春を盗む人
辛口カレー社長
春を盗む人
三月が終わろうとしているのに、雪は止まなかった。
カレンダーの日付は確かに三月三十一日を示している。普通なら、昨日で高校一年生が終わり、今日からは春休みだ。教室の窓からは校庭の隅に立つ桜の木が、小さな蕾を膨らませているはずだ。でも、窓の外は眩しいくらいの銀世界だった。
空は常に鉛色の雲に覆われ、降り積もる雪は重く、湿っていて、排気ガスと都市の埃を吸い込んだような薄汚れた灰色をしていた。世界が春への移行を拒絶し、冬という季節の底に沈んでいるようだった。
この異変は、今週に入ってから急に始まった。最初は季節外れの寒波だと思われていたが、一週間経っても、一か月が経っても、気温はずっと氷点下のまま。
気象予報士はテレビの中で、困惑した顔でひたすら「記録的な停滞前線」や「過去百年に例を見ない寒気」と繰り返すばかりだ。SNSのタイムラインは「春どこ行った?」とか「寒すぎて無理」とか「地球バグった」という悲鳴のような言葉で埋め尽くされている。交通機関は麻痺し、学校の終業式も急遽中止になった。
僕はリビングの窓ガラスに額を押し付け、冷気を肌で感じながら、ぼんやりと外を見ていた。
街の色彩は極端に薄くなり、行き交う人々は分厚いコートの襟を立て、口を閉ざし、逃げるように足早に過ぎ去っていく。苛立ちと諦めが入り混じった奇妙な空気が、街全体を覆っている。誰もが、本来そこにあるべきはずの春の気配が、どこかへ消え失せたことを肌で感じていた。
――僕は知っている。
これは、ただの気象現象なんかじゃない。もっと人為的で、誰かの強い意志によって作り出された歪みだということを。
「
玄関でコートについた雪を払っていると、祖母が台所から顔を出した。煮物の甘辛い匂いが漂ってくるが、どこか寒々しい。祖母は古い言い伝えや土地の言葉を大切にする人で、この異変が始まってからというもの、何かを悟ったように口数が減り、静かになっていた。その目は、僕の背後にある雪景色ではなく、もっと別の何かを見ているようだった。
「うん。顔だけ見てきた。もうすぐ春が来るから、頑張れって言っといたよ」
嘘だった。春なんて来る気配はないし、陽葵も頑張れるような状態じゃなかった。
陽葵は僕の幼なじみだ。隣の家に住んでいて、物心ついた時からずっと一緒だった。僕の家の裏庭と彼女の家の庭は低い生垣で繋がっていて、その境界線に一本の大きな桜の木があった。僕たちは毎年、その桜の下で背比べをし、花びらを追いかけ、春を迎えてきた。
彼女は生まれつき心臓が弱かった。それでも、中学までは休みがちながら学校に通えていたけど、高校に入ってからは体調を崩し、一年のほとんどを市民病院の無機質な白いベッドの上で過ごしている。
彼女の病室のカレンダーは、三月二十日で止まっている。彼女自身の時間が、そこで足踏みをしているかのように。
「春が来たら、また二人で桜を見ようね」
それが、陽葵との約束だった。高校の入学式の朝、まだ元気だった彼女と桜の下で交わした、何でもない約束。でも、今の彼女にとってそれは、命を繋ぎ止める唯一の希望だった。彼女の体はもう限界に近い。担当医も、彼女の両親も、言葉には出さないが、次の春を越えるのは難しいだろうと覚悟を決めている空気があった。
だからこそ、僕は毎朝、雪が降る中でもバスを乗り継いで病院へ行った。病室で陽葵の細い手を握り、「春はもうすぐそこだよ。雪が止んだら、すぐに桜が咲くから」と、無理に明るく言った。
――全部、嘘だ。
病院の窓から見える景色は、どこまでも続く灰色と白で、春の兆しなんて微塵もない。僕が言ったことが気休めだと気づいているのか、いないのか、陽葵は酸素マスクの中で弱々しく笑うだけだった。その笑顔が、日に日に薄くなっていくのが怖かった。
