聖餐

胤田一成

聖餐


 一、


「こんな死体、見たことあるか?」鑑識班がカメラのシャッターを狂ったように切っている。刑事部捜査一課に所属するカジハラ・トキオ警部補の青白い顔がフラッシュのまたたく度に暗がりに浮かび上がる。ただでさえ、不養生ふようじょうな顔色は光線と陰影のせいで余計に幽霊じみた様相を呈している。もっとも、彼の気分が優れないのも無理からぬことでもある。それほど、事件現場は凄惨を極めた状況であったからだ。「被害者は三十代の女性。肉体の七割相当が失われているらしい。まともに残っているのは頭部だけだ。まあ、その死に顔も普通じゃないんだが――」

 川崎市かわさきし宮前区みやまえくの派出所に通報があったのは十二月二十四日のクリスマス・イヴのことであった。当初、交番に詰めていた巡査は「隣家から異臭がする」という訴えを本気で取り合おうとはしなかった。

 カワサキ・シティはお世辞にも治安の良い街とは言い難い。無法者アウトロー浮浪者ホームレスがしょっちゅう争いを起こし、マネーを求めて渡航した違法入国者、あるいは違法滞在者が徒党を組み、らんさわぎしても黙殺もくさつされてしまうことすらある。が、今夜は事情が違ったらしい。「ただちに調べないと近隣住民総出で県警に訴える」と鼻息を荒くした民衆になかば脅されて、巡査は渋々ながらも重い腰を上げたわけである。

 とは言えども、この巡査は疑いようもない功労者でもある。彼は現場に到着するなり、辺りに漂う異様な臭気が死臭であることを察した。じゃみちへびというが、彼はあらゆる意味合いを含めて、カワサキ・シティにおけるであった。

 巡査の行動は迅速じんそくかつ適確てきかくだったと言えよう。カナガワ県警察本部に応援を求め、然るべき措置そちを講じた上で腐敗臭の源である民家に踏み入った。が、彼はこの初動を深く後悔することになる。家屋の中はさながら地獄のごとしであったからだ。

「欠損したは珍しくないが、パーツが冷蔵庫と台所で見つかったとなれば話が別だ。鑑識班の見解では高度な医療処置がほどこされているらしい。しかも、この死に顔ときた――どう思うね。アマリ警部補?」

 天蓋付てんがいつきの豪奢ごうしゃなベッドに横たえられた死体を仔細しさいに観察している相棒の意見が聞きたくて、カジハラは声を落として尋ねた。アマリ警部補は死体を指差して毅然きぜんとした口調で言う。

「状況をかんがみると被害者は食べられていますね。それも、外科的に治療までされている。生きながらにして、ちょっとずつ切り裂かれていったのだと思います。必要な分だけ、食べられる量だけ、丁寧に切り取られていったのでしょう。それは間違いないはずだ――が、彼女の表情だけはせない。どうやったら、こんな死体を作れるんだ?」

 死体は笑っていた。この上なく幸せそうに。想像を絶する痛みにさいなまれながら彼女は命を落としたに違いない。が、この死に顔は全ての状況を否定していた。被害者の表情は明らかによろこびを訴えている。現場に踏み込んだ警察官らは少なからず動揺した。初動捜査に当たった巡査など真剣に辞職を考えたほどだ。現場は静かではあるが確実に混乱していたと言えよう。

「オーケー。現段階で判明している事実を整理してみよう」カジハラはポケットからキャメルを一本取り出して指でもてあそび始めた。無論、事件現場でタバコに火をともすつもりはない。これは彼の悪癖あくへきである。思考が滑らかになるとカジハラは言うが、誰も信じていない。アマリに至っては軽蔑すらしている。「被害者の身元は存外早く確認できた。女性の氏名はアオバ・カオル。年齢は三十二歳。三ヶ月前に捜索願が両親から提出されている。大手医療企業の令嬢らしい」

