息をしていた

空木 透(うつぎ とおる)

息をしていた

 客席は思っていたよりも静かだった。拍手はちゃんとあったが、音が少なくてすぐに天井に吸い込まれてしまった。私は、いてもいなくても変わらない役だった。台本に書いてある通りに立って、台本に書いてある通りに喋って、何事もなく幕が下りた。それで十分な役。

 着替えを終えて、劇場の裏口から出ると、夜の空気が少し冷たかった。うまく息が吸えずに立ち止まる。

「さっきの」

声を掛けられ、振り返る。知らない人だった。でも、知らない人に見られるのは、舞台の上では当たり前のことだった。

「よかった」

それだけ言われた。上手だったとか、感動したとかじゃない。どこが良かったのかも分からない。でも、その人は私の顔を見てはっきりと言った。

「ちゃんと、息してた」

私はその言葉の意味を考えなかった。考える前に、体の力が抜けた。

 ありがとう、と言ったのかどうかは覚えていない。ただ、家に帰ってから台本を開いた。文字を追っている間、私は私じゃなかった。それが、その日は少しだけ、いつもより楽だった。



 朝は、いつも途中から始まる。目覚ましが鳴った記憶はないのに、気づけば駅までの道を歩いている。考えないようにしているわけじゃない。ただ、考える前に体が先に動く。

 バイト先のシャッターは、私が来るより少し早く開いていた。中に入ると、消毒液の匂いがして昨日と同じ音がした。床を拭く音、レジの立ち上がる音、誰かが奥でため息をつく音。全部、昨日の続きのようだった。

「おはよう」

声に出すと、自分の声が少し遅れて返ってくる。同僚は私を見て、見ていないみたいに頷いた。悪気はないのは分かっている。ここでは、それが普通だ。

 棚に商品を並べながら、手元だけを見る。間違えないように。遅れないように。目立たないように。完璧にやろうとすると、手が震えてしまうから、完璧は目指さない。ただ、失敗しない程度に。それでも、ラベルの向きが少しずれた気がして、直そうとしてやめた。誰も見ていない。でも、見ていないことが逆に落ち着かなかった。

 休憩室の時計が思ったよりも進んでいた。時間はちゃんと流れているのに、私はどこかに置いていかれている感じがする。

「今日、忙しくなりそうだね。」

隣で誰かが言った。私は曖昧に笑った。忙しいかどうかは、私には関係ない。忙しくても忙しくなくても、やることは同じだ。

 ふと、昨日のオーディションのことを思い出す。結果はまだ来ていない。来ないことにももう慣れた。期待しないことが、一番楽だと知っているから。レジの前に立つと、鏡のようなガラスに自分の顔が映った。ちゃんとしている顔だった。ちゃんとしていないと、ここには立てない。

 そのとき、頭の奥で声がした。

『役者なんて一握りの人しか成功しないのだからやめておきなさい』

母の声だった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、事実を教えるみたいな声。

『ちゃんとした道を選びなさい』

私は小さく息を吸って、吐いた。ここはバイト先で、私はレジに立っている。それだけのことだ。

「すみません」

お客さんの声に、体が反応する。ちゃんと息をして、ちゃんとお釣りを渡す。

 台本を読んでいるときみたいに、自分じゃなくなれる場所はここにはない。それでも、私は仕事を続けた。続けられてしまう、ということが少しだけ怖かった。

 仕事が終わる頃には、空がもう夕方の色をしていた。制服を脱ぐと、肩のあたりが少し軽くなる。でも、代わりに何かを落とした気もした。どちらが本当かは分からない。帰りの電車は混んでいた。人の体温と、誰かの香水、スマートフォンの光。目を閉じると、駅名だけが規則正しく流れていく。私はつり革を掴んだまま、数を数えた。降りる駅まであと三つ。

 部屋に戻ると、電気を点けずに靴を脱いだ。カーテンの隙間から外の明かりが少しだけ入ってくる。それで十分だった。机の上に、台本が置いてある。昨日の夜、途中で閉じたままのページ。開くと、紙の匂いがした。印刷された文字は誰のものでもなくて、私のものでもない。だから安心できる。

 台本を読む。声は出さない。頭の中で役の声がする。感情は借り物で、動機は書いてある。間違えても私のせいじゃない。ページをめくるたびに体の内側が静かになる。朝からずっと貼りついていた、ちゃんとしなきゃという言葉が少しずつ剥がれていく。ここでは評価されなくてもいい。結果もいらない。ただ、決められた言葉を、決められた順番で生きればいい。そう思ったところで、背後から小さな音がした。鍵の回る音、ドアの閉まる音。私は振り返らなかった。