「来年の春まで生きる自信、ないんだ」
昨日、彼女は掠れた声でそう言った。
「だから、今年の春がもし来ないなら……私、一生桜が見られないままかもね」
その言葉が、僕の胸に冷たいナイフのように刺さったままだ。
「そんなことないよ」と即座に否定した自分の声が、あまりにも虚しくて耳を塞ぎたくなった。何も言い返せない。だって、実際に春は来ていないのだから。神様がいるのなら、あまりに残酷だと思った。彼女の最後の願いさえ、この異常気象は奪おうとしている。
夕食の席は静まり返っていた。テレビのニュースキャスターが、この寒波による農作物への被害を深刻な顔で伝えている。
祖母は箸を置き、仏壇に供えられた鏡餅をじっと見つめていた。そして、独り言のように、けれど、はっきりとした口調で言った。
「湊斗や。春はな、盗まれたんだよ」
箸を止めて祖母を見る。祖母の顔は真剣そのもので、冗談を言っている雰囲気ではなかった。
「盗まれた?」
「ああ。春泥棒っていうのがいるんだよ。ずっと昔から、季節の変わり目に紛れて、春の始まりだけを摘んでいく存在がね」
祖母の言葉は、突然現れたファンタジーの扉だった。普段なら笑い飛ばしていただろう。でも、この異常な現実の中では、気象庁の解説よりも、祖母の昔話の方が妙に説得力を持って響いた。
祖母は立ち上がり、奥の和室にある古い桐のたんすから、布に包まれた巻物のようなものを取り出してきた。テーブルに広げられた紙は黄ばみ、端はちぎれかけている。そこには墨で、文字のような、記号のような何かが描かれていた。
「春泥棒の目的は様々だ。昔は豊作を祈るために春の力を借りようとした術者もいれば、永遠の若さを欲して春の生命力を奪う魔女もいた。村の伝承にも残っている。『三月が終わっても雪が解けぬ年は、時の番人が門を閉ざした証拠なり』とな」
「時の番人?」
「ああ。彼らは『時』を操る力を持っている。春が来ないのは、彼らが春の扉を閉ざし、時の流れを特定の場所に留めているからなんだ。このままじゃ、世界は凍えたまま、ゆっくりと死んでいってしまう」
祖母は僕の目を見た。その瞳は白内障で少し濁っているはずなのに、今は恐ろしいほど澄んで、僕の心の奥底にある焦燥を見透かしているようだった。
「湊斗。お前、何か探しに行くつもりだろう?」
図星だった。僕は何も言えずに頷いた。
僕の頭の中で、陽葵の儚い笑顔と、窓の外の絶望的な雪景色がぐるぐると混ざり合っていた。もし、本当に春が盗まれているのなら。もし、その犯人がこの世界のどこかにいるのなら。
「春泥棒を見つけて春を返してもらえれば、陽葵は桜を見られるの?」
祖母は少し困ったように口元を緩め、悲しげに笑った。
「春泥棒を見つけるのは難しい。彼らは春の気配そのものに紛れている。風の中に、光の中に隠れているんだ。でも、もし、もし本当に春が誰かの願いで止められているのなら……その春は、誰かが望む場所に、たった一つだけ痕跡を残しているはずだよ」
――誰かが望む場所。
――春の痕跡。
その言葉が、僕を行動へと駆り立てた。
深夜、家族が寝静まったのを確認して、僕は家を抜け出した。玄関を出た瞬間、張り詰めた冷気が頬を叩く。吐く息は白を通り越して透明に近い。街灯の明かりは雪に乱反射してぼんやりと滲み、商店街のシャッターは固く閉ざされ、コンビニの看板の光さえ寒々しい。雪を踏む自分の足音だけが、キュッ、キュッ……と静寂の中に響く。街から
あてもなく歩いているわけではなかった。
祖母の言葉――「誰かが望む場所」。
僕にとって、そして陽葵にとって、春を一番強く望んでいる場所はどこか。
一つしかない。
僕たちの春は、いつもそこから始まった。
