優しい人たち

上月遥斗

優しそうな人間は、だいたい危ないのだ。

 俺がそういう奴らにボコボコに殴られて必死で逃げてゴミ捨て場に倒れ込んだのは、東京に雪が降った寒い日だった。雪が降ったといっても積もるほどではなく、ビルの間から見える真っ暗な空に白がチラホラと舞う程度のものだ。

 それでもそれは、なにもかもがどうでもよくなった俺の目にはやたらと綺麗に映った。視界に入り込む汚いゴミ袋を無視すれば、最高に綺麗だった。

 どうしてこうなったんだろう。自問自答してみるも、返ってくる答えは自業自得という単語だけで、自分が馬鹿だから馬鹿なことをして放り出された、という事実だけだ。

 寒さが殴られた傷に沁みるような気がした。腕を上げてみればだるくて重い。ゆっくりと額の端に触って離すと、指先にはべたりと血が付いていた。痛い。血を見ると痛みは増して、ふがいなさに悲しくなってきて、泣きそうだ。腕を雑にゴミ袋の上に落としたら、生ゴミの詰まった袋だったらしい。生臭い冷たい空気が顔にぶち当たってきて、さらに泣きそうになった。

「ねえ、何してんの」

 急に降ってきた声は低く、男のものだった。腕と同じにだるくて重い頭をやっと動かしてそちらを見ると、長身の男が真っ赤な傘をさしてこちらを見下ろしていた。

 何を言えばいいのかわからずに黙る。何をしていると問われても何もしていないし、こうなった経緯をこの見知らぬ人に話してもどうにもならない。するとまたその人は俺に問う。

「怪我、酷そうだから声かけた。今日寒いし、ここで寝たら凍死するよ」

 続けて問われる。動く気はある? 首を縦に振って答えた。さすがにここで死にたくはない。じゃあその怪我で動ける? 脚はそこまで痛まない。歩くことはできそうなのでこれにも頷いて返す。

「それなら良かった。帰る家はある?」

 俺は、帰る家が無いように見えたのだろうか。

 あらためて男に目を向けると、吸い込まれそうな黒い目がこちらを見ていた。ゆるく巻いた少し長めの黒髪と、うっすらと生えた髭、男として羨ましい容姿だ。

「……もしかして帰る家はない?」

 頷く。男は俺のそばにしゃがみこんで、目線を合わせてこちらに手を伸ばしてきた。

「嫌じゃないなら俺の家で、この怪我の応急処置ぐらいはしてあげられるけど、どうする?」

 優しく怪我に触れられて、優しく甘い声で問われたので、俺はうれしくなってしまって、何も考えずにそれにただ返事を返した。犬が飼い主にするように。

「ハイ」

 声に出したのは人間のお返事だが心の中ではワンだった。

 馬鹿な犬はすぐにしっぽを振る。


「おお、起きた。おはよう~」

 目を覚ました俺の視界に飛び込んできたその男は、ゆるく上がった口角と優しい声と目で、俺の目の前でひらひらと手を振って見せた。

 誰だ。寝起きの思考が混乱してそれからクリアになっていく。昨日俺を拾ってくれたあの人とは違う人間だということ、でも俺にとって悪い人ではなさそうであるということ、それを理解していく。

「えっと、あなたは、昨日俺、黒髪の髭の……」

「あ、おれは昨日のあいつの同居人ね。あれはもうお仕事に行きました。君のことは聞いてるから。ごはん食べさせてあげるね」

 その人はそう言うと、俺から離れてキッチンに立つ。ごく一般的なマンションの部屋。俺はリビングのソファに寝床をもらっていたので、キッチンに立つその人の背中を寝そべったまま見つめていた。

 昨日の彼に比べて細身の、柔和な面差し。手際よく何かを刻む音が心地よくてまたうとうとしてしまう。意識が沈みそうになるのを耐えていると、良い香りが鼻を刺激してきた。

「嫌いな食べものはある?」

「あ……ないです」

 そんなことまで聞いてくれるのか。この人も優しい人なんだ。優しい人は優しい人と集っているのか。だから俺とは出会わないんだ。

 ぐるると自分の腹が鳴った。この香りはなんだろう。

「起き上がれそう?」

「あ、すみません、手伝いもしないで」

「いいよ、怪我人なんだし、お客様みたいなもんだし。というか何で怪我してんの? ゴミ捨て場で拾ったとか言ってたけど」

「それは……仕事でやらかして、センパイに怒られて、殴られてしまって、そのままあそこに」

「へえ、そんな先輩いんの? 上司に相談するなりなんなりしたほうがいいんじゃない」

 ごもっともです、と半笑いで答えつつテーブルに着く。

「どーぞ朝ごはんです。あれ、やっぱ君汚いな。先にお風呂入れたらよかった。おれこのあとちょっと出かけなきゃいけないんだよね。つってもさすがに風呂の使い方わからんとかはないか」

