やさしさの廻り道

篠崎 時博

やさしさの廻り道

 颯汰そうたがまた、熱を出した。


 電話が鳴ったのはちょうど先方との打ち合わせの日程を詰めているところだった。

 時間は午前11時半過ぎ。嫌な予感がする。

 電話をとった部下は、「ええ、はい、いますよ」という返事の後、チラッと私を見た。

 あぁ、またか。

 手を伸ばして受話器を受け取ると案の定、保育園からの電話だった。

「あの、颯汰君がですね、ちょっとお顔が赤くて。それでその、一応お熱を測りましたら38度ありまして……」

 電話口の方から、若い先生の申し訳なさそうな声が聞こえる。

「すみません。……あと少ししたら、出ますので、はい。……はい」

 私の返事を聞いて察したのか、通話が終わるや否や、最初に電話を受け取った部下――、真口まぐちさんは、「お子さん、やっぱり熱ですか?」と聞いてきた。

「ごめんなさい……」

「いいの、いいの。早く行ってあげてください」

 真口さんの口調は優しい。けれど、こちらの顔を見ずにパソコンを見ながら答える様子からは、内心は迷惑だと思っていることがなんとなく分かってしまう。

「……すみません」

 相手先にお願いをして、日程調整は夕方にリモートで行うことになった。

田嶋たじまさん、またか~」「もう何回目?」

 フロアの扉を閉めた先でそんな声が聞こえた。

 その場を逃げるように早足で会社を去る。

 時間の確認ついでにスマホを見ると、11時過ぎから数件の着信歴があった。思わずため息をついた。


「遅くなってすみません。颯汰の熱は……」

 保育園に着いたのは13時近い時間だった。

 バスが渋滞で遅れた関係で、予想以上に時間がかかってしまった。

「あぁ、田嶋さん、良かった……!」

 迎えて来たのは颯太の組を担当している美雨みう先生。今日は淡いピンク色のエプロンをしている。

 颯太は今年で5歳。年長組となると先生もどことなく慣れてくるのか、優しいけれどしっかりした雰囲気がある。

「熱が高くて辛そうだったので、頭を少し冷やしてました。ちょうど今眠ってるところですね」

 美雨先生が案内した先には、頬を赤くした颯汰が眠っていた。寝息が少し荒く見えるのは、きっと熱があるせいだ。

「ちょっと楽になったかな?颯汰くん、お母さんだよ〜」

 美雨先生の呼びかけで、颯汰は眠そうな身体をゆっくりと起こした。

「すみません、いつも……」

「まぁまぁ、お母さんも大変ですよね」

「えぇ、まぁ」と、歯切れの悪い返事をしながら、だるそうによたよたと歩いて来る颯汰を迎える。

 上着を着ようとするも、自分では上手く袖が通せないようで、軽く腕を掴んで袖を通させた。

「お仕事抜けるの大変でしたね。ご家族さんは……」

 と言いかけて美雨先生はハッした表情を見せた。

「あ……、えと、すみませんでした……」

「……いえ」

 無理もない。離婚したのはわりと最近だ。

 情報は伝わっていたけれど、きっと忘れていたのだろう。

「ありがとうございました……」

 颯汰をおんぶして、私は保育園をあとにした。

 

 急な熱。もしそれが感染症なら、きっと園内に一気に広がってしまう。

 あまり長い時間滞在させることはしたくないのだろう。出来たら早くに迎えに来てほしい。

 私が彼女の立場なら同じことを思う。

“じゃあ代わりに誰かを”

 仕事が抜けるのが大変なら、来るのに時間がかかるようなら頼れる他の大人を。

 そう考えるのがきっと普通だ。

 けれど私にとってはそれが難しい。

 