「すると、この住宅も被害者の所有ですか?」

「いいや、違うな。この家屋を賃貸ちんたいしている主はヤナグラ・リョウという男だ。どうやら、アオバ令嬢の交際相手だったらしい。彼女が失踪した後、調査という名目で所轄しょかつが何度か訪問している」

「この地区を所轄しょかつしている警察署にしては仕事が早いですね。まあ、その際に異常を見落としたのは彼等らしいが――ヤナグラの居所は?」

「現在、捜査中だ。現場には生活痕せいかつこんも残っているし、ヤナグラの容疑は確定しているみたいなもんだ。不快な事件だが、意外にも解決は早いかも知れない」

 カジハラが楽観しているのに反して、アマリは事件が難航するだろうと直感していた。死体が笑っている理由に関して、カジハラは無意識に言及をさけようとしているらしい。臭いものにふたを……という思考が通用する事件ではないかも知れないとアマリは危惧きぐしていた。ヤナグラの背後には巨悪が潜んでいる可能性も十分にあり得る。令嬢の死体は専門家プロフェッショナルが関与していることを示しているからだ。

「組織的な犯罪である可能性も捨て切れません。死体は外科治療をほどこされているし、何よりも笑っているという事実が気になります」

 カジハラはもてあそんでいたタバコを唇にくわえると、歯切れの悪い意見を述べ始めた。これも彼の悪癖あくへきである。立場が危うくなるとカジハラは決まってタバコを頼りにする。

「医者、医学生、落第した医大生。あるいは屠殺人とさつにんか皮職人を引っ張って来いとでも言いたいのか。それじゃ、切裂きジャック事件を担当したスコットランド・ヤードと同じだ。外科治療に件が気になるなら令嬢の父親に尋ねてみろよ。素人しろうとでも扱える医療装置メディカル・デバイスの販売をしているらしい。死に顔については検死官の判断をあおごうじゃないか」

 カジハラの見解は苦しいものがある。が、アマリはえて追及しないことにした。この血色の悪い男の意見をつつき回してところで事態が好転するわけでもない。それに、カジハラは幽霊じみた容貌にたがわず粘性の気質をしている。ある程度の嗜虐趣味しぎゃくしゅみは警察官にとって有益でさえある。実際、何人もの凶悪犯がカジハラの粘性な嗜虐心しぎゃくしんによって陥落かんらくさせられている。彼の不興ふきょうって面倒事を増やしたくない、アマリは判断した。

 さて、そろそろ現場を後にしようと二人の警部補が話し合っている最中さなかに事態は急転することになる。事件発覚から四時間後、同地区のスーパーマーケットでヤナグラ・リョウが確保されたという連絡が届いた。警邏けいらを担当していた警察官らは混乱していたと後に弁解している。

《十二月二十四日、午後十時四十分。ヤナグラ・リョウの身柄を確保しました。コートのポケットにを隠していました。はい、何度も言わせないでくださいよ。です。糞ったれが!》





 二、


 ヤナグラ・リョウの経歴は判然としない。少なくとも、県警本部の外部記憶装置ライブラリイには情報が登録されていない。駐車違反の経験さえない住民は、この街ではかえって珍しい。

 捜査当局は前時代的な方法――事情聴取や現場検証など――によってヤナグラの経歴を洗い出そうと努めた。が、ある程度まで確信に迫ると何かしらの齟齬そごが生じる。「鑑取班かんどりはんは透明人間を相手にしているらしい」という揶揄やゆが県警本部でささやかれるほどにヤナグラは無個性な男性であった。

 現在、警察が把握している事実はわずかである。被疑者の氏名はヤナグラ・リョウ。彼は三十五歳の男性で、フリーランスのシステム・エンジニアを生業なりわいにしているらしい。が、職業に関しては確かな情報ではない。

 交友関係は狭く、ほとんどないに等しい。実際、ヤナグラは被害者であるアオバ令嬢を除いて人間界との接点を持っていないほどの厭世家えんせいかだった。鑑取班かんどりはんの仕事が難航する理由もここにある。極端なほど情報源が乏しいのだ。

