ある雨の日の手紙
都会の冬は、音を吸い込んでいた。
歩道の上で靴底が鳴るたび、その響きが雨音と共に冷たい空気に沈んでいく。
佐伯は、古びたスーツの胸ポケットに右手を入れる。
そこには何もない。
探しているのは、五十年前の手紙だ。
退職してから、時間が余るようになった。
余った時間は、古い記憶を呼び戻す。
机の引き出しを開け、古いアルバムをめくり、封筒を探した。
だが、どこにもなかった。
「捨ててしまったのか・・・」
声に出すと、寒さが余計に沁みた。
その手紙は、若い頃に書いた
宛先は、大学時代に出会った女性。
渡せなかったまま、封をした。
彼女は遠くへ行き、佐伯は仕事に追われ、やがて結婚し、子どもが生まれ、年月が過ぎた。
それでも、あの手紙だけは残していたはずだった。
「どうして今さら」
自分でも理由はわからない。
ただ、あの言葉をもう一度確かめたかった。
誰にも見せないまま、胸の奥で眠っていた言葉を。
曲がり角で、焙煎の香りが冬の匂いに混ざった。
視界の端で灯りが揺れる。古いレンガ、金色の文字。
『喫茶マジョルナ』
取っ手に触れると、冷たさが指に沿った。
カラン、と鈴が鳴る。
中は静かだった。
壁の時計が、秒針をわずかに遅らせている。
カウンターの向こうに少女がいて、白磁のカップを指で回していた。
「寒かったでしょう?お好きな席へどうぞ」
佐伯は窓際に座った。
ガラス越しに街灯が滲んでいる。
「何にします?」
「……おすすめで」
少女――ルナが、豆を計る。
金属の皿がぴたりと止まる。
グラインダーの音が静かに店内に響く。
湯気が静かに立ちのぼり、
豆の香りが部屋を満たす。
黒い雫の一滴が落ちるたび、
時間は柔らかくほどけていく。
「本日のおすすめ。記憶のブレンドです。深煎りで、少し甘みが残ります」
カップを受け皿に置くと、ルナはふと佐伯の胸ポケットに目をやった。
「探しもの?」
「……ええ」
声は低く、しわがれていた。
「何を探してるんです?」
「昔の手紙です。若い頃に書いたものでして。渡せなかったまま、ずっとしまっていたんですが見つからなくて・・・。もう捨ててしまったのかすら思い出せないんです。」
ルナはカウンターの木目を撫でて、静かに言った。
「渡せなかった手紙って、どんな言葉が書いてあるんでしょうね」
「……覚えていないんです」
佐伯は笑った。
「だから、確かめたかった」
「でも、書いたときの気持ちは覚えてるでしょう?」
「……ええ」
「なら、それで十分じゃないですか」
佐伯はカップを見つめた。
深い色が、夜の底みたいに静かだった。
「気持ちだけじゃ、形にならない」
「形って、紙じゃなくてもいいと思います」
ルナの声は軽い。押すというより、そっと置く響きだった。
「例えば今ここで、その言葉をもう一度思い出してみる。誰にも見せなくていい。あなたの中で、ちゃんと届けば、それでいいんじゃないですか?」
佐伯は、笑えなかった。
代わりに、胸の奥で何かがほどける音がした。
カップを二口続けて飲む。
苦みが、甘みに変わる。
五十前の言葉が、頭の中で静かに浮かんだ。
「……ありがとう」
声は小さく、誰に向けたものか自分でもわからなかった。
佐伯はカップの底に残った最後の一滴を、静かに飲み干した。
香りが薄れていくのを惜しむように、指先で受け皿の縁をなぞった。
「ごちそうさま」
声は小さく、店内の時計の音に溶けた。
会計を済ませると、ルナは笑わずに、ただカップの影を整えた。
その仕草が、返事の代わりに見えた。
カラン、と鈴が控えめに鳴る。
外気が頬に触れた瞬間、コーヒーの温もりが遠ざかる。
路地の出口まで歩いて、肩の位置を少し直す。
歩幅が、来たときよりも一定に揃った。
ふと佐伯は足を止め、来た道へ振り返り短くそっと頭を下げる。
彼女に会う時、それは自分の言葉が心の中で届いた時だと信じて。
その夜、佐伯は机に向かった。
紙は淡いクリーム色。ペンは古い万年筆。
最初に書いたのは、彼女の名前。
次に、五十年前に書けなかった言葉。
「あなたに出会えてよかった」
それだけで十分だった。
封筒はない。
宛先もない。
でも、胸の奥で、確かに届いた。
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喫茶マジョルナの小さな魔法 らーめんP @menyakanataso
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