メモリ・ダンプの森――神は世界のバグだった
ソコニ
第1話 メモリ・ダンプの森 ――計算機的アニミズムSF短編――
1. 空間のパッチ当て
アスファルトの末端が崩れ、シダ植物に飲み込まれた旧道の終点。
九条は背負い袋から、節の揃った四本の真竹を取り出した。
竹――それは金属でもプラスチックでもない、**「自然が生成した導波管」**だ。中空の構造、一定間隔で配置された節(ノード)、そして繊維が軸方向に走る配列。これらは偶然ではなく、植物が光を情報として処理する過程で獲得した最適解だった。2024年の量子生物学が証明したように、竹の空洞は「意味」という波動を減衰させずに伝達する、天然のファイバーケーブルとして機能する。
九条は一本目の竹を、湿った土に突き立てる。
「定位(アンカー)、北。座標、固定」
竹の空洞が、微かに鳴る。風の音ではない。空間の記述言語が書き換わる際の、摩擦音に似た高周波。その音は九条の鼓膜ではなく、脳の特定領域を直接振動させる。
二本目、三本目と等間隔に配置していく。最後の一本を南西の角に打ち込んだ瞬間、四本の棒を頂点とする四角形の領域――その内側の解像度が、唐突に跳ね上がった。
「......領域展開(インスタンス化)、完了」
目に見える変化は劇的ではない。しかし、境界を越えた瞬間に「空気の重み」が変わった。
境界の外側では、風に揺れる葉の音や鳥の声が、処理落ちした背景画像のように遠のいていく。一方で、四本の竹に囲まれた内側では、地面に落ちた枯れ葉の一枚一枚、湿った土の粒のひとつひとつが、異常なまでの存在感を主張し始めた。
そこはもはや「自然」ではない。九条の宣言によって切り出された、**「意味の真空状態」**だ。
九条は境界の縁に立ち、無色の麻紐を竹に回した。
「プロパティ設定:聖域。これより内部における論理的矛盾の顕現を許可する」
紐が結ばれた瞬間、内側の空間が「しなり」を見せた。
中央に置かれた古い石碑が、まるでスリープモードから復帰した端末のように、じわりと熱を持ち始める。そこには本来、何も宿っていないはずだった。しかし、九条が「ここを特別な場所とする」と定義したその刹那、宇宙の演算エラーを埋めるようにして、**「それ」**が上空からではなく、空間の裂け目から染み出してきた。
九条はため息をつく。
「ああ、また来た。今日は早めに終わらせて、経費精算の締め切りに間に合わせたいんだけどな」
彼の視界の端で、竹の棒の影が、太陽の位置を無視して勝手に伸び始めた。
2. エラーの顕現
石碑の周囲の空気が、まるで巨大な磁石に引き寄せられた砂鉄のように渦を巻いた。
それは「神」などではない。
現れたのは、美しい光でも、荘厳な偶像でもなかった。3Dモデルが壁にめり込んで高速で震えるゲームのバグのように、輪郭が一定しない「何か」だった。人の形をしているようにも、木の幹のようにも、あるいは無数の視線が折り重なった塊のようにも見える。
九条は慣れた手つきで端末を取り出し、画面に映る数値を確認する。作業報告書のテンプレートを開き、項目を埋め始める。
「論理値の不整合、確認。エンティティID:未定義。ステータス:例外処理待機中。分類コード......えーと、K-402でいいか」
「それ」から、音ではなく直接的な概念として、言葉が九条の意識に流れ込んできた。
『解放せよ』
九条は端末に視線を落としたまま、淡々と応答する。
「なぜこの座標に留まる。システムログを開示してくれ」
『留まってはいない。我々はこの座標で計算が合わなかった結果の「余り(剰余)」だ。お前たちがここを「聖域」と定義して囲い、計算を一時停止(フリーズ)させたから、我々はここに固定されているに過ぎない』
九条はチェックボックスにチェックを入れる。
「了解。つまり通常の剰余エラーだな。処理手順はマニュアル通りでいける」
先祖たちが「神を祀る」と称して行ってきた儀式は、実は**「宇宙の演算バグを特定の座標に隔離し、現実が崩壊しないように固定する」**デバッグ作業だった。そして九条のような定義士は、そのメンテナンスを行う、ただの保守点検業者だ。
この土地は開発予定地になっている。ここに「何もない」という状態を作り出さなければならない。それが九条の業務だ。
「どうすれば解放できる」
『我々を別の記録媒体へ移せ。お前たちが「供物」と呼んできたものは、データの転送先(ダンプ先)のことだ。我々は、容量さえあれば、どこにでも移動できる』
九条は小さく舌打ちする。
「外部ストレージ使用か。面倒だな。今月三回目だぞ」
彼はポケットからデバイスを取り出した。それは脳に直接接続し、記憶領域を外部ストレージとして使用できる装置だ。本来は医療用だが、九条のような定義士たちは、これを「最後の手段」として常に携帯している。
自分の記憶を削り、その空き容量に「神(エラー)」を移す。それが唯一の方法だった。