僕は裏山へと向かっていた。僕の家の裏庭から続く細い山道を登った中腹。そこには、子供の頃に僕と陽葵が「秘密基地」と呼んで遊んだ古い物置小屋があり、その隣には、僕たちの家を見下ろすように立つ、樹齢何十年にもなる大きな桜の木があった。
山道は膝まで埋まるほどの積雪で、登るのは困難を極めた。懐中電灯の光だけを頼りに、滑り落ちそうになりながら足を運ぶ。息が切れ、肺が冷気で焼けるように痛い。それでも、陽葵の顔を思い浮かべ、足と体を前に押し進める。
十分ほど登ったところで、ふと、空気が変わったのを感じた。
風が止んだ。
雪の降る勢いは変わらないのに、肌を刺すような痛みが和らぎ、柔らかい匂いが鼻をくすぐった。これは土の匂いだ。雪の下に眠っているはずの、大地の匂い。
顔を上げると、暗闇の中に物置小屋の黒いシルエットと、その横に広がる桜の枝が見えた。
目を疑った。
雪に覆われた世界の中で、その桜の木の周り半径数メートルだけ、雪が積もっていなかったのだ。地面の黒い土が露出し、そこから湯気のようなものが立ち上っている。
僕は震える足で近づいた。桜の木を見上げると、枝には小さな、そして鮮やかなピンク色を帯びた蕾が無数についていた。さらに驚くべきことに、いくつかの蕾は、今にもはじけそうなほど膨らみ、うっすらと花びらを広げていた。
――ここだけ、春が息をしている。
「……誰だ」
不意に、背後から声をかけられた。心臓が跳ね上がる。振り返ると、物置小屋の陰から一人の人物が姿を現した。僕と同じくらいの背丈で、細身のシルエット。大きなフード付きの灰色のコートを纏い、顔の半分は濃い影に隠れている。性別は判別しにくいが、その声は低く、雪の結晶が割れるような、ひんやりとした静けさを持っていた。
懐中電灯を向けると、その人物は眩しそうに目を細めたが、逃げようとはしなかった。ただ、僕という異物を排除すべきか品定めするかのように、じっと立っている。
「君は誰だ? 君が……春泥棒なのか?」
恐怖を打ち消そうと、大きな声を出してはみたが、その声は情けないほど震えていた。寒さのせいだけじゃない。目の前の存在が放つ、人間離れした圧倒的な気配に
男は、ふっと自嘲気味に口元を歪めた。
「俺はミカゲという者だ。泥棒呼ばわりとは心外だが、まぁ、当たらずとも遠からずといったところか」
「お前が春を盗んだのか! なんでそんなことをする! 世界中がおかしくなってるんだぞ!」
僕は一歩踏み出した。陽葵の命が、こいつの気まぐれで奪われようとしている。そう思うと、恐怖は強い怒りに変わった。でも、ミカゲは全く動じない。
彼は静かに桜の木を見上げた。その視線は鋭く、同時に、割れ物を扱うような繊細さを帯びていた。
「盗んだのではない。
「どういう意味だよ! 僕の友達も春を待ってるのに! みんな待ってるんだ!」
「待つ、という行為は永遠ではない。待つことに耐えられない命もある。だから、止めた」
ミカゲはフードを少し持ち上げた。露わになったのは、琥珀色の瞳だった。街灯もない闇の中で、その瞳だけが淡く発光しているように見えた。その奥には、長い時間を一人で過ごしてきた者特有の、深く、暗い孤独と悲しみが垣間見えた。
「ここにあるのは、盗まれた春ではない。封印された時間だ。俺の力を使って、この小さな庭と、その向こうの病室の、ほんのわずかな時間の流れをループさせている」
彼はコートの袖から、透明なガラスのような小さな塊を取り出した。それは手のひらに収まるサイズの宝石のようで、その内部で桜の花びらがゆっくりと舞っている。
「これはお前が待つ、あの幼なじみの『時間』だ。彼女が最も強く『生きたい』、『桜が見たい』と願った瞬間の魂の一部を、俺は世界の春の力と引き換えに、ここに隔離した」
頭が混乱した。僕の頭の処理能力を超えている。彼は春を盗んだのではなく、陽葵のために時間を止めたというのか?
