あの頃を彼方で。

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

本編

   あの頃を彼方で。


 時を刻む時計の針が刻一刻と進んでゆく、だが、未だ、送り火が焚かれることはない。

 かの男は焦っていた。

 その腕時計の針もまた、別世界の時を刻みながら、その針をカチリカチリと進めている。

 かの男は迎え火と共にやってきた。

 帰省で帰ってきた息子夫婦や娘夫婦、可愛い孫達の笑顔を仏壇から、祖先たちと見守ることができるのは何にも代えがたいものであった。

 かの男は仏間で微笑む老婆を若かりし頃に妻とし、裸一貫で小さな店を開いた。

 商店街のささやかな店であって、小間物屋のようでもあり、雑貨屋のようでもあった。二人は汗水を垂らし、身を粉にして働いた。

 やがて、ささやかな店は、小さな店となり、息子に代を譲る頃には、大きな商店となり、数多くの事業を手掛けるまでに成長してゆく。

 時代だったのだ、働くことが美徳とされて、夫婦はその美徳を何よりも尊んだ。

 息子はそれを手本としながらも、時世に合わせた経営を行い、その歩みを止めずにいることが、かの男には少しばかり寂しくもあり、また、嬉しくもある。

 かの男は寿命を全うし、死の神に誘われて冥界の門を潜り、三途の川を渡った。

 渡し賃は、昔は六文銭であった、けれども、妙なことながら、渡船場には新宿駅のように改札機が並んでいて驚いた。

 電子化の波は冥界にも訪れていたのである。

 電子マネーからキャッシュレス決済に至るまでが完備され、脇には券売機までもある、どうやら、末期の財布に入っていたものが渡し賃の代わりになるらしいと、同じ死人の渡船場の職員が説明をする。

「手持ちのない者は仕事をするんでさ、そうすれば渡り賃くらい稼げます」

「川を歩かされると聞いたのだが……」

「私もそれを覚悟したんですがね、昔と違って流される人間が増えまして、また、渡りきるまでに百年を要するようになってきたらしいんですな」

「どういうことです?」

 職員は詰襟の学生服に似た制服の足をパシンと叩き、そしてやや呆れたような顔をした。

「人間が弱ったんですな、私は大正の頃に死にましたがね、その頃と比べますと、人間は長生きをしますから、こちらにくると足腰が弱っております、とてもじゃないが、川なんて歩けやしませんよ」

「いや、しかし、体は戻ると」

「最低限です、最低限、若い頃に戻れるわけなんぞ無い訳です、老若男女、という言葉があるでしょう、杖を突き、やっとの人々が増えました、冥界だって現世と同じですよ、裁きを受けさせるために、それなりに進歩するんです、まぁ、なにより……」

「なにより?」

 職員は少し含み笑いを漏らし、かの男は更に聞きたくなって言葉を重ねる。

「川が汚れる、環境が悪くなる、というのも、こちらで問題になっている訳です、死人が増えて川を渡る、川の流れに若干ながら穢れが混じる、少ない頃ならよかったんですがね、今はそうはいかない、澱みが酷くなり、それで水が腐ったような匂いになって、こっちでも大問題になったんですわ、それで船渡しが基本となりました」

「皆、同じに?」

「まさか、平等ではないですからな、まぁ、世界各地の川も同じようなもんらしいです、改札を抜けますと、罪の重さが計られ、それぞれに応じての船室に案内されます、上中下、上はそうですなぁ、満員電車ほどですかな、下は真っ暗な船倉に息もできぬほどに押し込められます、隣の人すら分からぬほどの真っ暗闇に押し込まれ、糞尿は垂れ流し、おぞましいもんです」

「それは……おぞましいですなぁ」

「さぁ、お行きなさい」

 かの男は背筋がぞっと寒くなりながら、改札を抜け、どうにか中の船室へと案内された、下ほどではなかったが、身の毛もよだつほどに、ぞっとする七日間の船旅となった。

 這う這うの体で船より降りる。

 亡者の旅とは過酷な旅であることは覚悟していたが、ここまで酷いものだったとはと、かの男は、深くため息を吐きながら船を降りる。

 本来であれば道をたどり、十王の裁きを受けるはずであった。

「おい、お前」

「はい?」

 渡船口に一人の赤鬼が腕組みをして立っていた。

 異形の鬼であった、背広を着ていたのである。

 洗練された生地で仕立てられたオーダーメイドでの一品であることは、すぐに察しがついた。袖のライン、肩の幅、生地の伸び、なにより、肌のようにピタリと張り付くように見えるデザインでありながら、赤鬼の動きを何一つ、そう、何一つとして、妨げることなく、まるで肌のように素晴らしかった。