「ただいま」

声だけが先に届く。

「おかえり」

台本から目を離さずに返すと、足音が近づいてきた。恋人は私の後ろに立って、少しだけ距離を保ったまま止まる。その距離が、いつも同じであることになぜか安心する。

「今日はどうだった?」

聞き慣れた問いだ。答えも、大体決まっている。

「まあまあ」

そう言うと、恋人は何も言わずに頷いた。台所の方で、コップに水を注ぐ音がする。しばらくして、私の横にそれが置かれた。

「ちゃんと息して」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し緩んだ。

あの日の夜と、同じ言葉。同じ声、同じ高さ。私は小さく息を吸って、吐いた。

「してる」

それを聞いて、恋人は安心したように微笑む。その笑い方が、少しだけ遅れた気がした。気のせいだと思おうとして、やめた。

「無理しなくていいからね」

その言い方は、前からそうだった。正解を探さない。励まさない。否定もしない。だから私は、ここに帰ってきていた。恋人はそれ以上何も言わず、ソファに腰を下ろした。テレビもつけない。ただ、同じ部屋にいる。私は台本に視線を戻す。役はここで、嘘をつく。私はその嘘を指でなぞるようにして、目を伏せた。

その夜は、それで十分だった。母の声は聞こえない。バイト先の音もしない。決められた言葉のある世界で、決められた順番が守られている限り、私はまだ、大丈夫だった。



 バイト先では、誰も怒鳴らない。だから余計に、何が悪いのか分からなくなる。

「この前のシフトさ、ちょっときつくなかった?」

休憩中、向かいに座った人が言った。声のトーンは軽い。相談みたいな顔をしている。

「大丈夫です」

私は反射的に答えた。大丈夫かどうかは分からないけれど、困っている顔を向けられるとそう言ってしまう癖がついている。

「助かるよ」

その一言で、話は終わった。助かったのは誰なのか考える前に、休憩時間は終わる。

 午後は忙しかった。レジが詰まって、声をかけられ、謝って、また動く。ミスはしていない、していないはずだ。でも、同僚の視線が一度だけ、私の手元で止まった気がした。

「さっきの、もう少し早くできたと思う」

責める言い方じゃなかった。アドバイス、という形だった。

「すみません」

謝ると相手は少し驚いた顔をして、

「いや、責めているわけじゃなくて」

と言った。分かっている。でも、謝る以外の言葉が見つからなかった。

 その日の帰り道、足が重かった。体も、脳内も。私がいなければ誰かが困る。でも、私がいても、少し邪魔なのかもしれない。どちらも本当な気がして、どちらも否定できない。スマートフォンが振動する。目をやると、この前のオーディションの結果と、いつも通りのお祈りが書かれていた。

 夜、いつも通り台本を開こうとして、手が止まった。文字が頭に入ってこない。ページをめくる指先が、さっきから微かに震えている。私は役を生きる前に、自分として立っていられなくなってしまった。



 病院は、思っていたよりも静かだった。待合室には自分と同じような顔の人たちが座っていて、誰とも目が合わない。問診票を書くのに時間がかかった。眠れない、食べられない、やる気が出ない。どれも当てはまるけれど、丸をつけるたびに言い訳をしている気分になる。

 診察室で、医師は淡々と話した。

「抑うつ状態ですね。うつ病であると考えていいと思います。」

その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。重い言葉のはずなのに、なぜか少し楽になった。名前がついた。説明できない不調に、理由が与えられた。処方箋を受け取って病院を出ると、外はまだ昼前だった。時間だけがちゃんと進んでいる。

 家に帰ると恋人がいた。ソファから立ち上がり、神妙な顔つきで私の顔を見る。

「どうだった?」

「うつ病だって」

そう言うと、恋人は一瞬だけ黙ってからそっか、と言った。それ以上踏み込まない。でも離れもしない。

「無理しなくてもいいよ、今は」

そう言って、私の横に座る。肩が触れない距離。

「できないこと、増えるかもしれないけど」

「いいよ」

即答だった。迷いのない声。

「できるときに、できる分だけでいい」

その言葉は、正しかった。優しくて、間違いがない。私は無言で頷いた。安心していいはずなのに、胸の奥に小さな違和感だけが残った。寄り添われている。でも、どこかで対応されている気がした。

 その夜、処方された薬を飲んで横になると、眠気が来た。意識が沈む前に、恋人の声が聞こえる。

「ちゃんと、息してる?」

私は目を閉じたまま、頷いた。同じ言葉、同じ声。それなのになぜか、少し遠くに感じた。



 朝と夜の区別が、少しずつ曖昧になっていった。目は覚めているのに、体が起きている感じがしない。眠っているわけでもない。ただ、横になっている時間が増えた。カーテンを開ける気力がなくて、部屋はいつも薄暗い。時間は、恋人の生活音で判断するようになった。シャワーの音、ドアの開閉音、キッチンで何かを切る音。

「起きてる?」

声をかけられると返事を探す。起きている、という言葉が正しいのか分からない。

「うん」

そう答えると、恋人はそれ以上何も言わない。前まではそれがありがたかった。

 食事が目の前に置かれる。食べられるかどうかは聞かれない。聞かれない方が、楽だった。箸を持つと、手が重い。一口食べて、味を感じる前に疲れてしまう。それでも、恋人は私を見ないようにしていた。見ないことで、気を遣っているのだと分かる。