 抑々そもそも、二人は本当に交際していたのかといぶかしむ者も少なくない。捜査方針を根本から否定する間歇的意見かんけつてきいけんではあるが、まず情報が枯渇こかつしているため、これを説き伏せようという者があるはずもない。

 もっとも、ヤナグラが犯人であることは疑いようがない。惨劇が行われた家屋からは生活痕せいかつこんが見つかっているし、何よりも身柄を確保された際に、彼は致命的な物証を所持していた。である。この事実ばかりはくつがえしようがない。

 拘留中のヤナグラは容疑を否認せず、黙秘を続けている。その意味深長な態度が犯行を逆説的に是認ぜにんしていると言う者も多い。この先の仕事は御上おかみに任せて、さっさと送検すべきだという意見も上がり始めているほどだ。

 カジハラ警部補は強弁な送致派そうちはの筆頭であった。ヤナグラを尋問した警察官は三人いるが、彼もそのうちの一人である。カジハラは粘性の嗜虐心しぎゃくしん遺憾いかんなく発揮し、被疑者を厳しく糾弾きゅうだんしたのだが、特筆すべき成果は得られないまま尋問官を降板している。

 ヤナグラの黙秘はかたくなだった。手を変え品を変え、関心をこうとしたが、暖簾のれん腕押うでおしで手応えがない。ついには彼の知能を疑う警察官も現れる始末である。捜査は遅々として進まない。ごうやすやからがいても無理からぬ状態であった。

「アマリ警部補、で食事するつもりはないか?」本部会議室で束の間のコーヒーブレイクをたのしんでいた相棒に、カジハラが沈んだ声で尋ねた。彼はこの事件の解決を諦めつつある。警視庁、あるいは検察庁に全てをゆだねたいとさえ考えている。が、事件の背後に組織犯罪が関与している可能性を唱える者もわずかにいる。アマリ警部補がその一人だった。彼はカジハラが言う符牒ふちょうを察した。「毎日、御馳走ごちそうを食べていると飽きてくるもんだ。そろそろ、妻の料理が恋しくなってきた――」

 途端、アマリの額がかげった。カジハラは自身の発言が迂闊うかつだったことを恥じた。アマリは五年前に妻と離婚していた。今は娘と二人で暮らしているが、その子も健康を崩しており、入院生活も久しいらしい。家庭を彷彿ほうふつとさせるような話題は避けるべきだった。カジハラは自身の無神経をび、いでアマリの娘の容態を尋ねた。

「正直に言うと思わしくないです。本来ならば、もっと一緒にいてやるべきなんでしょうが――自分は良い父親にはなれそうにないです。ならば、せめて良い警官でありたいと思います。さあ、ヤナグラの取り調べを始めましょう。これがラスト・チャンスです」

 事件発覚後、十日が経とうとしている。報道陣も痺れを切らしている頃合ころあいだ。これ以上、箝口令かんこうれいいても、いずれほころびが生じるに違いない。全てが瓦解がかいする前に決着させなければならない。アマリはマグカップをデスクに置くと、凶悪犯と対峙たいじすべく頬を叩いてみずからを奮い立たせた。

 なぜ、死体は笑っていたのか――アマリにはどうしてもせない。検視官いわく、「違法な薬物が投与された痕跡もなし」と。

 もっとも、令嬢の遺族に反対されて詳細な解剖は行われていない。死体の損壊具合をかえりみれば、彼等の訴えたいところも分かる。「これ以上、娘を切り刻むことは許さない」と言いたいのだろう。アマリも人の親である。遺族の心境は痛いほど理解できた。だからこそ、ヤナグラ・リョウから聞き出さなくてはならない。どうやったら、あんな死体を作れるのか、と。

 




