第1話 木の上の子猫と、降りられない僕
放課後の神社は、いつもより静かだった。
夕陽が鳥居の端を淡く染めて、石畳に長い影を落としている。
風が吹くたび、古い木々がざわりと揺れて、
枝と枝が触れ合う乾いた音だけが、耳に残った。
人の気配はほとんどない。
境内の空気はひんやりしていて、
昼間の喧騒が嘘みたいに思えるほど静かだった。
「……降りられへんのか」
俺は、見上げたまま小さくつぶやいた。
高い枝の上で、小さな子猫が震えている。
白い毛が夕陽に照らされて、かすかに光って見えた。
「にゃ……」
弱々しい声が、枝の隙間からぽとりと落ちてくる。
まるで助けを求めるみたいに、細くて震えていて、
胸の奥をぎゅっと掴まれるような音だった。
「……にゃ……」
もう一度、小さな声。
夕陽に照らされた白い毛が、かすかに揺れている。
助けたい。
今すぐ抱きしめて、安心させてやりたい。
でも――
俺の手じゃ、どうやっても届かない。
木の幹に触れてみても、
表面はざらざらしていて、どこに足をかければいいのか分からない。
登ろうとしたところで、途中で落ちる未来しか見えなかった。
木登りなんてしたことがない俺は、
ただ見上げるしかなかった。
風が吹くたび、枝が揺れて、
子猫が不安そうに身を縮める。
そのたびに、俺の心臓も一緒に縮む。
「どうしたらええんやろ……」
思わず漏れた声は、
自分でも驚くほど弱々しかった。
情けない。
助けたいのに、何もできない。
手を伸ばしても、空を切るだけで、
子猫との距離は変わらない。
夕陽が沈みかけて、影が長く伸びていく。
このままじゃ、暗くなる。
暗くなったら、もっと怖い思いをさせてしまう。
焦りが胸の奥でじわじわ広がって、
どうしようもない無力感が押し寄せてくる。
そのとき――
背後から、風とは違う気配がふっと近づいた。
「……どいて」
その声は、まるで木漏れ日の影が落ちてきたみたいに、
ふいに、すっと俺の耳に触れた。
背後から落ちてきた声は、
驚くほど低くて、淡々としていて、
でもどこか優しかった。
冷たさと温かさが同時に混ざったような、不思議な響き。
風が吹いたのかと思うほど自然に、
その声は俺の背中を通り抜けた。
まるで、最初からそこにいたみたいに。
「え……?」
思わず振り返る。
夕陽が差し込む境内の真ん中に、
制服のスカートを揺らしながら、
ひとりの少女が立っていた。
風が彼女の髪を少しだけ揺らす。
短めの髪は、手ぐしで整えたような無造作さで、
でも妙に似合っていた。
目つきは鋭いのに、どこか眠たげで。
まっすぐ俺を見ているようで、
でもどこか遠くを見ているようでもある。
女の子らしい雰囲気は、正直あまりない。
スカートを履いているのに、
立ち姿はどこか男の子っぽくて、
肩の力が抜けていて、
“慣れてる”感じがした。
けれど――
不思議と目が離せなかった。
「えっと……危ないですよ。落ちたら――」
俺が言いかけると、
少女はほんの一瞬だけ視線をこちらに向けて、
淡々とした声で言った。
「平気」
その一言が、
まるで境内の空気を切り替えたみたいに響いた。
強いわけじゃない。
でも、迷いがない。
そんな声だった。
少女は俺の言葉を遮るように、
すっと木の方へ歩き出す。
その歩き方も、
まるで風が通り抜けるみたいに静かで、
でも迷いがなくて、
見ているだけで胸がざわついた。
「ちょ、ちょっと……!」
止める間もなく、
少女は木に手をかけた。
その瞬間、
俺の中の時間が一瞬止まった気がした。
目つきは鋭いのに、どこか眠たげで。
髪は短くて、動きやすそうで。
女の子らしい雰囲気は、正直あまりない。
でも、不思議と目が離せなかった。
「危ないですよ。落ちたら――」
「平気」
その一言だけ残して、
少女は木に手をかけた。
その動きは、迷いがなくて、
まるで“いつものこと”みたいに自然だった。
次の瞬間、
するすると、まるで風みたいに登っていく。
枝の間をすり抜けるように、
軽やかで、静かで、速い。
「……は、早……」
俺が呆然と見上げている間に、
少女は子猫のところまで到達していた。
子猫は少女の姿に驚いたのか、
小さく鳴いて身を縮める。
「大丈夫。噛まない」
少女はそうつぶやくと、
そっと子猫の体を抱き上げた。
その手つきは驚くほど優しくて、
さっきまで鋭かった目が、
ふっと柔らかくなる。
そのギャップに、胸が少しだけ跳ねた。
少女は枝を蹴って、
軽い音を立てながら降りてくる。
その姿は、まるで木の一部みたいに自然だった。
「ほら」
地面に降り立つと、
少女は子猫を俺の方へ差し出した。
「行こ」
子猫に向かって言ったその声は、
さっきより少しだけ柔らかかった。
降りてきた少女から子猫を受け取ると、
その温かさと同じくらい、
少女の存在が胸に残った。
「ありがとうございます。本当に……助かりました」
丁寧に頭を下げると、
少女はそっけなく言った。
「……別に」
でも、耳が少し赤い。
なんや、この子。
「……あんた、何者なんですか」
気づいたら口から出ていた。
少女は一瞬だけ瞬きをして、
短く答えた。
「私、朝比奈朔」
それだけ言って、歩き出す。
名前だけ残して、
風みたいに去っていく。
慌てて声をかけた。
「……怪我、してませんか」
少女――朔は、少しだけ目を見開いた。
「……してない。ありがと」
その“ありがと”が、
妙に胸に残った。
まるで、
夕陽の色が心の中に落ちてきたみたいに。
不器用な私に、君が教えてくれたこと aiko3 @aiko3
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