「どういうことだよ……陽葵と君に、一体何の関わりがあるんだ?」
「俺は、この街の時の番人だ。季節の扉を開け閉めするのが仕事だ。だが、先日、病院の近くを通った時、彼女の強烈な願いに触れてしまった」
ミカゲはガラスの塊を愛おしそうに、あるいは忌々いまいましそうに見つめた。
「彼女の願いは純粋すぎた。死の淵にありながら、生への執着ではなく、ただ『季節』を求めていた。その想いが、俺の中の何かを狂わせたのだ」
「狂わせた?」
「立ち話もなんだ。入れ」
ミカゲは物置小屋の中へと入っていった。僕は迷ったが、真実を知るために、その後を追った。
小屋の中に入った瞬間、僕は思わず深呼吸をした。中は外よりもずっと暖かく、古びた木材の匂いに混じって、濃厚な春の香りが充満していた。土と草花、そして桜の蜜の匂い。
小屋の中央には、かつて僕たちが秘密基地ごっこに使っていた木の箱があり、その上に先ほどのガラスの塊が置かれていた。塊は心臓の鼓動のように脈打ち、暗い小屋の中を春の陽光のようなやわらかな色で照らしている。
ミカゲは木の箱の向こう側に座り込み、疲れ切った様子で壁にもたれた。近くで見ると、彼の顔色は透けるように白く、目の下には濃い隈くまがあった。彼自身もまた、何かを削りながらここに存在しているのだろうか。
ミカゲは静かに語り始めた。
「彼女の願いは、『次の桜が咲くまで、生きていたい』だった。しかし、彼女の体は、もう次の季節を待てなかった。春が来て、生命が活発になるエネルギーは、今の彼女の弱り切った心臓には毒だ。春が来れば、彼女の命の時計は加速し、終わる」
喉が渇いた。嫌な汗が背中を伝う。
「春が、陽葵を殺すってこと?」
「殺す、というのは物騒な言い方だが、摂理としてはそうだ。彼女は冬の静寂の中でしか、もう命を繋げない。だから俺は、春を止めるしかなかった。世界の春のエネルギーを全てこの庭に集め、強引に堰き止めた。そして、病室の彼女の時間だけを切り離し、開花寸前の永遠の三月に固定した。世界が凍り付いているのは、その副作用だ」
少しずつ、理解が追いついてきた。この雪も、寒さも、全ては陽葵一人の命を延ばすために、彼が引き起こしたものだったのだ。世界を敵に回してでも、たった一人の少女の願いを守ろうとする、狂気にも似た献身。
「じゃあ、このまま永遠に春を止めればいい! そうすれば、陽葵はずっと生きられるんだろ?」
僕は叫んだ。世界なんてどうでもいい。陽葵が生きるなら、ずっと冬でいい。しかし、ミカゲは悲しげに首を横に振った。
「それはできない。このガラスが保持できる春の時間には限界がある。見てみろ」
彼が指差したガラスの塊には、小さなひび割れが走っていた。
「あと二日だ。二日経てば、この器は砕ける。そうなれば、溜め込まれた春の力は暴走し、この街を、いや、世界を一瞬で灼き尽くすほどの熱波となって解放されるだろう。もちろん、彼女の命も蒸発する。俺はただ、彼女が最後に迎えるための、わずかな猶予を作ったに過ぎない」
絶望で目の前が暗くなった。
春が来ても死ぬ。春を止めても、あと二日で破滅する。
「そんな……じゃあ、どうすればいいんだよ」
僕は床に崩れ落ちそうになった。無力感が全身を支配する。陽葵を救いたかった。でも、僕には何の力もない。
その時、ミカゲがまっすぐに僕を見た。琥珀色の瞳に、強い意志の光が灯る。
「一つだけ、方法がある」
僕は弾かれたように顔を上げた。
「教えてくれ」