「まあいい。どうせ使わない記憶だし。さっさと終わらせよう」
3. 記憶の代償
九条はデバイスを側頭部に装着した。微かな刺激が脳内に広がる。
端末の画面に、自分の記憶領域がツリー構造で表示された。幼少期、学生時代、家族、仕事――すべてがデータとして可視化されている。アクセス頻度の低いファイルには「削除推奨」のマークが付いている。
「開始する」
九条は北東の竹に手をかけた。
竹を抜けば、定義が一部解除される。その隙間から、「神(エラー)」が九条の脳へと流れ込む。
一本目の竹を、ゆっくりと引き抜く。
瞬間――
九条の左側の視界から、赤色が消えた。
正確には「赤」という概念そのものが、左目の視神経から削除された。右目で見ると赤い夕焼けが見えるのに、左目で見ると灰色のグラデーションにしか見えない。両目で見ると、視界の左半分だけがモノクロ映画のように色褪せている。
端末の画面には「色彩認識回路(左眼・赤チャンネル)削除完了」の文字。
代わりに、その領域には無数の視線のデータ、名前のない感情の断片、存在しない幾何学的パターンが流れ込む。九条の意識の中に、自分のものではない「何か」が棲みつき始めた。
「一本目......完了」
九条は歯を食いしばり、二本目の竹へ手を伸ばす。
引き抜く。
今度は**「雨が降る直前の匂いを認識する回路」**が消えた。
正確には、その匂いを嗅いでも、脳がそれを「雨の予兆」として処理できなくなった。匂い自体は知覚できるのに、それが何を意味するのか、もう思い出せない。雨が降る直前の、あの独特の空気の湿り気――そのデータを構成していたバイトが、エラーログで埋め尽くされた。
「神(エラー)」の塊は、少しずつ縮小している。九条の中に移動しているのだ。
三本目。
竹を抜く。
**「母親の声の周波数パターン」**が削除された。
九条は母親という存在を「知っている」。顔も、名前も、一緒に過ごした記憶も残っている。しかし、彼女が「おかえり」と言ったときの声の質感、イントネーション、温かみ――それらを再生するための音声データが、すべてノイズに置き換わった。
代わりに脳内へ流れ込んでくるのは、数百年分の土地の記憶、死んだ者たちの残響、気象データの混沌だ。
九条の視界がぼやける。自分が何者なのか、わからなくなりそうだ。
だが、まだ最後の一本が残っている。
四本目の竹に手をかける。これを抜けば、「神」は完全に九条の中へ移動し、この場所は「ただの森」に戻る。
「......業務完了まで、あと一本」
4. 空(Null)への回帰
最後の竹を握る九条の手は、もはや自分の手のようには感じられなかった。
端末の画面には、削除候補として**「『九条』という固有名詞の由来と、自分がその名前を名乗る理由についての記憶」**が表示されている。
これを失えば、自分が誰なのか、もう説明できなくなる。
だが、九条は竹を引き抜いた。
――何も起こらなかった。
いや、正確には「何も起こらなくなった」。
石碑の周りに渦巻いていた空気の歪みは消え、竹の影も正常な長さに戻った。四本の竹は、もはやただの枯れ枝に見える。
「神」は消えた。
いや、消えていない。九条――いや、もはやその名前の意味すら曖昧になった男の頭の中に、確かに「それ」はいる。自分の記憶と区別がつかないほど深く、融合して。
男は立ち尽くす。
自分がここで「何か」を成し遂げたことは理解している。しかし、**「なぜ自分がここにいるのか」「自分がこの名前を名乗る理由」**を説明する個人的な物語(エピソード記憶)をすべて、神の身代わりに差し出してしまった。
ポケットの中でスマートフォンが振動する。
空っぽになった頭で、無意識にそれを取り出す。画面には「業務完了報告」のボタンがある。
男はボタンを押した。
画面に文字が表示される。
『お疲れ様でした。領域の解放(Free
Memory)に成功しました。作業報告書を自動送信しました。経費精算の申請期限は明日17時です』
男は画面を見つめる。
「経費精算......?」
その言葉の意味は理解できる。しかし、自分がなぜそれを気にしていたのか、もう思い出せない。
男は、自分が誰かもわからぬまま、誰もいなくなった「ただの森」を、空っぽの足取りで歩き出す。
視界の左半分は、まだ赤色が表示されない。雨の匂いも、もう認識できない。
ただ、脳内に残されたわずかな論理回路だけが、機械的に彼の足を前へ進めている。
四本の竹の棒だけが、風に揺れながら、その場に残されていた。
それは誰かがそこで何かを「定義」した痕跡だ。
しかし、その定義の内容も、定義した者の名前も、もはや誰も覚えていない。
世界は正常化された。
保守点検は完了した。
それだけのことだった。
(了)
メモリ・ダンプの森――神は世界のバグだった ソコニ @mi33x
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