凪は雪の街をゆく

@Tofu_AI

第1話:熱力学の拒絶

 石畳が湿り、生温い風が路地を吹き抜けていく。

 北国にあるはずの街「シュタール」は、今、奇妙な熱気に包まれていた。本来なら腰の高さまで雪が積み上がり、街全体が白銀に染まっている時期だ。しかし、目の前の景色は灰色だった。溶け残った雪が泥と混じり、汚れた水たまりを作っている。


「……おかしいですね」


 凪(なぎ)は、茶色のロングコートの襟を少し緩めた。

 彼女は街の中央広場に立ち、手にした小型の温度計を見つめる。針は摂氏十五度を指していた。空には厚い雲が垂れ込め、湿度も十分に高い。気象学的に言えば、今すぐにでも大雪が降って然るべき条件だ。それなのに、地上に降りてくるのは雨ですらない、ただの「湿った空気」だけだった。


「お嬢さん、観光かい? 悪いが、今年の雪まつりは中止だ」


 肩を落とした男が通りがかった。祭りの実行委員だろう。手には、出番を失った氷彫刻用のノミが握られている。


「どうして中止なんですか?」

「見ての通りさ。雪が降らない。それどころか、地面が妙に温かくて、運んできた雪も片っ端から溶けちまう。山の神様がヘソを曲げたとしか思えんよ」


 男は力なく笑って去っていった。

 凪は周囲を見渡す。確かに地面から、陽炎のような揺らぎがわずかに立ち上っている。彼女はしゃがみ込み、素手で石畳に触れた。体温よりも明らかに高い。


「神様の機嫌の問題じゃありませんね。これは、物理法則の『記述ミス』です」


 凪は立ち上がり、コートのポケットから一冊のノートを取り出した。

 彼女がこの街に来たのは偶然ではない。各地で起きている「理(ことわり)のバグ」を修正して回るのが、彼女の仕事であり、旅の目的だった。


 彼女は広場の隅にある古いマンホールを見つけた。

 この街には、地下の温泉水を利用した融雪システムが張り巡らされている。凪はマンホールの蓋を開け、暗い穴の底を覗き込んだ。懐中電灯で照らすと、配管の一部に青白く光る結晶がこびりついているのが見えた。


「魔力残渣による、熱交換効率の異常上昇……。誰かが意図的に、地下の熱を地表へ過剰に放出するように法則を書き換えていますね」


 犯人の目星はつかないが、原因は判明した。

 このままでは地表の温度が下がりきらず、雪は地上に届く前に蒸発し続ける。


 凪は時計を見た。祭りの開始まであと二十分。

 彼女は広場の中心に戻り、大きく息を吸い込んだ。


「さて、始めましょうか」


 凪が右手を空中に掲げる。

 すると、彼女の周囲に青白い光の文字が浮かび上がった。それは魔法陣というよりも、複雑な数式と幾何学模様が組み合わさった「定義文」だった。


『対象領域:半径五百メートル。現象:熱伝導率の再定義』


 凪の瞳が、淡い光を帯びる。

 彼女の脳内では、膨大な計算が秒単位で行われていた。空気の密度、比熱、分子の運動エネルギー。それらをすべて把握し、本来あるべき数値へと上書きしていく。


『一八五〇年、ルドルフ・クラウジウスの提唱した熱力学第二法則を一時的に拒絶。エントロピーの増大を反転させ、この空間の熱を地下へ強制還流(フィードバック)します』


 凪が指先で、空中に浮かぶ数式の一部を弾いた。

 カチリ、と硬い音が響く。まるで世界という機械の歯車が、強引に噛み合わされたような音だった。

 直後、劇的な変化が起きた。

 生温かった風が、一瞬で肌を刺すような冷気に変わった。石畳に溜まっていた水が白く凍りつき、蒸発していた水分が結晶となって空中で形を成していく。


 ひらり、と白い欠片が凪の鼻先に落ちた。

 それはすぐに、無数の白い群れとなって街に降り注いだ。


「降ってきた……雪だ! 雪が降ってきたぞ!」


 どこからか歓声が上がった。

 建物の中から人々が飛び出してくる。街を覆っていた重苦しい空気は、一瞬で歓喜へと塗り替えられた。空からは、これまでの遅れを取り戻すかのような大粒の雪が、しんしんと降り積もっていく。


 だが、その喧騒の中心で、凪はガクガクと膝を震わせていた。


「う……あ……」


 彼女はよろよろと歩き、近くのベンチに倒れ込むように座った。

 視界がチカチカする。脳が熱を持ち、思考が霧に包まれていく。法則を書き換えるという行為は、人間の脳にとって致命的な負荷(オーバーロード)だ。


「糖分……。至急、糖分を補給しないと、私の脳が焼き切れます……」


 震える手で鞄を探るが、予備のチョコレートは昨夜食べてしまっていた。

 意識が遠のきかけたその時、目の前に湯気の立つ紙袋が差し出された。


「お嬢さん、あんたがやってくれたのかい?」


 先ほどの実行委員の男だった。彼は信じられないものを見るような目で凪を見つめ、それから手元の袋を差し出した。


「これ、屋台で出し始めたばかりの『揚げドーナツ』だ。砂糖をいつもの三倍まぶしてある。礼と言っちゃなんだが、食べてくれ」


 凪は返事も待たずに袋を奪い取った。

 中には、真っ白な砂糖がこれでもかとまぶされた、揚げたての生地が入っている。彼女はそれを口いっぱいに頬張った。


 暴力的なまでの甘さが、舌を通じて脳に直接染み込んでいく。

 焼き付くようだった思考が、ようやく冷めていくのが分かった。


「……生き返りました。この街の砂糖は、いい仕事をしていますね」


 口の周りを砂糖だらけにしたまま、凪は満足げに小さく笑った。

 降り積もる雪の中、祭りの鐘が鳴り響く。


 凪はまだ重い体を引きずりながら、立ち上がった。

 問題は解決した。ならば、ここに長居する必要はない。


「ごちそうさまでした。雪まつり、楽しんでください」


 驚く男を置いて、凪は再び雪の街を歩き出す。

 彼女の足跡は、降り続く雪によってすぐに消されていった。

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