 三、


 被疑者と二人きりにしてほしい――という申し出をカジハラは初めこそ認めようとしなかった。が、アマリは食い下がった。すでに失われた信頼関係リレーション・シップを取り戻すことは難しい。改めて築き上げるほど猶予も残されてない。報道陣も警察組織に疑心を抱き始めている。わずかでも可能性があるなら追及するべき時だった。結局、カジハラは相棒の訴えを聞き入れた。彼を説得するために少なくない労力を要したことは言うまでもない。

 伽藍堂がらんどうな部屋に一人の男が席に着いている。この男がヤナグラ・リョウなのかとアマリ警部補はいぶかしむ。恋人を食べるためになぶり、ちょっとずつ肉を切り取って調理していった男なのか――納得できるような、できないような奇妙な印象をアマリは抱いた。

 ヤナグラは肥満していた。それもでっぷりと。身の丈はアマリと大差ないのだが、恐らく体重は倍以上あるだろう。しつらえられた机と椅子が肉に埋もれて小さく見える。手に掛けられた電子錠と腰に回された電気縄もひど窮屈きゅうくつそうだ。確かに令嬢の交際相手に似つかわしいとは言い難い。不審と言えば、その通りである。が、アマリの認識はじきくつがえることになる。

「やあ、君のことは知っている。あの幽霊みたいな刑事から聞いた」取調室とりしらべしつに入るやいなや、ヤナグラが話し始めた。アマリは意外な展開に少なからず動揺した。が、同時に留飲りゅういんが下がったような心境になった。彼の声は美しいバリトンだったからだ。令嬢がかれた理由が分かった気がした。「ようやく、会話の通じる相手がやって来た。僕に尋ねたいことがあるんだろう?」

 アマリは内心で舌打ちした。カジハラが何を話したかは知らないが、彼の粘性気質が捜査の足枷あしかせとなっていたことは明らかだ。これからの仕事の邪魔にならなきゃいいが――とアマリは懸念けねんせずにはいられない。

「まあね、令嬢を殺したのは君か?」椅子を引きながらアマリが問い掛けた。までも、今朝の日和ひよりについて尋ねる程度にあっさりと。案の定、ヤナグラはこの質問に答えようとしない。ただ、ボタンのようにつぶらな目でじっと見つめるばかりである。「ご存知かもしれないが、我々には余り時間が残されてない。だから、単刀直入に聞こうと思う」

「それはダメだ。君達の都合など知らないし、僕は自身の信念に従って発言する。時間がないなら質問の内容をよく吟味ぎんみしたまえ」

「――これまでの取り調べで不快な思いをさせてしまったのなら謝る。が、これは君のためでもあるんだ。真実を話すべきだ」

「何が自分のためになるか。あるいは何を話すべきかは僕が判断することであって、君に指示されたくない」

「オーケー、君の意志を尊重しよう」これは厄介なことになった、とアマリ警部補はほぞむ。どうやら、度重なる尋問によって信頼は完全に失われたらしい。この貴重な時間を無為に費やしてはならない。まずはここからか。「アオバ令嬢とは交際してたんだよね?」

「無論だ。僕達は愛し合っていた。僕に足りないものを彼女は持っていたし、彼女に欠けていたものは僕が備えていた」

「じゃあ、どうしてあんなことを……恋人を食べようとしたんだ?」

「それは逆だよ。愛し合っていたからこそ食べたんだ。Androgynosアンドロギュノスの神話だよ。全く満ちた人間とは球体を目指すべきなんだ。僕達は欠落した部分パーツあるいは因子ファクターを補完しようとしたまでだ。愛し合っているならば、一つになりたいと願うならば、食べるべきだ」

 脳髄を痺れさせるような蠱惑的こわくてきな声でヤナグラは言う。これが彼の妄言でなければ、令嬢は食べられることを望んでいたらしい。カジハラ警部補が苦し紛れに述べた意見が真実味を帯びてきた。大手医療企業の令嬢ならば、高精度な医療装置メディカル・デバイスを手配することは容易たやすいだろう。では、彼女が笑顔だった理由は――。