 別れた夫は、結婚している時から育児には協力的でなかった。その上、出張と称して不倫をしていたことが発覚した。それが1年前。

 彼の両親は謝ってくれたが、私は許すことは出来なかった。

 一方、私の両親はというと、遠方にいて、母は今、父の介護で精一杯だ。

 お金が十分にあれば、こんなに悩まずに済むんだろうな。

 そんなどうしようもないことを思っているうちにクリニックに着いた。


 颯汰の熱は流行りの風邪と診断された。

「寒くなってきたからね、体調崩す子が多いんだよ」

 かかりつけの医者はポチポチとパソコンで打ち込みながらそう言った。

 水分をとって様子を見て、明日も高熱が続くようならまた来るように。その際にはインフルエンザの検査を行うと。それだけ言うと、医者は次の子供の名前を呼び出した。


「お熱出て、辛かったね……」

 帰宅しパジャマに着替えた後、颯汰は何も言わずにひしっと私の体を掴んだ。

 小さくて丸い、でも確かに熱を持っている颯汰の頭。私はその頭を優しくそっと撫でる。

 撫でながらも私の頭の中は仕事のことでいっぱいだった。

(またリスケか……)

(明日、先方に謝らなくちゃ)

(リモート会議中に、颯汰が起きなきゃいいけど……)

 こんな時にこんなことを考えてしまうなんて、つくづく嫌な母親だと思う。


 仕事と子育て。

 今やほとんどの母親はそれをこなしている。

 そしてシングルマザーの人たちも、世間にはそれなりにいる。

 生きていくことも、子供も育てることもどちらも大事だ。

 どちらも手なんが抜けない。抜いてはいけない。

 でも……、迷惑もかけたくない。


 数日後、颯太は中々布団から起きてこなかった。様子を見に行くと、

「ママ、なんかあつい……」

 のそのそと起き出した颯汰がぼんやりとした顔で言ってきた。

「え……」

 おでこを触る。言われた通り、確かに熱い。

 急いで職場に連絡する。

 電話口の相手は去年うちの職場に転職して来た五十嵐いがらしさんだった。

 仕事は早いが、話はしない。常にどこかぶっきらぼうな感じがある人だ。

「あぁ、はいはい、休みですね。分かりました。やっとくので」

 そう言うと彼はブッと唐突に切った。

「はぁ……」

 流石に呆れてるんだろうな。上司のくせにこんなに何度も休むから。彼の方が何倍も働いているだろうに。

 横を見ると、颯汰がもそもそとパジャマのボタンを外している。

「颯汰、もう、いいよ。ママがやるから……」

 私がやったほうが早い。

 着替えはどれでもいい。汗をかくだろうし、お気に入りのじゃないほうがいいはず。

 タンスの中から着ていく服を選ぶ。

「颯汰はどうしていつも熱を出すんだろうね……」

 他のママの話を聞く限り、園に通う他の子はこんなに熱を出さない。

 クリニックにもしょっちゅう行かないし、仕事をこんなに休んだりしない。颯汰は私を――、

「私を困らせたいんだよね……」

「……ごめんなさい」

 後ろから小さな声がしてハッとした。

(私、今、声に出てた……?)

「あ……」

 振り向いた先、俯いたままの颯汰は何も言わなかった。

「ごめん……、違うよ」

 その後も颯汰は何も言わなかった。大人しく服を着て、自転車に乗って、そのまま診察を受けた。

 前回の熱からそんなに経ってないせいもあり、今回はインフルエンザの検査も行ったけれど、結果は陰性だった。

 早くに対応したので、翌朝には熱は引いていた。

 けれどその後も颯汰は、私の顔を見ようともしなかった。

「はぁ……」

 私はなんてことを言ってしまったのだろう。


「皆さん、先日はすみませんでした」

 職場に着いて早々、私はフロアにいる人たちに頭を下げた。

 昨日代わりに仕事をやってくれた五十嵐さんは、

「いいですよ、別に……」

 と電話口と変わらずぶっきらぼうに答えた。

「気にしていない」と言われても、強面の彼の顔はどうも怒っているように見えてしまう。

(また、迷惑かけちゃったな……)


「早く上がってすみません」

「休んでごめんなさい」

「ご迷惑かけました」

 母親と言うのは、親というのは、お金を稼ぐのが仕事じゃない。きっと謝るのが仕事なんだ。

 子供を産んでから思う。ずっと私は頭を下げてばかりだ。

 それとも、颯汰だからなんだろうか。

 けれど、産んだのも、離婚を選んだのも颯汰のせいじゃない。私が決めたことだ。

 だからきっとこんなにも苦しい。


 ちょうど15時になる頃だった。スマホのバイブ音がした。発信先をみると園からだった。

「田嶋さん、この仕事は俺がやりますよ。俺やった方が早いんで」

「え……」

 察したのか、私のデスクの上の資料をザザッと取って、五十嵐さんは言った。

『俺がやった方が早いんで』

(そうだよね、うん、分かっている。でも――)