「無理しなくていい」

その言葉が、最近は少し遠くで鳴る。意味は分かっている。正しい。でも、私に向けて言われている感じがしなかった。

 洗濯物が溜まっていく。お風呂に入る順番が分からなくなる。昨日と今日の区別がつかなくて、同じ服を着ていた。恋人は何も言わない。代わりに、淡々と家事をする。それが優しさだと、頭では分かっている。それなのに、一緒に生活しているはずなのに、私だけが生活から外れていく。

 ある日、恋人が私の代わりに病院へ電話をかけた。予約を取り直して、薬の相談をして、丁寧にメモを取っている。でも、その横顔を見ていると、私のいない生活でも、この人は問題なく回ってしまう気がした。

 夜、布団に入っても眠れない。目を閉じると、頭の中で同じ場面が繰り返された。舞台の上で、照明を浴びている自分。客席は暗くて、顔は見えない。でも、誰かが見てくれているという感覚だけがあった。今はその感覚がない。

「ちゃんと、息してる?」

暗闇の中で恋人が言う。声は近いはずなのに距離がある。

「してる」

答えると、少し間があって

「よかった」

と返ってくる。その間が、前よりも長い気がした。あるいは、私の感覚が遅れているだけなのかもしれない。私は天井を見つめた。本物かどうか、分からない。分からないのに、確かめる力も残っていない。ただ、何かが、少しずつ合わなくなっている。それだけは、はっきりしていた。



 違和感は集めようと思えばいくらでもあった。声の高さ、返事の間、水を飲む順番、私の名前を呼ぶときの語尾。前までは気にしなかった。気にする必要がなかった。今は、それが全て再現に見えた。恋人は、同じことを同じようにしている。でも、同じであること自体が、不自然だった。

「前はこうじゃなかった」

そう言うと、恋人は困った顔をした。

「前っていつ?」

その問いに、私は答えられなかった。いつから違うのか、ではない。違うと分かった時点でもう戻れない。

「君、違う」

言葉にすると、空気が変わった。恋人は笑おうとしてやめた。

「何が?」

「全部」

私の声は落ち着いていた。感情は、もうそこにはなかった。

「同じことをしているだけ、同じ言葉を言っているだけ」

「それの何が悪いの?」

恋人の声が少しだけ強くなる。

「悪くない」

私は頷いた。

「だから、君は偽物なのだと思う」

 沈黙が落ちた。恋人は、何か言おうとして口を閉じた。その夜、私たちは別々に眠った。眠れたかどうかはわからない。

 朝、部屋は静かだった。私は自分の荷物をまとめた。多くはない。最初から、ここは仮の場所だった。机の上に、メモを残す。白い紙に、黒いペンで。ドアを閉める前、振り返ることはしなかった。振り返ったら、確かめてしまう気がした。私が消えたあとも、この家は相変わらず続くだろう。それが、一番正しい。そう思えた。



 夢をみていた。小さな劇場だった。客席は暗くて、数も多くない。舞台の上で、あの人が立っている。役名は思い出せない。台詞ももう聞こえない。それでも、目だけははっきりしていた。ちゃんと、息をしている。そう思ったところで夢が途切れた。目を開けると朝だった。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。どこからも音が聞こえないのが少し変だったけれど、どれもまだこれからだと思った。呼びかけようとして、やめた。あの人は、起きている時と起きていない時の区別が最近あまりつかなくなっていた。

 リビングに出ると、部屋は静かだった。物の位置は、昨日と同じ。床も、ソファも、何も変わっていない。変わっていないことが、少しだけ胸に引っかかった。机の上に、紙が置いてあった。白いメモ用紙。いつも、買い物リストを書くのに使っていたやつだ。そこに、文字があった。

『さようなら』

それだけだった。

 読み間違えかと思って、もう一度見た。文字が増えることはなかった。裏返しても、何も書いていない。理由も、説明も、なかった。声を出そうとして喉が鳴った。名前を呼ぶことはしなかった。呼んでも、返事はないとどこかで分かっていた。

 部屋を見回す。歯ブラシが一本減っている。クローゼットの端が、少し空いている。それだけだ。泣くほどの証拠も、怒れるほどの痕跡も、何も残っていない。ただ、いなくなったという事実だけが静かに置かれている。

 夢の中の舞台を思い出す。終演後、裏口のそばで声をかけた夜。

「よかった」

それだけ言った。上手だったとも、感動したとも言わなかった。ちゃんと、息をしていた。それがなぜか忘れられなかった。同じ言葉を何度も言った。同じ声で、同じ高さで。それでも届かなかったのだと今なら分かる。

 机に残されたメモ用紙をもう一度見る。五文字。短くて、正しくて、これ以上足すことも、引くこともできない。

 窓の外で、誰かが歩く音がする。世界は、何事もなかったみたいに続いている。この家も、この朝も。それでも、あの人がいないという事実だけが、何度確かめても変わらなかった。


   

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