


リュシエンヌはカップを持ち上げ、紅茶の香りを吸い込む。


「こうして、誰かと紅茶を味わえる。

 それだけで、充分よ」


アデルは、口元を緩めた。

そして、ほんの少し距離を縮めて座り直す。


「……では、これからも」


リュシエンヌは微笑んで、頷いた。


私にはこれで充分だ。

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疲れたので、降りました。 福嶋莉佳 @shiu-aruma

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