「二日あれば、お前は彼女に、たった一輪の桜を届けられる。それこそが、彼女の本当の、最後の春になる。そして、お前がその桜を彼女に届け、彼女が満たされたその瞬間に、俺が制御しながら春を解放する。そうすれば、彼女に苦痛を与えず、穏やかに送ることができる」
――送る。
それは、陽葵の死を意味していた。でも、それ以外に道はないのだと、彼の目が語っている。
僕は拳を握りしめた。陽葵を助けることはできない。でも、彼女の願いを叶えることはできる。
「やるよ。僕にやらせてくれ」
僕の言葉に、ミカゲは初めて、微かだが人間らしい笑みを浮かべた。
「お前、名前は?」
「湊斗」
「いいだろう。共犯者になってもらうぞ、湊斗」
その日から、僕とミカゲの奇妙な共闘が始まった。
彼は、春を封印しているこの小屋から動くことができない。少しでも離れれば、抑え込んでいるエネルギーが暴発してしまうからだ。
彼は僕に、春を運ぶための計画を託した。
「春は、単に暖かさや光のことじゃない。それは『意志』だ。凍てつく土を割って芽を出そうとする、生命の意志だ」
ミカゲは僕の手を取り、自分の掌を重ねた。彼の手は氷のように冷たかったが、そこから流れ込んでくるものは、マグマのように熱かった。
「俺が封じている春の力の一部をお前に分け与える。受け取れ」
視界が白く染まった。全身の血管を熱い何かが駆け巡る。心臓が早鐘を打ち、指先から火花が散るような感覚。陽だまりのような、それでいて濃厚な花の香りがする光の粒が、僕の身体に溶け込んでいった。
「これは『春の欠片』だ。この力を使って、表にある桜の枝の一本に集中し、二日間で強制的に開花させる。そして、その一輪を病室まで、お前自身の足で運ぶんだ」
簡単なことのように聞こえるが、それがどれほど困難かはすぐに分かった。
翌朝、僕は裏山の桜の木の下で、ミカゲに教わった通りに根元の土に手を当て、自分の中にある熱を注ぎ込んだ。意識を集中させるだけで、体力がごっそりと削り取られていく。頭痛がし、吐き気が込み上げる。自分の生命力を削って、木に分け与えているような感覚だ。
凍り付いた土が微かに震え、根の周りの雪が蒸発していく。しかし、蕾はなかなか開かない。
「イメージしろ。花が開く音を。色が溢れる瞬間を」
小屋の入口から、ミカゲが声をかける。彼もまた、苦しそうに肩で息をしていた。僕に力を分けたことで、彼自身の春を制御する力も落ちているのだ。
夜になっても作業は続いた。吹雪が強まり、視界が白く閉ざされる中、僕と桜の木の間だけ、熱を帯びた空間が存在していた。
「なんで、ここまでしてくれるんだ?」
手を休めずに、彼に問いかけた。
「君は時の番人なんだろ? 人間の願いなんていちいち聞いてたら、体がもたないだろうに」
ミカゲは遠くを見る目をした。
「昔、俺も人間だったのかもしれない。あるいは、人間になりたかった何かなのかもしれない。記憶は曖昧だ。ただ、彼女の姿が、いつかの自分に重なった。誰かを待ち続けることの痛みと、希望。それが分かるから、放っておけなかった」
その言葉を聞いて、彼が何かを超越した特別な存在ではなく、痛みを知る誰かなのだと確信した。きっと彼は僕たちと同じ、何かが欠けた存在なのだ。
二日目の朝。
限界まで疲労した僕の目の前で、奇跡が起きた。僕が選び、熱を注ぎ続けた一本の細い枝の先で、蕾がほころび始めたのだ。薄皮が破れ、中から淡いピンク色の花びらが顔を覗かせる。そして、朝日が昇ると同時に、ふわりと、その花は開いた。
