白華流離奇譚〈五〉時巡りの花 −3−
風花《かざはな》
祝祭の底にて
その日、地下牢の壁がかすかに震えた。
耳を澄ませば、鐘の鳴る音、軍楽隊の奏でる祝祭用の華やかな旋律、そしてたくさんの足音が、確かな振動として伝わってくる。
それがなんのための音なのか、彼は一瞬だけ考えた。
(これは……軍事パレード、か……?)
地下牢に囚われたバルセリウスは、かつて幾度となく命じた音を思い出していた。
やがて、鉄扉の向こうで足音が止まった。見張りの兵士が交代したのだ。
中堅どころの、まだ若いと言ってもいい年齢の兵士は、交代する直前に、牢の中のバルセリウスに軽く一礼した。
その仕草に、少しだけ会話をしてみる気になった。
「……今日は、外が騒がしいな」
兵士のかすかな動揺が伝わってくる。返事はない。そう思っていたが、ややあって兵士はためらいがちに口を開いた。
「皇太子・レグルス殿下が……本日、皇帝に即位されました」
「……なるほど」
それでは、これは新皇帝の誕生を祝う、祝祭の響きなのだ。
(もう、あれから三ヶ月が経ったのだな……)
帝国軍元帥として武力の道を選んだバルセリウスは、クーデターの失敗と、一人の女武人との決闘によって敗れ去った。
平和と秩序を掲げる皇太子・レグルスは、公正な裁きをくだし、彼からすべてを奪った。
バルセリウスは一度も反論しなかった。犯した罪は、事実であるが故に。
彼の軍国主義は否定された。だが、帝国を想う彼の心までもが否定されたわけではない。それは、彼に敬意を払い続ける兵士の態度を見ても明らかだった。
バルセリウスがこの牢に入れられてから、牢の状態は劇的に改善された。以前は灯りもないような重苦しい場所だったが、今は壁掛けの燭台に火が灯され、掃除が行き届いて清潔だ。与えられる食事の内容も、粗食ではなく栄養面を重視したものに変わっていた。
ふいに兵士がポツリと呟いた。
「……帝国は、変わるそうです」
そうだろう、とバルセリウスは思った。この地下牢を見ればわかる。以前の帝国ではあり得なかったことだ。
「今度は、守るための軍になるそうですよ」
「……そうか」
それ以上、言葉は出なかった。彼が夢見た帝国とは違う。だが、それでも──滅びではない。
兵士は手にスキットルを持っていた。彼はバルセリウスの視線に気づくと、照れたように答えた。
「自分も祝杯をあげたかったのですが、職務中なので、酒ではなく水を持参しました」
それから、バルセリウスに向き直る。
「……飲みますか?」
それは彼の純然たる厚意から出た言葉だった。
「……少し貰おう」
バルセリウスは差し出されたスキットルを受け取り、口をつける前に軽く掲げて呟いた。
「皇帝陛下に──幸あれ」
それからひと口だけ水を含んだ。冷たく、味気なく、それでいて、確かに生きるためのものだった。
兵士にスキットルを返すと、兵士も同じように軽くスキットルを掲げて、それから口をつけて中身を飲んだ。
彼はなにも言わなかった。
地上の祝祭の音は、今もなお、鳴りやむ気配はない。
地下牢には、静けさと、冷たい水の感触だけが満ちていた。
それでも帝国は、確かに、次の時代へ進んでいる。
祝われなかった男は、冷たい水とともに、静かに未来を受け入れた。
白華流離奇譚〈五〉時巡りの花 −3− 風花《かざはな》 @kazahana_ricca
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