「令嬢の肉体から薬物は検出されなかった。どうやったら、あんな死体は作れるんだ?」

「愛による営みには常によろこびが伴わなければならない。一方通行じゃいけないんだ。彼女にもよろこんでほしかった。君、『時計じかけのオレンジ』という映画を知っているか?」

「スタンリー・キューブリックの古典映画クラシック・フィルムだろう。質問に答えてくれ」アマリは机に身を乗り出して尋ねた。どうしても疑問を明らかにしたかった。そうしなくてはならない事情が彼にはあった。「どうしても、死体の秘密を知りたいんだ」

 ヤナグラは手錠の掛けられた腕を上げた。ボタンのように真っ黒な目の奥に光は一切ない。(この男の正体は食人鬼なのだ)とアマリ警部補は今になってさとった。ヤナグラは掲げた両腕を突き出して言う。

「僕をここから解放してくれないか。そうしたら秘術の仕組みを教えてあげよう」





 四、


「ここは県警本部だぜ。逃げ切れるとは思えない」アマリ警部補は声を低くして言う。全く正気の沙汰さたとは思えない。が、彼は早くも脳裏のうり算盤そろばんを弾き始めてもいた。ヤナグラを逃がすことにより失うであろう地位、あるいは財産は計り知れない。また、この肥満した男が首尾しゅびよく陣中じんちゅうだっすることができるかはなはだ疑わしい。「上手く逃げおおせても四面楚歌であることに変わりはない」

 縦令たとい、ここで拘束を解いたとして勝率は限りなくゼロに等しいのではないか――と言い掛けていることに気が付き、アマリは密かに戦慄せんりつした。この男の進退など本来ならば自分には関係ないはずである。が、いつの間にかヤナグラの立場をおもんばかっている自分が存在している。(きっと、この声のせいだ)とアマリは思う。ヤナグラの声はまぎれもない毒であった。世間知らずの令嬢を殺すことくらい容易だったに違いない。

「――君、人間の霊魂は肉体のどこに宿ると思う?」

 ヤナグラのよどみ沈んだ瞳に刹那せつなの光がともったのをアマリは見落とさなかった。宗教ではなく科学を信仰しているアマリにとって、霊魂とは脳神経間で発生する微弱な電気反応による副産物に過ぎない。そこに不思議は一切ない。脳髄が生み出した幻影こそが霊魂の正体だとアマリは考えていた。

「古くさい考え方だと思うが、僕は《心臓ハート》に宿ると信じている。脳髄は多少の化学物質によって容易に騙されるが、心臓は鼓動し続けるという点において独立している。心臓こそ生命をつかさどる神聖な肉だ」

「何が言いたいのかさっぱり見当が付かないのだが、どうしたらいいんだ?」

「簡単な話だ。この手錠と腰縄を外してくれ。その後のことは一切心配してくれなくていい。僕は彼女の心臓を食べそこなった。あの夜、やり残したことを完遂かんすいするつもりだ。後始末は自分でするから安心してほしい」

「だが、君を解放すれば僕は全てを失うことになる。警察官としては致命的だ」

「あの幽霊じみた刑事が言っていた。君は彼女が笑いながら死んだことに執心しているらしいね。僕の無茶な要求を退けないくらいだから、個人的に関心を抱いているのだろう。君が何を企んでいるのかは知らない。が、全てを失ってでも謎を解かなくてはならない事情があるのだろう」

 この男は心の隙間にすべり込もうとしている――と理解していながら、アマリは身をゆだねたいという誘惑にあらがい切れないでいる。病院のベッドに繋がれた娘の痛ましい姿が脳裏のうりよぎる。彼は良き警官であるよりも、良き父親であろうと決心した。

「私には娘が一人いる。彼女は小児癌しょうにがんわずらっていて長くは生きられない。随分ずいぶんと頑張ってきたんだが、ついに余命を宣告されてしまった。自分は良い父親ではなかったが、彼女の苦痛を取り除いてやれるなら、全てを失ってもいいと考えている。教えてくれ――あの令嬢は苦しみながら死んだのか?」