たった一輪。けれど、世界中のどの花よりも力強く、美しい一輪だった。圧倒的な冬の中に灯った、小さな命の灯火。
「……できた」
「ああ、見事だ」
ミカゲは満足そうに頷いた。彼の体は半透明になりかけていた。限界が近い。
僕は震える手でその枝を切り取り、用意していた小さなガラスの水差しに入れた。それをコートの内側に抱え込む。体温で温め、風から守るように。
「湊斗。病院までの道は、時間の歪みが激しい。春の欠片を持つお前が通ることで、停滞していた時間が急激に動き出そうと抵抗するだろう。肉体的にも精神的にも負荷がかかる。だが、決して立ち止まるな。止まれば、花は枯れ、お前もまた、春と冬の隙間に閉じ込められる」
「分かってる。必ず届ける」
「行ってこい。全てが終わったら、最後の合図はお前が送れ」
僕は頷き、山を駆け下りた。山を下り、街へ入ると、異変はすぐに起きた。
僕の周囲だけ、時間が狂っている。一歩踏み出すたびに、息が切れ、視界が霞む。体が鉛のように重い。
体内の春の欠片が、急速に熱を失っていくのを感じた。僕の生命力を燃料にして、桜の花を維持しているのだ。手足の感覚がなくなり、意識が飛びそうになる。
「決して立ち止まるな。止まれば、花は枯れ、お前もまた、春と冬の隙間に閉じ込められる」
ミカゲの言葉が甦る。
――負けてたまるか。
――陽葵が待ってるんだ。
そう自分に言い聞かせた。
病院が見えてきた。目つきの悪い警備員が病院のエントランスの自動ドアの横に立っていたが、お構いなしに中に入る。暖房が効いているはずの院内も、ひんやりと冷たかった。
陽葵の病室のドアの前に立った時、僕は一度だけ大きく息を吸い込んだ。乱れた呼吸を整え、笑顔を作る。最後くらい、かっこいい顔を見せないと。
ドアを開けると、病室は薄暗かった。窓の外の灰色の光だけが、部屋を頼りなく照らしている。
僕はベッドの横に立ち、膝をついた。
「……陽葵」
呼びかけると、長いまつ毛が震えた。彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと目を開いた。酸素マスクの中で、唇が微かに動く。
「……みな、と?」
「うん、湊斗だよ。約束、守りに来た」
僕はコートの前を開け、内ポケットから水差しを取り出した。そこには、奇跡のように鮮やかな、一輪の桜が咲いていた。
病室の白い光の中で、桜は小さな太陽のように輝き、その香りが無機質な空気を一瞬で変えた。
「ほら。春が来たよ」
僕は彼女の顔の近くに花を差し出した。
「……さく、ら?」
「そうだよ。僕たちの桜だ。今年も咲いたんだ」
陽葵は震える手をシーツから出し、花の方へ伸ばした。僕はその手を支え、花びらに触れさせた。
「きれい……。私、見られた。湊斗と一緒に、春、桜、見られたね」
彼女の顔に、血の気が戻ったように見えた。頬が紅潮し、口元に、僕が一番好きだったあの無邪気な笑顔が咲いた。病気の苦しみも、死への恐怖も、今のこの瞬間だけは消え去っているようだった。
「ありがとう、湊斗」
その言葉を聞いた瞬間、僕の体の中に残っていた最後の春の欠片が燃え尽き、消滅した。
――時間だ。
これ以上引き伸ばせば、彼女は苦しむことになる。最高の瞬間のままで、逝かせてあげなきゃいけない。
僕は涙をこらえ、心の中で、裏山の彼方へ向かって叫んだ。
――ミカゲ! 頼む! 春を、世界に返してやってくれ!