「お前はこっちだ、ついて来い」

 男は案内されるままに、そう、そのままに正しき道ではない、裏路地のように細い道を赤鬼と共に歩んでゆく。

 そこに、見慣れた看板があった。

 ○○商店。

 小さな、小さな、風が吹けば飛んでしまいそうなほど、小さな店であった。

 男の目に涙が溢れる、それは、裸一貫で起こして、妻と汗水を垂らしながらに、毎夜、遅くまで働いた店だった。

「あなた」

「おまえ……」

 あの頃と変わらない、ガタ付きのあるガラス戸が開くと、中から年老いた妻が、ゆっくりとした足取りで、彼の胸元へと滑り込んできた。

「これは、どういうことだい?」

 久々の再会となったことに嬉し涙を溢しながら、男は妻にこの状況を問いただすことにした。

「私の罰なのです、でも、貴方とならきっとできると思うの」

「罰?」

 優しいし皺が刻まれて、年老いてもなお美しい顔をした妻の言葉に、摩訶不思議な表情を浮かべたところで、赤鬼が一枚の紙を差し出してきた。

「閻魔庁の決定です、履行をしてください」

 赤鬼は閻魔庁の官吏であった。

 差し出された書面には、妻の些細な罪ではあったが、それが情状酌量されて、そして、新規事業の開設と成功をもって、一等減じられると書かれている。

「ほむ、これならできん事もあるまい、お前となら大丈夫だろう」

 男は昔取った杵柄のように、その書類を受け取り、そして赤鬼に対して、しっかりと頷いて見せた。

 そして初盆までの合間、男と妻は身を粉にして働いた。

 全く知らぬ土地、全く知らぬ環境、全く知らぬ近隣鬼民。

 何もかもが、新鮮であって、二人は艱難辛苦を思い出しながらも、仕事に勤しんだ。

 事業はやはり軌道にのり、小さな商店から、ガタつかぬ扉の店構えへと、変貌を遂げたところで、初盆となり、男と妻は現世へと帰ったのである。

 だが、彼ら二人は心配性であった。

 安堵も束の間、ふと、地獄の商店のことが気に掛かる。

 鬼の婆さんはきちんと食べれているだろうか、近くに商店はないから、鬼の子達はお菓子が食べれず困っていないだろうか、あの人は、この人は……。

 お客さんの顔が思い浮かんでは、背景と共に消えてゆく。

 二人には家族と共に過ごす時間と共に、その心配ができることも嬉しかった。

 昭和の中頃、まだ、絆というには烏滸がましいが、何処もかしこも、見えない糸で繋がっていて、それはとても親しかった。

 厄介ごとなどではない、苦手な者には苦手な者なりの繋がりを、得意な者には得意な者なりの繋がりを、誰一人として、置いてけぼりにしない、そんな関係があった。

 もちろん、良いことばかりではない、悪い事もあった。

 だが、幸せな時代だった。

 誰しもが俯く事なく、いや、俯いていれば何かがあることはわかった。

 近所の世話好きや、交番のお巡りさん、寺のおっさま、学校の先生、色々な人々の誰か一人が、なにかしら気がつき、そして、そばに寄り添った。

 二人はそんな街で、商売を始め、それが薄らいだ頃合いに、引退をしたのだ。

 下を向き、ただ、近くの事柄でない、遠くの出来事を、眺める人々。

 些細な、本当に微細な、街の変化にすら気がつかず、ただ、通り過ぎる人々。

 街が死んでゆく、世界が死んでゆく。

 そう、思えたのだ。

 全ての関係が希薄になってしまった、今の世の中。

 現世で子供や孫達の顔を仏間から眺めながら、二人はその時を静かに待った。

 集まっていても話は少なく、皆が小さな機械を覗き込んでは、その中で会話をしている、買い置きの菓子もなく、料理はあれど箸はつかず、酒ばかりが静かに呑まれてゆく。

 小さな末孫がライターをもって外へと走っていく。

 慌てて母親が後を追い、やがて、末孫は玄関先で、小さなライターの火を灯した。

 誰もが言い出さなかった送り火を、末孫は気遣い、自分にできる精一杯のやさしさを見せてくれたのだ。

 やがて、受け継がれた送り火の炎が揺らめくと、二人は帰ってゆく。

 あの古き良き、あの頃の商店に、懐かしき関係性に。

 きっと地獄も変わってゆくだろう。そして、現世と同じように、全てが薄らぐのかもしれない。

 ただ、変わらぬように、努めていこうと二人は決めている。

 小さな事だけれど、積み重ねてきた事柄を、二度と失う事がないように。

 あの頃を彼方で、追憶するように。





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あの頃を彼方で。 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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