 カジハラ警部補が後十五分も経てば取調室とりしらべしつに到着するはずだ。そうなれば、謎を解き明かす機会は永遠に失われるだろう。アマリ警部補の娘は病魔にむしばまれながら苦痛の中で死ぬことになる。が、ヤナグラは沈思黙考にふけっているらしく、いたずらに時間ばかりが過ぎてゆく。これまでか――と諦めてアマリが席を立とうとした時分になって、ヤナグラがにわかに供述を始めた。

「彼女の遺体から薬類が投与された痕跡は見つからなかったと言っていたが、それは君達が見当違けんとうちがいな細胞を検体にしているからだ。薬品は確かに使用された。無論、粗末チープ違法薬物ドラッグじゃない。

 その薬は視神経を経由して視床下部にまで至り、ドーパミンに作用するA10神経系に浸透するようになっている。刑事、薬品の正体は点眼液なんだよ。『時計じかけのオレンジ』で言及されたルドピコ療法と同じ原理だ。A10神経系を刺激することで脳内報酬をうながすのさ。つまり、――僕達はそういう薬を発明した。

Lacrimaラクリマ delloデッロ Spiritoスピリト(霊の涙)》と僕達は呼称していた。いいかい、名前が需要なのだ。そう、涙だよ。検体とすべき細胞があるとしたら眼下組織だ」

 令嬢の亡骸なきがらは警察病院の死体安置所モルグに預けられているが、遺族に反対されて詳細な検査をほどこされないまま保管されている。ほとんど触れることを許されていないのに、眼下組織を検体にしようと思い至る者があるはずもない。被害者は処女性ともいえる不可侵の領域で堅牢けんろうに守られていた。彼女の清廉せいれんを疑うことは、ある種の禁忌タブーでさえあったのだ。無力を噛み締めながら、アマリ警部補は食人鬼の拘束を解きに掛かった。

。何度も言うが心配は無用だ。僕は彼女の心臓さえ食べられたら満足なのだ。あの蛞蝓なめくじみたいな刑事が言っていた。彼女の遺体は警察病院に収容されている、と」

 ヤナグラは手首に食い込んでいた電子錠を外すと皮肉を込めて礼を言った。アマリ・ユウジはすでに刑事を辞めている。(これから自分は良い父親になるんだ)と彼は自身に言い聞かせるように何度も呟いた。

「いいか、一度しか言わない。彼女の父親が経営している会社の研究部門ラボラトリイ――そこの主任チーフに僕が全てを告白したと言え。叩けば埃が出る男だ。彼は保身をはかって薬を差し出すだろう。さあ、走るんだ。時間がないぞ」

 アマリは取調室とりしらべしつを飛び出すと、弾丸のように走り始めた。残された時間はわずかである。程なくして彼は追われる身になるだろう。公安委員会は凶悪犯を逃亡させた刑事として彼を糾弾きゅうだんするに違いない。いずれにせよ、アマリ・ユウジは重い罰則ペナルティを負うことになる。

 警察署の外では初雪が舞っていた。年が明けたばかりで、街を行き交う人気ひとけまばらである。一瞬ではあるが、アマリは自分が何処どこにいるのか見失った。厚い雲が空をおおっているせいで時間の感覚さえ曖昧あいまいだ。時計の針は午後四時三十分を指している。

 アマリは身にまとっていたコートのえりを立てると、ポケットからマルボロを一本取り出して火をともした。清澄せいちょうな空気に紫煙しえんが乗り、風にあおられて消えてゆく。

 これを吸い終えたら、息がつ限り走り続けよう――とアマリは決意した。早く娘に会いたかった。彼女のために罪を犯そうと決断した自分が誇らしい。

 アマリの心臓は早鐘はやがねを打ったように鼓動している。なるほど、霊魂は《心臓ハート》に宿るものなのかもしれない。恋人の心臓を後生大事ごしょうだいじに持ち歩いていた男の気持ちが、ちょっとだけ理解できたような気がした。


                                   (了)


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