その叫びが届いたのか、病室の蛍光灯は眩しいくらいに明るくなり、窓の外で降り続いていた雪が、光の粒子となって空へ舞い上がっていく。
――春が爆発する。
数時間前の冷たさが嘘のように、暖かい空気が窓を突き破って病室に流れ込んでくる。
陽葵の顔が春の光に照らされ、その瞳は桜と同じ色に輝いていた。
陽葵は光の中にいた。
春の急激なエネルギーが彼女の体を包み込む。彼女は苦しむ様子もなく、ただ桜の花を見つめ、満ち足りた表情をしていた。
僕の手の中の一輪の桜が、呼応するようにさらに大きく開き、そして静かに散り始めた。ひらり、ひらりと舞う花びらが、陽葵の頬に落ちる。
「……また、来年ね」
陽葵はそう囁いた。
それは、もう二度と現実にはならない約束。でも、彼女にとっては、未来への希望そのものだった。
「うん。……また、来年」
僕は声を絞り出した。
陽葵の手から力が抜け、僕の手の中に落ちた。彼女の笑顔はそのままに、魂だけが春の風に乗って、どこか遠く、高い場所へと飛んでいった。
窓の外では、街中の雪が一斉に溶け出し、灰色の街が、瞬く間に色彩を取り戻していく。
世界の時間は、ついに動き出したのだ。
その光景を見ながら、僕は遠く離れた裏山で、あの物置小屋が光に包まれて消えていく幻影を見た気がした。ミカゲもまた、春と共に去ったのだ。
「ありがとう、陽葵」
「ありがとう、ミカゲ」
涙が止まらなかった。でも、それは悲しみだけの涙ではなかった。
僕は桜の花びらが舞う病室で、いつまでも陽葵の手を握りしめていた。
季節は巡り、四か月が過ぎた。
七月の半ば。高校の校庭では、夏の日差しがアスファルトをジリジリと焼き、蝉時雨がうるさいほど降り注いでいる。
あの、終わらない三月の後、世界は嘘のように正常に戻った。雪は三日で溶け、遅れていた桜は四月の中旬に満開を迎えた。
学校は新学期を迎え、町の人たちは、数か月前の異常な寒波を、まるで奇妙な集団幻想だったかのように語り合っていた。もちろん、僕はそれが幻想ではなかったと知っている。
裏庭の物置小屋に行ってみたが、そこはただのガラクタ置き場に戻っていた。ミカゲが座っていた木箱も、春の匂いも、もう跡形もない。ただ、小屋の隅に、あの時ミカゲが使っていたガラスの塊の破片のようなものが、キラキラと光っていた。僕はそれを拾い上げ、お守りのようにポケットに入れた。
陽葵のいない夏は、やっぱり少し寂しい。通学路で、ふと彼女の家の方を見てしまう癖はまだ抜けない。でも、僕の中には、満開の桜並木よりも鮮烈な、あの一輪の桜の記憶がある。冷たい雪の中で咲いた、命懸けの春の色。
あの日、陽葵は最後に「また来年ね」と言った。あれは、嘘の約束じゃなかったと思う。
体はなくなっても、季節は巡る。春が来るたびに、桜が咲くたびに、彼女はそこにいる。
ミカゲは僕に教えてくれた。春とは、単なる気象ではなく、「待つこと」であり、巡り来る希望なのだと。
僕はポケットの中のガラスの破片を握りしめた。
僕は今、この夏を生きている。そして、秋を越え、冬を越え、また必ずやってくる春を待っている。
顔を上げ、青々とした葉を茂らせる裏庭の桜の木を見上げた。
「陽葵。来年の春、この桜が満開になったら、一番に見に来るよ」
そう呟き、流れる汗を拭って、夏の光の中へと歩き出した。
(了)
春を盗む人 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou
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