「……ありがとう。でも、今日はいいよ。明日やるから」

(もう誰にも迷惑をかけたくない……)

「分かりました……」

 しぶしぶと自分のデスクに戻る五十嵐さんと代わるように

「田嶋さん、お子さんって本当に毎回風邪なんですか?ちょっと熱、多すぎません?」

 真口さんが言った。声は落ち着いているが、どこか苛立ちを含んでいるように聞こえる。

「え……?」

 疑うのも無理はない。実際それなりに休んでいる。けれど、熱が出ているのは本当で、決して嘘ではない。

 事実、彼女に迷惑をかけている時点で、何と返したらいいか分からない。

 言葉に詰まったその時だった。

「……子供って、思っている以上に体調崩すもんですよ」

 五十嵐さんがぼそっと言った。

 加えて「真口さんは子供のとき、滅多に風邪引かなかったんですね、羨ましいくらいです」と、今度ははっきりと言った。

「なっ……」

 彼の嫌味ともとらわれる発言で気まずくなったのか、真口さんはそれ以上言わなくなった。

「あの……」と私が真口さんに声をかけようとしたけれど、「もう、いいです。すみませんでした!」と強い口調でデスクから離れてしまった。

(五十嵐さん、私を庇ってくれた……?)


 その日の午後、休憩室に立ち寄ると、コーヒーを飲んでいる五十嵐さんと鉢合わせた。

「あの、さっきはありがとう」

 礼を言うと、五十嵐さんは眉をひそめた。

「その、庇ってくれて……?」

 と言い直すと、

「……あれは別に、庇ったつもりじゃなかったんですけど」

 と彼は真顔で答えた。

「え、あ、そうなの?……でも助かったから、ありがとう」

 相変わらずむすっとした顔のまま、彼はカップのコーヒーを一口飲んだ。

(庇ったんじゃなかったんだ。気のせいか……)

 私が去ろうとした時だった。

 五十嵐さんが「俺……」と言いかけた。

「……俺こう見えて昔、身体弱かったんですよ」

「えっ……?」

 ゆうに180センチは超える身長に、太ってはいないが、ややガッチリ体型の彼の姿からは、その告白は信じがたいものだった。

「男の子ってすごく成長するのね……」

「スポーツやってたんで」

「なるほど……。そっか、颯汰も、うちの子も何か習わせた方が、身体も強くなるかも」

 そう言って去ろうとすると

「あのー、その、体力とかの話をしたいんじゃなくて……、俺も昔しょっちゅう学校とか休んでたって話で……」

 コップの奥を見つめながら五十嵐さんは話を続けた。

「親父は病気で早くに逝ったし、祖母も祖父も農家で忙しくて頼るの難しくて、だから基本はお袋が俺の看病してたんです。仕事の合間をぬってまで」

「そう、なんだ……」

 その話はどこか今の私と重なる気がした。

「田嶋さん、仕事抜けるときも休むときも、いつもすごい謝っているじゃないですか。その姿を見てると、なんだかお袋が謝ってるように見えてきちゃって」

「それは……」

「俺も風邪を引きたいわけじゃない。休みたいわけじゃない。……子供の頃、熱を出す度に走って幼稚園に迎えに来るお袋を見ても、安心より申し訳なさが勝つんです。仕事が忙しかったことも、わざわざ抜けて来ていることも知っていたから……」