 畳みかけるように言われて少し引く。そして俺が風呂まで入っていく前提なのかと面食らう。

「見ず知らずの男を家に一人にしていいんですか……。俺が悪人だったら、盗めるだけ盗んで逃げるかもしれないですよ」

「ええ、そんなことすんの? それは困るからしないでくれる?」

 あまりにも返答が軽い。俺は昨日あなたの同居人が気まぐれで拾ってきただけの男のはずだ。

「あいつが言ってたからさ、君が帰る家がないって言ってたって」

 あ、そういえば昨晩その問いに頷いたんだった。確かに、帰りますとここを出ても帰る家はない。

「まあまあまあ、いいんだよ、君がなんでも。悪いことしないでくれたらさらに良しだよ。とりあえずごはん食べて、それからゆっくりお風呂に入ってきなよ」

 テーブルにはつやつやの白米と味噌汁、焼き鮭と、朝食の定番がおいしそうに並んでいる。また腹が鳴った。

「おれはその間に用事済ませてくるからさ」

 どうぞ食べてと手で促される。並べられた箸を手に取って、いただきますと手を合わせる。

「そんでさ、おれが帰ってきて、あいつも帰ってきたら、三人でセックスしよう」

 口の中の鮭の骨、飲み込むかと思った。俺はよく言う鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているんじゃないだろうか。彼は目の前で変わらず優しく笑っていた。何でもないことのようにそれをしようと言った。

「君は女の子にするみたいに、俺たちに入れるだけでいいから。嫌なら嫌でいいし」

 食べ終わったら流しに食器付けておいてね、お風呂は溜めていくから入ってね、タオルと着替えは置いておくからね、言いながら彼は立ち上がって準備をサッと済ませて、出かけてしまった。

 お世話の代償に、ということでもなさそうだった。セックスしなくてもあの人は俺を追い出すことはしないだろう。ここにいるついでに、できれば、みたいな軽い言い方。男性を相手にしたことはないから、上手くできるだろうか。といっても入れる側なら、性別でそんなに変わるものでもないか。

 どうしてあの人はそれを俺に求めたんだろう。


 帰宅した彼らから甘い声でどうする? と問われる。俺はまたワンと返事をして、彼らを抱いた。気持ち良かった。


 二人は俺に優しくしてくれた。

 あたたかい家に置いてくれて、あたたかいごはんを作ってくれて、至れり尽くせり。やはり何か見返りを求められるのではと怯えていたが、求められたのは身体だけだった。身体を求められるというのはつまり、俺にとっても気持ちの良いことであるので、逆に尽くされているような気すらした。男同士のあれそれは経験が無かったのに、交互に二人の相手をしているうちにすぐ慣れた。二人の良いところも覚えた。二人の身体を喜ばせることは楽しかった。セックスすれば君は可愛いねと撫でられて、俺はうれしかった。


 ある日、二人は俺の目の前でキスしてみせた。二人はどちらも俺とする時とは違う顔をしていた。

「おれたちはたぶん恋人というやつで、愛し合ってるんだけどね」

「……俺ら、残念ながらどっちもネコだから」

「後ろ欲しくなるんだけど、お互い入れんのはどうやってもうまくいかなかったんだよ。道具も味気なくて駄目でね、だから」

 だからたまに元気で健康そうな男の子を拾ってきて、こうやって遊ぶんだよ。俺の腹の上で揺れながら言うその人に、そんな危ない遊びしないほうがいいですよと言いながら、下から突き上げてやる。

 どうしようもなく愛し合っているのに何もかもが一致するわけではない。補うためのパーツが必要で、それが偶然道に落ちていた。拾うだろう。使い捨てなのかは、明日起きたら聞いてみよう。少しは愛着を持って使ってくれているんだろうか。犬じゃなくてパーツだったんだ、俺は。


 この人たちが、ここにいるか帰るかは君が決めていいと言ったとき、俺は出ていくべきだったのかもしれない。どこか遠い土地に消えたほうがよかったのかもしれない。真っ当に生きていく、最後のチャンスだったのかもしれない。

 でも俺はそれをしなかった。センパイがどこまでも追いかけてきて、俺を殺してしまうだろうということをわかっていたから。組に不利益をもたらした俺を、センパイはどうやったって見つけ出して殺すだろう。

 センパイにとってもこの人たちにとっても俺は何かのパーツで、なくなっても何も問題のないものだった。


 リビングのソファで目を覚ます。優しい人に拾われたあの日と同じ景色だ。おいしそうな香りの代わりに、鉄の臭いがする。センパイが来ているのかもしれない。

 あの二人は優しかった。あの二人とするセックスは、気持ちが良かった。

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