第10話「賞味期限のない物語」

 三ヶ月後。

 新宿の街は、何事もなかったかのように再生を始めていた。

 新しい舗装路は黒々と輝き、瓦礫の山は機能的な高層ビルへと姿を変えつつある。鉄と錆の匂いが混じったあの夜の記憶は、都市の喧騒という濁流に押し流され、今や誰も振り返る者はいない。

 そのビルの谷間に、一軒の古びたコンビニがあった。

 佐々木レンは、店の前で缶コーヒーのプルタブを弾いた。かつて誰かが「鉄の味がする」と言った、安物の味。

「……あ、すいません。おにぎり、これだけですか?」

 レジでレンが問いかけると、店員は申し訳なさそうに棚を指差した。

「はい、もうこれ一パックだけで。……あ、ちょうど期限が近いので、今から半額シール貼りますね」

 レンは、その黄色いシールが貼られる瞬間を、まるで儀式を見守るような敬虔(けいけん)さで見つめていた。

 

 手に取ったおにぎりは、冷たくて、不格好だ。

 三ヶ月前。レンはギルドのSランク候補という肩書きを捨てた。今の彼は、名前も記録も残らないような「境界線の掃除屋」だ。

 最新のARゴーグルはもう持っていない。代わりに、自分の目で新宿のノイズを、世界の不協和音を観測し続けている。

 

 ふと、隣に一人の老人が立った。

 色褪せたトレンチコートを羽織り、深く被った帽子の下で、ゴンドウが煙草を咥えている。

 

「……若造。まだ、あのおにぎりを食ってるのか」

 

「ゴンドウさん。……ええ。これだけは、どうしても辞められなくて」

 

 ゴンドウは、かつて健一の首筋に向けたあの大太刀を、今は古びた麻袋に包んで背負っている。

 彼はレンのおにぎりを一瞥(いちべつ)し、フッと短く笑った。

 

「……不思議だな。俺も、最近はこればかりだ。鮭の塩気が、妙に懐かしく感じてな」

 

 ゴンドウは、自分がなぜそれを懐かしむのか、その理由は未だに思い出せないままでいる。

 だが、彼の胸には、かつて「一番大事なバックアップ」を失った時の、あの喪失感とは別のものが宿っていた。

 それは、空っぽになったハードディスクに、誰かが残してくれた、温かな残り香のようなものだ。

 

「ゴンドウさん。世界から消えたものは、本当に無かったことになるんでしょうか」

 

 レンの問いに、ゴンドウは空を仰いだ。

 澄み渡った青空。三年前も、三ヶ月前も、この空は残酷なほどに美しかった。

 

「……データの上では、そうかもしれん。だがな、レン。……世界には、記録に残らねぇが、記憶にもならねぇが、確かにそこに『在る』熱ってやつがある」

 

 ゴンドウが、レンの肩を叩いた。

 その掌の重みを感じながら、レンはおにぎりを一口、大きく噛み締めた。

 

 ――砂の味はしない。

 

 米の粘り、海苔の香り、そして暴力的なまでの塩気。

 それは、かつて一人の男が「生きててよかった」と笑いながら、最後に守り抜いた世界の味だった。

 

「……美味しいですよ。佐藤さん」

 

 レンが小さく呟いた名前は、風に吹かれて都会の喧騒に溶けていった。

 誰にも聞こえない。誰の記録にも残らない。

 けれど、レンがそれを「観測」し続ける限り、この物語に賞味期限は来ない。

 新宿、午前二時。

 かつて雑巾のように重かった空気は、今、少しだけ軽やかに、夜の街を通り抜けていった。

     (完)

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フェイズ・イーター 銀雪 華音 @8loom

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