「だから――」と言いかけて、一旦彼は口をつぐんた。

「だから……、田嶋さんが申し訳なさそうに仕事をしている姿を見ると、あの時熱が出た自分もお袋も、会社に、世間に悪いことしていたような気になるんです」

「そんな……。五十嵐さんもお母さんも悪いことなんてしてないじゃない……」

「分かってますよ。俺も悪くないと思いたい。……だから、俺、助けてあげたいんです。いつかの自分もお袋も」

「五十嵐さん……」

「そういう訳で、あれは庇ったんじゃないです。いつかの自分を、悪くないって認めるための、助けてあげたいだけの、ただの自己満です」

 常に頭を下げる自分の姿は、彼の子供時代をこれまでを、彼の母親が彼のためにしてきたことをどこかで否定してしまっていたのだろう。

「ごめんなさ――」と言いかけたところで

「田嶋さん、違います」

 と遮るように彼は言った。

「……え?」

「謝る代わりに、

「え、えと……、お、お願いします……?」

 そう言うと、

「頼られましたからね、仕事を引き受けますよ」

「むん!」と気張ったような顔で彼は答えた。

「ふふっ」

 その様子がなんとなくおかしくて、私は思わず声を出してしまった。

「ちょっと……、笑うところじゃないですよ」

「ごめん、ごめん……」

 むすっとした顔は変わらない。だけど、今なら分かる。少しだけ感情表現が苦手なだけなのだと。


 私は一人で頑張りすぎてたのかもしれない。

『私を困らせたいだけなんだよね?』

 思わず口に出た言葉。ずっと困らせていたのは、きっと私自身だった。

 子育ても、仕事も、誰にも迷惑かけずに1人でやらなくては、なんて。そんなことをどこかで思っていた。

 でもそれは、きっと不可能に近い。

 家族でなくてもいい。少しだけ、誰かを頼ってもいいのかもしれない。


「ありがとう、少し気持ちが軽くなった」

「そう、ですか……。それは何より」

 なんとなく彼が恥ずかしそうな顔をした――、ような気がしたけれど、気づいたときにはいつもの顔でフロアにほうに戻ってしまった。


 仕事が終わり、いつものように保育園まで迎えに行く。

「颯汰、お待たせ」

 ぎゅっと抱きしめる。少し顔を離したとき、颯汰が私の顔を見て言った。

「ママ、なんかいいことあった……?」

「え……」

 子供は鋭い。だけど今は悪い気持ちではない。私は颯太をもう一度抱きしめた。

「颯太、この間はごめんね……。颯汰は悪くない。ママがイライラしてただけ。ママを困らせていたのはママだった」

「そうなの……?」

 颯太は不思議そうに首を傾げた。

「ママはね、颯汰のことが一番大事で、颯汰のことが大好きだよ」

「うん……!」

 久しぶりに颯汰の笑顔を見た気がした。


 子育ては楽ではない。

 きっとこの先も、颯汰は度々熱を出すだろう。

 その度に私も休んだり早退することになるだろう。

 仕事と子育てはこの先もずっと続く。

 誰かに頼りながら。でもいつかはきっと、頼られて。


『いつかの自分とお袋を助けてあげたいから』

 自己満なんて言っていたけれど、五十嵐さんは十分優しいと思う。

 その優しさに私自身がどこかで助けられたように、いつかは私が誰かを助けたい。


 その夜の読み聞かせた本には、森に住んでいるゾウが転んで泣いてしまうシーンがあった。

「ゾウさん、かわいそうだね」

 ゾウが泣いている絵を見ながら颯汰がぽつりと言った。

「そうだね……」

 リス、ウサギ、クマにウマ。絵本に登場する他の動物たちよりも、ゾウは体が大きい。けれど、いくら体が大きくても痛いものは痛いのだろう。

「痛いなら、治してあげなくっちゃね」

「そうだね」

 どう治すのか聞いてみると、消毒してから包帯で巻くのだそうだ。思ったよりしかりしている。

「あついときはね、こおりで冷やすの。あとね、元気になりますようにって、あまいジュースあげるの!」

 思わず笑ってしまった。それはいつも私が颯汰にしてあげていることだったからだ。

「そっか、そっか。颯太もそれで元気になるもんね」

「うん……!だからね今度はね、僕がそうしてあげるの」


『だから、俺、助けてあげたいんです。いつかの自分もお袋も』

 ふと、五十嵐さんの言葉を思い出す。

 颯太はいつかの五十嵐さんみたいになるのかな。

 助けて、助けられて。そうやって少しの優しさでこの世界はまわっているのかもしれない。


 すっかり寝てしまった颯太の頭をそっと撫でる。

 少しだけ優しい世界が、私にも君にも、この先にありますように。

 今度はそう願いながら。


【完】

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やさしさの廻り道 篠崎 時博 @shinozaki21

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